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7月14日革命記念日

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  パリのカフェといえば、エスプレッソである。キュリー研のカフェにもイタリアのメーカー「ラバザー」のエスプレッソマシーンが置いてあり、そこで同僚達と談笑したり議論したりする際も、一人思索にふける時も、苦いエスプレッソに砂糖を多めに入れて飲むのが習慣であり、その味をこよなく愛していた。ただし、その頃はエスプレッソの飲みすぎで睡眠障害と胃腸の痛みに悩まされていた。  晩は革命記念日の花火をみるため、群衆が集まるトロカデロ広場に友人ら3人で座り込み、エッフェル塔の後ろから打ち上げられる花火を観賞した。日本の花火を見慣れている日本人の目からは、迫力や美しさの点で多少見劣りする感じがしたが、ライトアップされたエッフェル塔と花火のコラボレーションはなかなかの見ものだった。この時、再来年とその翌年もこの日をパリで迎えることになるとは、予想だにしていなかった。  その帰り、トロカデロの地下鉄ホームに降りた直後、フランスらしいアクシデントに遭遇した。突然地下鉄の入口が封鎖され、かつ地下鉄も運行停止のまま、30分程多くの乗客とともにホームに閉じ込められたのである。職員の段取りミスか連絡・指示によるミスだと思われるが、まるで自分は悪くないようにのんびりとトランシーバーで対応している職員に、「なんだこれは!ちゃんと仕事しているのか!」と言い寄る人もいたが、群衆の大半は、フランスでは特に珍しいことではないとでもいう感じで、世間話をしながらホームの入り口が開かれるのを待っていた。一分の遅延でも「ご迷惑をおかけしてまことに申し訳ありません」と謝る日本の地下鉄を思い出し、日本人の時間に対する几帳面さ、悪く言えば神経質さを実感した。  この頃、後にフランス滞在を通じ最も影響を受けた作曲家となったフランシス・プーランクについての書「パリのプーランク」を読破した。他の歴史的作曲家達の例にもれず、プーランクも裕福な家のおぼっちゃまであったらしい。父親は実業家で、ローン=プーランク社という化学系メーカーを創業した人で、今では日本にも支社があるらしい。昨日仕事で読んだ論文の著者の所属が"Rhone-Poulenc Recherches"(ローン=プーランク社研究部署?)であった。趣味で学んだ音楽と、仕事で読んだ科学論文とが、妙なところでつながった 。

7月9日ワールドカップ決勝イタリア対フランス

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 休日であったが、夕方少々時間があいたので、少しでも仕事を進めるためキュリーに立ち寄った。休日でかつワールドカップ決勝のフランス戦ともなれば、フランス全土はお祭りモードで、全てのフランス人はその試合のためだけの一日になるといっても過言ではないが、何ということか、何人かが出勤して実験を続けていた。実験材料をもって廊下をうろうろしていた同僚に、晩サッカーの試合はどこで見るのかと話を振ってみたところ、「何の試合?サッカーのことは知らない」と一蹴された。フランスにも絵に描いたような研究者らしい研究者がいるものだと驚いた。  晩は、ワールドカップ決勝イタリア対フランスを観戦するため、シャンゼリゼ通り脇にある知人のバイト先の日本料理レストランで、音楽関係の知人らと集まった。いつもは人でごった返している夜のシャンゼリゼ通りも、この時だけは映画でみる人類絶滅後の廃墟のように静まり返っていた。フランスが負けて暴動が起こった場合に備え、店のシャッターをおろしてテレビ観戦した。歴史に残るジダンの頭突きもこの時ライブで見ることになったのであるが、フランスが負けたのにも関わらず暴動は起こらず、イタリア国旗を広げたイタリア人達が嬉しそうに騒いでいても、襲撃されるような気配はなく、深夜の凱旋門に選手らの顔と感謝の言葉が投影され、むしろおだやかな祝福ムードだった。  終電がなくなっていたので、皆で夜風が心地いい深夜のパリを散歩し、フルート奏者の知人宅で飲み直し、朝まで楽しいひと時を過ごした。

6月30日~7月3日ワルシャワ旅行

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 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。これまでに何度か渡航を計画しては、毎回旅程を延期していたため、今度こそはと三度目の正直の強行スケジュールだった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように、慎重を期した計画の上で市内を観光した。観光も仕事と同様、限られた時間と体力(時には資金)のもとで、できるだけ多くを体験し、多くの物にふれ、多くを吸収しようとしていた当時の私にとって、時間と体力の浪費を最小限にとどめるよう観光プランを立てることは、最重要課題の一つになっていた。  訪問の主な目的は、私にとってのポーランド出身の三大偉人であるショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませることだった。飛行機の中やホテルで寝る前に、その世界になるべく近づくべく最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いていた。  初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日行われたショパン国際音楽コンクールの審査員らの裏話を聞いたり、友人のワルシャワでの生活について話を聞いたり、会話を楽しんだ。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚に対する嗜好を確認すべく、ビッグマックを食べた。その現地に住む人の食に対する嗜好を一番手っ取り早く確認するには、全世界ほぼどの国にでもあるマクドナルドの定番メニューを食べるとよいと言われている。現地人の嗜好に、ある程度カスタマイズされているからである。  二日目は一人で観光に向かった。ショパン博物館には昔から書物などでよく見かけたショパンの絵やショパンの愛用したピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながら空いていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例しているというのが私の持論の一つであるが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国程度という感じだろうか。国土の広さに対する国力の弱さの対照が、この国と民族の数々の歴史的悲劇を際立たせてきたのであろうか。キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究

6月24日モンパルナス墓地お墓巡り

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   日本から従兄弟が出張帰りにパリに立ち寄ってくれた。沖縄県人会関係の知人の画家を誘い、3人でパリ散策に向かった。オペラ座ガルニエ前の階段で従兄弟と待ち合わせ、リュクサンブール公園で画家の知人と合流した。まず定番であるが、キュリー研、キュリー博物館とその周辺を案内し、その日はモンパルナス墓地へ向かった。パリ市内の主要な墓地には、地図と共に著名人のお墓が明記されていて、参拝したい著名人のお墓を効率よく探すことができるようになっている。  この日、特に参拝したいと思っていた著名人は、作曲家の中でパリにきてからおそらく一番練習しているたサン・サーンスだった。その他、サルトル、ボーヴォワール(作家)、クララ・ハスキル(ピアニスト)、ポアンカレ(科学者)、ガルニエ(建築家)、ランパル(フルート奏者)の墓をお参りした。パリで没した日本人、サツマさんのお墓もあった。「バロン薩摩」のあだ名で知られた希代のパトロン、資産家で、パリ国際学園都市(シテユニベルシテ)の日本館(別名薩摩館)に全額出資した薩摩治郎八の縁者であろうか。有名人リスト中唯一の科学者、ポアンカレ先生のお墓も訪問した。残念であるが、科学者だとここまで人類史上に残る偉業を残しても、殆ど誰も訪問者がいないらしく、花の一輪も添えられていなかった。一方で人気歌手ギンスブルグや作家サルトルの墓には置手紙やお花がたくさんあり、死後も訪問者が絶えない。人間社会における縁の下の職業ともいえるいわゆる理系の職業と、表舞台で活躍する職業とは、死後何世紀が経っても、このように同じ墓地の中で、一方は気付かれることもなく、他方は多くの訪問者の祝福を受け続ける。どちらがいいとかいう問題ではないが、色々と考えさせられる現実である。  この時画家の知人から、19世紀末、日本がパリ万博に参加する際、外交権がなかったため、外交権をもった元国家元首であった尚泰(最後の琉球国王、当時侯爵)の名で署名して日本国が参加した時の、尚泰の署名入り登録書をパリで見たという話を聞いた。是非一度拝見してみたいものだと思った。パリにこのような琉球人の足跡があることを、どれだけの沖縄の方が知っているだろうか。  その後、パリでご活躍の沖縄出身アーティスト、幸地学さんの絵画展をみて3人で食事をし、日没後サン・ルイ島を散策し、アルコールを飲みながら美術や哲学について色々と語りあ

6月20日実験成功

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 2006 年6 月20 日は記念すべき日になった。Rad51(相同組み換えタンパク質の一種)タンパク質がDNAをねじる運動を世界で初めて観測することに成功した。その日の午後、オランダの研究室から見学者があり、彼らに我々の実験テクニックの秘密を話さないようにとの注意が回っていた。彼らに我々の研究の説明をぼやかしながら話した午後2時頃には、まだ実験には成功しておらず、また訪問者らはその実験の重要性には全く気づいていなかった。ここ1カ月近く、磁気ピンセットを使って手作業でDNAを一本一本、数十回のねじりを加え、二重鎖で欠陥がなく、一本で独立してある二重鎖DNAを探すという途方もない地道な作業を繰り返していた。そしてこの日の午後4時頃、ついに「いい感じ」と直感で判断できるDNAを一本、磁気ピンセットで引っ張った状態で保持することに成功した。ここにRad51タンパク質を適切な化学条件で加えると、Rad51蛋白質がDNAをねじる動作がみられるはずである。慎重に慎重を期して試薬を準備し、Rad51タンパク質を導入したところ、その蛋白質がDNAに重合し、遂にDNAがねじれる運動を観測することに成功した。  しばらくの間、まだ人類史上自分一人しか見た事がない、DNAがねじれて磁気ビーズがくるくる回っている様子を手作りでくみ上げた顕微鏡がモニターに映し出したその映像を一人で見入っていた。おそらくこの瞬間程、科学者としての感動と興奮を覚えたことはなく、今後もおそらくこのような機会には巡り合えないであろう。今後私が研究者を続けることがあれば、その原動力はこの時の感動に因るところが大きいだろう。共同研究者のジョバンニを呼び、その映像を見せるが早いか、彼はその意味を瞬時に理解し、「DNAがねじれて磁気ビーズが回っている!!」とびっくり仰天し、飛んでヴィオヴィ先生を呼びに行った。知らせを聞いた他の先生方や同僚達もすぐに駆けつけ、始めてみるDNAのねじれ運動を皆でしばらく鑑賞していた。理論的に予測していた回転速度よりもだいぶ遅かったが、それ自体は大したことではなかった。ヴィオヴィ先生から”Beautiful experiment”(美しい実験だ)との激励を受けた。 その後は数ヶ月にわたり、研究所外に情報が漏れないように厳戒令が敷かれた。内部情報を知ることのできる物理化学部門では、大学院生から

6月19日実験成功前日:岩崎セツ子を囲む会

 キュリー研で、ジョバンニが担当しているミオシンの実験を見に来た研究者に対し、私が立ち上げている磁気ピンセット(後にFree Rotation Magnetic Tweezersと名付ける)システムについて、イデー(私の愛称)がFunny, in my opinion(私の意見では奇妙なこと)をやっていると説明していた。そのFunnyな実験アイディアが成功し、翌日一大騒動を巻きおこすことになるとは、私も誰も予想すらできなかった。  晩は沖縄県人会メンバーで、トリニテ教会前のカフェ・ド・ロアで、ピアニスト岩崎セツ子氏を囲む会を開催した。先生がパリでご活躍されていた頃のパリや音楽界の話、パリ高等音楽院ピエール・サンカンのクラスでミシェル・ベロフ、オリヴィエ・ギャルドン、ジャン=フィリップ・コラールら、今ではフランスを代表するピアニストとなった面々と、みんな一緒に「右向け右」のような学生生活を送っていたという日々の思い出を懐かしそうに語っていた。先生曰く、「ベロフは可愛い坊やだったが今ではオヤジになった」そうである。今よりも華やかで文化が栄えていた頃のパリで、岩崎氏が経験し、得たことを後世に伝えようとする姿勢の素晴らしさと有難さに、文化の伝道師という言葉を思い出した。

6月17日シフラ協会@サンリス

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   休日。知人と午後からパリ郊外サンリス(Senlis)に向かった。フランスのゆったりした空気に慣れ親しんでいたためか、電車を逃してしまい、シャンティーからバスに乗り、サンリスについた時には午後5時を過ぎていた。   この街は伝説のピアニスト、ジョルジ・シフラが晩年を過ごしていた街であり、彼が再興したサン=フランブール参事会教会と、シフラ一家のお墓がある。私が小学校の頃、何気なく手に取って初めて購入したCDが、シフラが演奏するリストの作品集であった。当時はシフラがピアニストの名であることすら理解していなかったが、数年後には私が最も影響を受けたピアニストの一人になっていた。巡礼の旅とでもいうべき心持ちでサンリスを訪れた。まずは聖地とも言える教会に直行した。あれほど訪れたいと思っていた場所だったが、なぜか興奮は起こらず、静かな気持で淡々と見学していた。教会内はシフラよりも、リスト色一式だった。Des canons et des fleurs(大砲と花)と題したシフラの人生を端的に表現したタイトルの伝記を購入した。ブティックにいた老女はシフラ夫人であったと思われ、壁に掲げてあるシフラの長男、ジョルジ・シフラ・ジュニアの肖像画を指差し、シフラの息子だと力説してくれた。3年後、再度訪れた時には教会にその老女はいらっしゃらず、一家のお墓をお参りをすることになった。この町は映画の撮影にも使われた程、静かでメルヘンな佇まいで、中世の面影を残していた。サンリスからの帰り、交通規制があり、電車に乗る予定であったシャンティーの街にはバスもタクシーも入れないということだったので、カフェのおじさんに頼んでタクシーを手配してもらい、Orry la Villeまでタクシーでいき、そこからRER線でパリに帰ることができた。フランスでは鉄道やバスのストライキによる停止だけでなく、街への車両進入が禁止になることもあることを知った。

6月15日マウリツィオ・ポリーニ@シャトレ劇場

 この頃、自分が開発した新型磁気ピンセットシステムはほぼ完成し、それを用いて一日中ビーズつきDNAを手作業で一本一本、数十回転ねじりを加え、欠損のない2本鎖DNAであるかを確認していくという途方もない単純作業を続けていた。共同研究者でもあったある同僚に、このシステムにDNAを自動で巻き上げるシステム組み込んでから、機械に任せてやった方が効率いいのではとのアドバイスを頂いたが、そのシステムを組み上げるためにもまた膨大な労力が必要とされる。振り返ってみると、この時彼女のアドバイスを受け入れなかったことが、短期間で成功を勝ち取るための重要な分岐点となった。このような、その後のプロジェクトの運命を大きく左右する一つ一つの小さな分岐点では、自分の才能とこれまでの経験で培った感を信じて思い切って決断を下すしか方法はないのだろう。  晩はシャトレ劇場で、マウリツィオ・ポリーニのピアノを生演奏では初めて聴いた。だいぶお年を召していたようで、リスト作曲のピアノソナタなどではミスや暗譜が飛ぶ(曲の一部の記憶が不確かになり、演奏が止まったり、一部省略してしまうなどの演奏上の過誤を、ピアノ弾きの間では「暗譜が飛ぶ」という)、技巧的な曲はよたよたし、最盛期のキレの良い技巧は聴かれなかったが、音質や演奏スタイルに、輝かしかった在りし日の鱗片を確認できた。フランツ・リスト作曲による晩年の宗教曲と、アンコールで披露したドビュッシーの小品からは、巨匠と呼ぶにふさわしい深みを感じた。

6月14日ウィーンフィル&ベルナルド・ハイティンク@シャンゼリゼ劇場

 連日仕事を頑張っている自分へのプレゼントもかねて、夕方ベルナルド・ハイティンク指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のコンサートを聴きにシャンゼリゼ劇場へ向かった。前売りチケットを購入せずにいたので、時間ギリギリでダフ屋から安いチケットをゲットすることができた。日本ではダフ屋行為は違法であるが、ここでは合法である。  ウィーンフィルが醸し出す音色は、ウィーンのピアニストたちの演奏から聴こえる音や、昔東京で師事していた先生がレッスン中に度々伝えようとされていた「艶のある音」を連想させる、高貴だがわかりやすい美しさとのバランスを保っていた。ベルリンフィルやウィーンフィルなど、世界最高峰のオーケストラや芸術を立て続けに、かつ気軽に聴けるヨーロッパでの生活は、自分の感性を磨き人生の糧を得るためには無二の環境である。

6月11日ワイマール

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 この日は知人夫妻と鉄道で文化の都ワイマールへ。リストやメンデルスゾーンが宿泊していたホテル・エレファント前の広場で昼食をとり、フンメル、シラー、ゲーテのお墓参りをした。一番楽しみにしていたリスト博物館は残念ながら閉館していた。ここは個人の所有物なので、持ち主の気まぐれにしか開館しないそうである。ここを訪れたというリストファンの知人を何人か知っているが、その中で館内を見物できた人の話はまだ聞いたことがない。かつてリストが住んでいたこの住宅は、何度も写真でみたことがあり、この地に来たことをゆっくりかみしめ、残念ではあったが次の機会に思いを託した。運の悪いことに、シュバイツァー博物館も閉まっていたが、小道を歩いていると突然ポーランドの詩人ミケウィッチの胸像が現れるなど、まさしく様々な文化人の痕跡に出会うことのできる、文化の都にふさわしい街だ った。  パリの職場ではイタリア人に囲まれた生活を送り、ラテン系の文化や感覚に馴染んでいた私にとって、日本人が特に科学と音楽において明治時代から取り入れてきたゲルマン文化の崇高さと偉大さを思い出させてくれる旅だった。

6月10日キュリー発ベルリン

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 日本人研究者にとって「徹夜で実験」は、何度も経験せざるを得ない通過儀礼みたいなものである。日本とは違い、毎日皆が6時に帰るフランスで、前日晩から初めて泊まりがけで実験をしてみた。徹夜をする必要があったからではない。翌日ベルリンへ旅行に出かける電車の発車時刻が早かったため、研究所から直接駅へ向かった方が早かったからである。  おそらく人生で一度しか経験することがないであろう深夜のキュリー研究所内は幽霊屋敷のような雰囲気で、中庭のキュリー夫妻像が不気味に佇んでいた。日本人研究者の気質が抜けていなかったからであろうか、まるでサボっていないか監視されているかのような霊気を感じた。午前3時まで実験をし、一時間居室の床で仮眠をとり、4時にキュリー研を出発。週末をベルリンの知人宅で過ごすため、オルリー空港から6時すぎの飛行機でベルリンに向かった。  知人の調律師夫妻も音楽通であったため、2夜連続でベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏をカラヤンホールで、しかも同じプログラムで鑑賞した。知人の計らいで、ホールの後ろの隅っこであるが、値段が安くかつ音の届きが一番よいという席で聴くことができた。良い耳をもった者だけが知る穴場ともいうべき席だった。最初の音が鳴った瞬間から、他のオーケストラとは比較にならないほど調和のとれた音に、特に弦楽器における均質性に度肝をぬかれた。一流の指揮者のもとで団員が気のりした時は見事な色彩を見せるが、そうでない時はそれぞれが気ままに弾いているように感じるフランスのオーケストラを聴きなれていた私にとっては、これだけでも驚愕に値した。ベートーベンのピアノ協奏曲第3番を弾いたラドゥ・ルプーのピアノも東京で聴いて以来だったが、カラヤンホールでベルリンフィルとの共演は趣が全く違った。

6月6日小さなソナタ

 キュリー研宛てに、めずらしく大きめの封筒が郵送されてきた。送り主はフレデリック・ジェフスキ。最近彼とは何もコンタクトをとっていなかったが、中身が何であるか、手に取る前に直感でわかった。またその封筒の薄さに少し安堵した。開封すると3枚の五線紙が入っていて、冒頭には"NANO SONATA" Frederic Rzewski for Hideyuki Arata (May 2006)。後になって振り返ると、人生で最も光栄な出来事の一つであってもおかしくなかったが、なぜか全く興奮もせず、とりあえずコピーをとっておき、また仕事に戻って深夜まで淡々と実験を続けた。  先日、私が3年かけて完成させた研究を凝縮した3ページの論文が米国の学会誌から発表され、知の師匠ともいえる旧友のジェフスキ氏に献呈した。その研究の実験映像をブリュッセルのジェフスキ氏宅で見せた時のインスピレーションを基に作曲した、たった3ページのピアノソナタだった。おそらく3時間程度の短い時間で即興的に書きあげたのだろう。彼の2番目のソナタである(1番目は1時間くらいの大曲)。数年後、オフィシャルな告知で「Hideyukiに、テクニック的にはある程度挑戦的で、しかし練習にそれ程時間のかからない曲を書こうと思った。」と発言していたことが分かった。過去に何度もピアノを弾きあった仲であり、私の演奏技術の未熟さと仕事の多忙ぶりをご存知の上での、何とも親切で教育的な配慮であろう。  仕事が忙しかったこと、ピアニストの先生方とは勉強中の他の曲で手いっぱいであったこと、曲の難易度が高かったことや、大作曲家が自分のために書いてくれた曲を弾くことの重圧に、しばらくは譜読みを始められなかった。日本に帰国後、本格的に練習を始め、2007年秋にアマチュアの演奏会で、トム・ジョンソン氏の「パスカルの三角形」と共に、初演することになった。個人的には仲良くしていた旧友からの素敵な贈り物に当然嬉しく、作曲者への感謝の念でいっぱいであったが、その作曲者がジェフスキ氏であったことから、この時から私は「ジェフスキ氏にインスピレーションを与えてナノソナタを作曲するに至らしめた科学者」として、科学史ではなく音楽史に少なからず名を残すことになった。

6月4日ルーブル美術館

  日曜休日。フランスでは、第一日曜は国立の美術館、博物館が全て無料である。この日はルーブル美術館を回った。「モナ・リザ」や、「ナポレオンの戴冠式」など、幼少期にここを訪れた時の記憶がのこる絵画達と、20年ぶりに対面した。20年前は、「モナ・リザ」は他の絵と同様、壁にかけられていたが、この絵だけが唯一ガラスケースで覆われていたことを覚えている。今では「モナ・リザ」だけ部屋の中央に、特別な壁が用意され、厳重な警備つきで保護されていた。また、当時は館内を巡る観光客の人数も少なく、比較的静かだったことを覚えているが、今ではアジア人観光客でごった返している。パリの街と作品らは変わっていなかったが、白人の中に唯一のアジア系として日本人が市民権を得ていた時代から、中国人、韓国人、アラブ系、アフリカ系が移住を目指して押し寄せてくる時代へ、社会は大きく変わっている。

5月31日ジャック・モノー追悼セミナー@パスツール研究所:アルフレット・ブレンデル@シャトレ劇場

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 ルイ・パスツール、ピエール&マリー・キュリーと並びフランス科学史上最も重要な科学者に位置付けられるジャック・モノーの没後30 年を記念して、パスツール研究所内ジャック・モノー記念講堂で追悼セミナーが行われ、キュリー研究所の職員には招待案内が回ってきたので1年ぶりにパスツール研究所を訪れた。壁にはチェロを弾くモノーの写真があった。職務外活動の写真をこのような場所に掲げることが「不謹慎」とならないあたりも、フランスらしい。招待講演はDNA二重螺旋構造発見者のフランシス・クリックと共同でDNA暗号解析に携わったシドニー・ブレナー(後に別の研究でノーベル生医学賞受賞)や、モノーと共にノーベル賞を受賞したフランソワ・ジャコブら、モノーとパスツール研究所で研究をしたことのある錚々たる面々であった。ジャコブ博士はもはや歴史上の人物であり、まだご存命であったことすら知らなかった。まるでシーラカンスを見ているかのような感覚だった。ちょうど先日、シャンゼリゼ劇場の客席で、もはや歴史的作曲家の仲間入りを果たしているアンリ・デュティユーを目撃した時と同じ感覚だった。   ブレナー博士は沖縄科学技術大学院大学(OIST)の初代学長に担ぎ上げられていたので、講演後挨拶をして少し議論を交わした後、自分が沖縄出身であることを話した。大学院大学の学長になるのかと伺ったところ、彼は「No! そんな気はない。ただ立ち上げ段階で助言をするだけで、それ以外何もする気はない。あとはすきにさせればいい。」と一蹴された。彼を学長として担ぎ上げる日本政府による公的発表からは予想すらできない発言である。ノーベル賞受賞者という肩書きがある人を学長に据えなければという事情は分からなくはないが、本人の意思とここまで異なる話がまかり通るのか。案の定、後日ブレナー博士が「学長を降りた」という噂を沖縄経由で知ることになった。またその後、再び学長に収まったという話も聞いた。  晩はシャトレ劇場でアルフレット・ブレンデルのピアノリサイタル。彼のピアノを聴くのは最後になるだろう。

5月30日ヴィオヴィ論「芸術と科学」

 この日は久しぶりに研究室主催者である大ボスのヴィオヴィ先生とランチをとり、その後キュリー研のキャンティン(カフェ)でコーヒーを飲みながら、私が取り組んでいる研究プロジェクトの進捗状況と今後のビジョンについて議論を交わした。まだ目に見える成果が出ていないため、また私の帰国が数か月後に迫っているため、そろそろ大学院生のピエール君にプロジェクトの引継ぎを初めてはどうかという話をされた。ちょっと悔しい話しではあるが、滞在を延期することは東大側から認められるとは思えず、一旦東京に帰った後、再度パリに戻ってくるためには2年近く拘束されるであろうことを考えると、仕方のない事なのかもしれない。ビッグボスによくある話しではあるが、彼はこのプロジェクトはすぐに結果が出て終わると思っていたらしい。どこまでの結果を期待して、どの程度で終える予定だったのであろうか。その後、誰も予想だにしなかった成功をおさめた事を考えると、今となってはどうでもよいことである。  その日の会話で、先生の奥様が画家であるという話を聞いた際、先生が「芸術は評価が主観的でかつ他人によってなされるので、芸術を生業とすれば、自分の仕事は死後にしか認められない可能性だってある。一方で、科学は評価が客観的で、ある程度はcriteria(判断基準)があるので、科学を生業とする方が、自分が生きている間に成功することを望む場合、効率的な選択肢なのかもしれない。」と、知的な文化人らしい発言をされた。私も全く同感である。ここでは深い洞察と高い教養が尊重されるのと対照的に、日本の研究者の間では研究馬鹿であることが良しとされ、思考よりも知識が重んじられる傾向にあるのかもしれない。   帰宅途中、ノートルダム寺院でパイプオルガンの演奏を聴いた。

5月27日モネ作「睡蓮」

 土曜休日。かつてはリストやサン=サーンスが弾いていたマドレーヌ寺院のオルガンの演奏を聴き、先日ジグマノフスキ氏に勧められたモネの睡蓮をみるためにオランジェリー美術館へ向かった。観光客で混雑していたため、入館まで1時間も待つ羽目になった。モネの「睡蓮」に行きつくまでにも、ルノワールやピカソの素晴らしい絵画に釘づけになった。肝心の「睡蓮」が展示されている部屋にたどり着いた時は、既におなか一杯になっていた。そのせいもあってか、「睡蓮」をじっくり鑑賞し、自分なりのものを吸収するには、この日限りにおいては消化不良と言わざるをえなかった。もしくは、もっと感性を磨く必要があったのかもしれない。   その帰り、グラン・パレ内の科学技術博物館「発見の殿堂」へ立ち寄った。グラン・パレは1900年のパリ万国博覧会のために建てられた、その名の通りお城のような建築物の展示会場である。古風で芸術的な建築物の中に、最先端科学技術の展示が常設されている。「科学が否定しようとすることを、芸術は喚起しようとする」とは誰の言葉だったか、一見かけ離れた世界であるかのような、若しくはお互い否定しあうかのような芸術と科学が、無理やり押し込められたように混在している空間に、何とも言えない違和感を感じたと同時に、温故知新、古い伝統と文化を守りつつイノベーションを起こしながら絶えず未来に向かって変革していかねばならないヨーロッパのおかれた立場を体現しているかのようであった。

5月23日レオン・フライシャー@シャンゼリゼ劇場

 キュリー研では地味な実験が続いていた。特にここ数日は不可解な問題がでてきて頭を悩ませていた。小学校以来座右の銘となった「努力、忍耐、根性」で乗り切る他の道はない。  晩はシャンゼリゼ劇場でレオン・フライシャーのピアノリサイタル。米国のピアニストで指揮者としても活躍しているフライシャー氏は、半世紀も前のキャリア前期に局所性ジストニアで右手の自由を失い、その後左手のみの曲で演奏活動を続けていたが、その頃、ボトックス療法で右手が回復に向かい、両手で弾く曲を徐々にプログラムに組み入れ始めた頃であった。この日のプログラムは左手のみの曲と両手による曲、双方から構成されていた。ブラームスが、右手を故障したクララ・シューマンのために左手だけで演奏できるように編曲したバッハの「シャコンヌ」からは、長年弾き続けていた老練さと苦しみ抜いた者が持つ強さを感じた。プログラム最後のシューベルト作曲の最終ソナタは両手で演奏する曲であるが、右手がやはり完全に回復したわけではないためか、表面上はかなり控えめな演奏であった。ちょうどパリに来る少し前、東京で大学の後輩が師事していた先生 のCDでこの曲を聴き、その情熱的な演奏の虜になり、出国までにその先生レッスンを数回受けていた。その先生は、米国でフライシャー氏にも学んでいたらしい。フライシャー氏のその日の演奏は控えめでありながら、彼女の演奏と共通する情熱と意思の強さを感じ、核となる主張したいパッションや価値観は近いものであるかのような印象をうけた。アンコールを弾く際、聴衆に向かって言い放った”Applaud is a receipt, not a bill”という言葉が、幾通りの解釈が可能であるが、長年の演奏活動で培った経験の重みとユーモアが感じられ、印象的であった。

5月22日NAMIS会議@パリ南大学

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 オルセーのパリ第11大学(パリ南大学)で、東大の先生方が企画されているNAMIS会議が開催された。東大から私がお世話になった、関係分野の先生方が大挙していらっしゃるということで、キュリー研を休み、NAMIS会議に参加した。午後遅い時間に、そのうち数名がキュリー研を見学にいらしたので、実験室などを案内して研究に関する議論を行なった。夜はパリ市内のSt. Michaelにてガラディナーに参加した。久しぶりにお会いする東大の先生方と、それぞれの近況について報告しあい、しばし東大の戻ったような、アットホームな雰囲気を楽しんだ。

5月21日ジグマノフスキ邸@パリ郊外

 友人の勧めで、彼女が師事していたピアニスト、パトリック・ジグマノフスキ氏の合同レッスンを聴講するため、ジグマノフスキ氏宅にお邪魔した。ご自宅はパリ郊外の閑静な住宅街にあり、素敵なお庭があった。数名の生徒さん達のレッスンを聴講したが、中でもその友人の弾くラヴェル作曲「スカルボ」が、光と悪魔的な要素が共存した魅惑的なオーラを放っていた。レッスン終了後、ジグマノフスキ氏と立ち話をしたその場で、後日彼のレッスンを受けることが決まった。  夕方からシャンゼリゼ通りのバーで、先生と生徒さん達とご一緒し、先生の生い立ち、奥様の横浜のご実家で慶応大学の生徒さんのピアノを聴いてとても上手でびっくりしたこと、私とのレッスンをとても楽しみにしていることなどを語ってくれた。ジグマノフスキ先生とは、ギャルドン先生らに比べると年齢が近いためか、お互い様々なことについて語り合うことができる。

5月20日サン・ジェルマン・アン・レー

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   土曜休日。友人達と4人で作曲家ドビュッシーが住んでいたパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに向かった。荘厳なサン・ジェルマン・アン・レー城を見学し、ドビュッシーが過ごした家を訪れ、ここで生まれたであろう数々の名曲を思い浮かべながら、在りし日の巨匠と彼を取り巻く芸術家や上流階級の文化に思いを馳せた。その後、知人の家で午後から宴会を始めた。パリ中心部から多少離れているため、空気が美味しく、ヨーロッパの澄んだ日光が心地よく、とてもお酒が進み、友人達といつも通りのたわいもない会話を楽しみながら、至福の時を過ごした。 知人の家にあったピアノは昔から好きだった Boston だった。

5月19日仕事の後はユンディ・リ@シャトレ劇場

 晩に予定があるときに限って実験が上手くいき、切り上げられなくなるものである。これ以上続けても効率が上がらないと客観的に判断した時点で実験を切り上げた。日本人的働き方では、こういう場合でも実験を続け、とにかく長時間労働をすることにより自己満足感を得る、又は上司に認めてもらうところであるが、ここでは長時間労働自体が価値基準とはならないどころか、長時間労働は「無能の証」として認識されるのである。私はこの頃から、最も効率的に成果を挙げる働き方について、多くの日本人のように罪悪感を感じることがなくなっていて、その後もより短い期間で成果を挙げることを第一の目的として仕事を続けるようになった。  予定より少し遅れてシャトレ劇場に到着した。CDで聞いた時は指が動く優秀な音大生という印象しか受けなかったユンディ・リ氏であったが、生で演奏を聴いたのは初めてであった。やはり耳の超えているフランスの聴衆からお評判はいまいちであったらしく、客席はガラガラだった。シューマン作曲の「謝肉祭」でも、音を外すリスクの高い「パガニーニ」だけを省略して演奏したり、音色もモノトーンだったり、専門家の間では評価が良くなかったらしいが、素人の自分からは、少なくともメカニカルにはレベルの高い演奏に聞こえた。

5月13日フランシス・クリダ@モガドール劇場

 土曜休日。午後4時からMogador劇場でフランシス・クリダの演奏会。オーケストラはOrchestre Pasdeloup. 地響きのような力強い音によるリスト作曲「死の舞踏」、「ハンガリー幻想曲」が超重量級で圧巻だった。これら2曲を連続で聴いたのは初めてであったが、これが世界初のリスト全集を完成させたリスト弾き、マダムリストと呼ばれたフランシス・クリダを聴く最初で最後の演奏会となった。

5月12日ギャルドン先生

  午前中お休みを頂き、ギャルドン先生のご自宅に向かった。毎回レッスンの日は、約束の時間の少し前に先生のご自宅近くの決まったカフェでエスプレッソを飲み、体を温めてレッスンに臨んだ。今日のレッスンでは、見て頂いたドビュッシーの曲については「色があって大変結構」と言われたが、サン・サーンスのワルツが技術的にも読譜的にも全く不完全で、先生も相当困って熱くなっておられた。しかしそれでも、テクニックの抜けている基礎的部分を、神がかり的な教授術で教えて頂き、内容の濃いレッスンとなった。その日何度も繰り返し教えられた「手の動きを目で見て練習しろ」というある種卓越した職人的価値観とでもいえそうなご教示は、その後ピアノと向かい合う際、常に意識せざるを得ない指針となった。但し、同じアドバイスを頂いても、それがどういう価値を持つかは、習う側がどう感じ、そこから何を得るかによって異なってくるものである。少なくとも私にとってこの教えは神がかり的なものとして受け止められた。  午後はキュリー研で働き、晩は CNR(国立地方音楽院)パリ校 で沖縄の大先輩のリサイタル。沖縄県立芸大と CNR の交換演奏会だったようである。そこでもギャルドン先生にお目にかかった。

5月7日帰パリ:読谷村ご一行との会食

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 ブダペスト最後の朝、世界一綺麗なマクドナルド店として観光ガイドブックなどで紹介されている店で朝食をとった。この雰囲気に便乗し、普段は節約して滅多に買うことのないデザートのアップルパイを奮発して追加した。その後シナゴーグ(ユダヤ教の教会)と国立博物館に立ち寄った。シナゴーグには立派なパイプオルガンがあり、リストやサン・サーンスがよく演奏していたそうだ。ちなみにパリのSt. Eustache教会でも、リストやサン・サーンスがよくオルガンを演奏していたらしい。19世紀のオルガン奏者といえばこの二人が代表格なのであろうか。もっとゆっくり観光をしたかったが、出発まであまり時間的余裕がなかったため、急いで空港に向かってパリに戻った。  パリの空港に到着後、自宅に戻る間もなく荷物をもったまま、Balard駅近くの中華料理店で沖縄県読谷村からの空手関係者、行政関係者ご一行との会食に向かった。彼らは沖縄から大量の泡盛を持参していて、それらが終了時には完全に消費されていた。村長さんとの会話は「君はどこにいっていたの?」、「ハンガリーにいっていました。」「ハンバーグ?」「ハンガリーです。」「ハンバーガー?」という感じだ った。キュリー研究所で働いていると伝えると、「キューリの次はメロンでいこう!」、「ではカーネギー・メロン大学ですかね」とも。どこへ行っても沖縄人のユーモアを忘れないことは大切であるが、何の目的で彼らがパリを訪問したのか、得られた物は何かなど、もっと実りある話しも聞きたかった。代議士の先生や、大河ドラマ「琉球の風」で三味線を弾いていおられたお二方にもご挨拶をした。世界中どこへ行っても同じように、琉球三味線、歌と踊り、泡盛で盛り上がり、最後はかちゃーしー(沖縄民謡の演奏にあわせて聴衆が両手を頭上に掲げて左右に振り、足も踏み鳴らす踊り)で締めくくった。

5月6日ブダペスト

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 この日、間借りしていた音楽留学生に、彼が通うリスト音楽院を案内してもらった。彼は練習に向かい、私もその間練習室でピアノを弾く機会にも恵まれた。折角なので、リスト晩年の宗教音楽「王の御旗」や「スルスム・コルダ」など数曲を弾きながら、壮絶で華麗でロマンに満ちたリストの人生と、彼が生涯愛したブダペストに思いを馳せた。  その後一人で市内のリスト博物館を訪れた。小学校5年生の時、学校の図書館で初めてリストの伝記に出会って以来、本や写真で度々目にし、脳裏に焼き付いているリストや家族の肖像画、愛用のピアノや銀の譜面台などの現物が所狭しに展示され、ついにこれらの遺品と出会うことができたと思うと、感慨深く、巡礼の地を訪れた気持に浸った。  ランチはフォアグラで有名なレストランで、特大のフォアグラ料理を頂いた。信じられない安さと美味しさであった。若いうちに食べる機会に恵まれて本当によかった。もう少し年を取ってからでは、自分がフォアグラになってしまうことを危惧して、このボリューム満点のフォアグラを堪能できなかったであろう。夜もハンガリー料理を頂き、ブダペストの美しい夜景を堪能し、ハンガリー最後の晩は間借りしていた知人とピアノ音楽やピアニスト達について遅くまで語り合った。  

5月5日Ormos研究室訪問(セゲド)

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 その日は朝から国立生物物理学研究所Ormos先生の研究室を訪問した。まず自分の研究を紹介し、彼らの最新の研究を説明して頂き、また今後の研究構想などについて様々な議論を交わした。彼らも私が東京で行っていた回転型モータ蛋白質の実験を始めようとしていて、担当の大学院生に実験のアドバイスもした。その大学院生とはその後パリに戻ってからも、頻繁に電子メールでアドバイスや議論を続けた。彼らのグループでは、レーザートラップ技術を用いたDNA一分子操作について卓越した成果を得ていた。彼らはとても聡明で親しみやすかった。  最後にOrmos教授が彼の車で近くの教会を案内してくれた。この教会にはハンガリーの英雄や偉人達の胸像があり、リスト、バルトーク、コダーイら音楽家に交じり、ノーベル賞受賞者アルベルト博士を見ることができた。Ormos教授に駅まで送って頂き、ブダペストに向かった。ここでOrmos教授らと交わした議論からは、その後のパリでの実験系の開発に役立つ多くのアイディアが生まれていた。  日本ではそれまで、教授という肩書の人の口からは、精神論による一方的な指導や叱責しか聞いた事がなかった私にとって、Ormos教授との双方向の対等な議論、意見交換は、お互いに大変有益なものであっただけでなく、新鮮に感じた。日本で年輩の教員に大学院生や若い研究者と研究の具体的な話を避ける人がいる理由は、精神論で一方的に押さえつける方が楽だからか、もしくは研究の議論をする自信がないからであろうか。  帰りはブダペストにしばし滞在し、観光にあてた。知人に紹介された音楽留学生と落ち合い、ブタペストの主要なコンサートホールであるネムゼクティホールで、シューベルト交響曲「未完成」やバルトークのヴィオラ協奏曲の演奏を聴いた。予想外にレベルが高く統制のとれたオーケストラで、満足のいく演奏会だった。  その後、こじんまりとした趣のあるレストランを紹介して頂き、ハンガリーの民族料理を堪能した。知人に紹介された音楽留学生のご自宅にあるピアノはKoch&Korseltという、現在では既に無くなっていたハンガリーのレアなブランドで、鍵盤の数は88鍵より少なかった。彼は、そのピアノでカール・ヴァインのピアノソナタなどを弾いて聴かせてくれた。

5月4日セゲド(ハンガリー)出張

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 結局10ヶ月以上を費やすことになった滞在許可証取得のためには、別途指定のクリニックで健康診断を受けなければならなかった。その健康診断の通知が届き、期日をみてびっくりした。期限は何とその翌日であった!  翌日は午後からハンガリーへ出張でシャルル・ド・ゴール空港からブダペスト行きのチケットをとっていたため、健康診断を延期できないか役所に電話をして交渉してみたが、やはり仕事を増やしたくないのであろう、「だめだ」「明日行くかさもなければ2ヵ月後」の一点張りで、らちがあかなかった。パリに戻ってからでは間に合わないため、どうしてもその日の午前中に健康診断を受けなければならなくなった。更に運の悪いことに、クリニックの場所はとてもアクセスの悪い、不便な場所であった。  当日は朝早起きして出張の荷物を抱えてクリニックに行った。そこで更に、「バスに乗ってどこそこの病院にいってX線写真をとって戻ってくるように」との指示もあり、バスで別の病院へ一往復する羽目になった。ブーツを履いたまま身長体重を測るなど、身体計測も信じられない程いい加減であった。クリニックで順番まちしている間も飛行機に間に合うか心配でドキドキしていたが、幸い全てのプロセスを綱渡りで乗り切り、なんとか出発に間に合うことができた。フランスの役所には常々振り回される。  無事部ブダペストに到着し、市内から電車に乗り換え、無事夕方8時Szeged市に着いた。ハンガリーでは最も著名な生物物理学者、生物物理学研究所のOrmos教授が親切にも駅でお出迎え頂き、彼の車で軽く街を案内して頂いた。今でも語り継がれるティサ川の大洪水の時の話も語って頂いた。Szegedはハンガリーで唯一ノーベル賞が出た町である。戦前にセント=ジェルジ・アルベルトらによりビタミンCが発見され、アルベルトが1937年ノーベル生理学医学賞を受賞したのである。その後、レストランでご当地料理をご馳走になり、日本やフランス、ハンガリーでの研究環境や、軽くお互いの研究の話もした。  Ormos先生が、日本では教授が大学院生をひどくこき使うと聞いたが本当かと聞かれた。自分が修士過程1年に、研究室に所属して約10ヶ月目で胃潰瘍ができたことを話したところ、「Oh my goodness! 胃潰瘍は年寄りがなるものなのに!」とびっくりされていた。日本の研究業界では、胃潰瘍になる

5月1日ランス巡礼

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 シャンパーニュ地方のランス市には、中学・高校時代を過ごしたラ・サール学園を運営するラ・サール修道会を設立した聖ラ・サールの生家がある。これまで世界各国で、現地のラ・サール修道院を訪れたり宿泊させてもらったりと、卒業後もなにかとお世話になっていた。卒業生として、フランス滞在中に一度は訪れたいと思っていた訪問が実現した。  その日、シャンパン好きの友達5,6人でGare de l’est(東駅)に集合し、シャンパン工場を回るため、シャンパーニュ地方のランス市に向かった。もちろん自分にとっては、母校を運営するラ・サール修道会の創設者である聖ラ・サール修道師(St. Jean-Baptiste de La Salle)の生家を訪問する事が大切な目的でもあった。  お酒を飲む前にまず観光。はじめに聖ラ・サール修道士の生家を訪れた。中学校時代、始めて聖ラ・サールの話を教わってから14年目にして初めて訪問することができ、感無量だった。これまで世界各国のラ・サール会修道院や学校を訪問することもあったが、今回は純粋に巡礼に訪れた感があった。ランスのラ・サール会修道士の案内を受けながら、聖ラ・サールの遺品や昔写真で見たことがあり、脳裏に焼き付いている展示物や部屋を見学しながら、中学校時代に聞かされた聖ラ・サールの使命感と苦難に満ちた活動の上に、私が10代にうけた教育があるのだと思うと、この地と自分の強い結びつきを感じずにはいられなかった。  その後大聖堂を見学してシャンパン工場を回った。Piper-Heidsieckのシャンパン工場を訪れ、シャンパン試飲などを楽しんだ。この工場オーナーの御曹司が何度かお会いしたことがあるピアニストのエリック・ハイドシェック氏であり、数年後に指導を受けることになるフィリップ・アントルモン先生もこの街で生まれ育った。アントルモン先生は、戦前ドイツ軍の爆撃の危険がある中、汽車でパリまでレッスンに通っていたそうである。

4月30日パリで初バスケットボール

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 ENS(高等師範学校パリ校)の地下体育館を借り、キュリー研の同僚達とバスケットボールを楽しんだ。遊びといっても、皆熱くなり、本気モードでぶつかり合うので、体格で劣る私にとっては、冗談抜きで怪我のリスクの高い遊びである。この日、スウェーデンから来た長身の親友ゲルブランド君の肘鉄を顔面にくらった。かなり痛かったが、幸い大事には至らず、早朝の運動で心身ともにリフレッシュすることができた。その後頻繁に、ENSの体育館やリュクサンブール公園のコートで、日曜の朝バスケットボールをすることになった。仕事でも机に座っての作業が多く、趣味のピアノでも一人で長時間椅子に座ることの多い私にとって、運動は心身の健康を保つために、かつスポーツを通じて友達の輪を広め、同僚達との絆を強めるために必要不可欠な営みである。 (写真は後日リュクサンブール公園にて)

4月29日早朝にトム・ジョンソンから電話

 この頃になると、連日続く研究活動と、パリ滞在の好機を逃すまいとの様々な活動で私のスケジュールは過密を極めていた。週末ともなれば疲れはてていて、土曜の午前中はゆっくり休息をとりたいところだったが、この日はトム・ジョンソン氏からの早朝電話で目を覚ました。   一言目に「昨日電話かけたか?」と聞かれ、かけていなかったので「いや、かけていない」と答えた。次には「ところで「パスカルの三角形(私に弾いて欲しい彼の自慢の作品)」はどこまで弾けた?」と聞かれ、「最近時間がなくてまだ進んでいなくて申し訳ない」と答えた。「是非練習をすすめてくれ」と念をおされた。はじめの「電話かけたか?」は「パスカルの三角形」の話をするために電話をかける言い訳であったのだ。  少なくとも余裕のなかった当時の私にとっては、愛嬌ととらえる程の余裕はなく、彼が私に「パスカルの三角形」を弾いてほしいとの要求は、むしろ重荷となっていた。

4月28日セミナー@Salle Joliot

 ジョリオ=キュリー記念講義室で、IBMチューリッヒの研究者によるセミナーがあった。この講義室にはイレーヌとフレデリック・ジョリオ=キュリー夫妻の写真や実際に使った実験器具などが展示されている。  講演の内容は、超微細粒子のボトムアップ技術についてであった。彼らの技術の中で、単純作業を永遠と続けなければならないプロセスを紹介したところ、ヴィオヴィ先生が"We need a Chinese student to do it"と冗談をおっしゃった。フランス人なら面倒くさがり、絶対にしないであろう頭を使わない単純作業も、中国人はひたすら続けるという、ある種の偏見からの皮肉である。一昔前はJapaneseだったのであろうが、今はChineseなのである。その講義室にいた十数名の研究員、大学院生の中で、その皮肉の意味を即座に理解できたのは先生と私の2人だけだったようで、その場で2人だけで不本意にも噴き出してしまった。アメリカや日本でならば問題になるかもしれない、際どい発言である。悪気があって言った訳ではないのであろうが、未だに色濃く残る人種による偏見の一郭だろうか。

4月27日アルド・チッコリーニ@シャンゼリゼ劇場

 当時84歳と、かなりの高齢なので、早く聴いておかなければ聴けなくなってしまうという思い出かけた巨匠チッコリーニのピアノリサイタル。プログラムはアルベニスの大曲や、アンコールはファリャの「火祭りの踊り」など、とても重量感のある難曲が多かったにも関わらず、殆どミスもなく、乱れることもなく、超人的なテクニックで完璧な演奏と、多彩な音色と表現が放たれる素晴らしい音楽を聴かせてくれた。  この年齢まで、これほどのテクニックを維持していることは超人としかいいようがないが、その後も度々彼の演奏を聴く機会に恵まれ、更に増していく神のような芸術的深みに、ただただ敬服するばかりであった。芸術家に限らず、老齢期まで元気でかつ超一流であり続ける人は、確固としたライフワークと何らかの信念をもっているのだろう。

4月26日シャンタル・リュウ

 晩、シャンタル・リュウ先生のレッスンを受けに、Nogent sur Marneの先生宅を訪問した。何曲かご指導いただいたが、ドビュッシー作曲前奏曲「亜麻色の髪の乙女」をご指導頂いた時、ハンガリーの作曲家、リゲティが作曲した「亜麻色の髪の激怒した乙女」の楽譜を持ち出し、「この曲面白いよ」といいながら弾き出してくれた。コンクールの審査委員をした時に、コンクール出場者が弾いていたのでたまたまコピーを持っていたそうだ。ドビュッシーの原曲と2曲続けて弾いたら面白い、この曲は読むのは簡単だけど音楽的に弾くのはとっても難しいなど、先生の所見を述べて頂いた。先生は譜面を読むだけなら簡単(実際先生は初見で演奏してみせた)とおっしゃっていたが、実際には譜読みするだけでも骨の折れる超難曲である。次回のレッスンの時コピー譜を用意していてくれて、「著作権があるから公にはしないように、"cachez"(隠して)」といってコピーを頂いた。その時、いつか先生のおっしゃるように、ドビュッシーの原曲と2曲続けて演奏したいと思った。それ程時を経ずして、帰国後しばらくした後、アマチュアの演奏会でそれを実現することができた。  5月18日に、先生がレコーディングをしたばかりの、ロッシーニのピアノ小品集のCDが販売されるそうである。ロッシーニの人生、彼がこれらの曲を作曲した時の状況などを、丁寧に、芸術家らしい描写とこれら音楽への愛情をこめて、かついつものように高貴な笑顔で説明してくれた。CD販売が待ち遠しくなった。

4月22日DNA伸長実験成功

 私がキュリー研で目指していた、蛋白質がDNAをねじる運動を観測するためには、DNA一本を引き延ばすことが最初の重要な課題であった。そのため、パリについた直後から、DNAの一端をスライドガラス表面に、もう一端を人口のマイクロ磁気ビーズに貼り付け、磁気ビーズを磁石で上に引き上げることにより、DNAを引き延ばすという仕掛けと顕微鏡が合体した実験セットアップを、自ら手作りでくみ上げていた。  そ して遂にこの日、DNAを引き延ばす実験に成功に成功した。しかし、これもゴールへの長い道のりの第1歩である。実は1ヶ月程前からDNAを引き延ばすことに成功していたようであるが、そのことに気がつかないままであったようである。それもこれも、同僚から聞いた我々の使っているDNAの長さが5マイクロメートルであったのに15マイクロメートルだと聞き間違えていたことが、DNAが引き延ばされていることに気づかなかった原因であった。フランス語の不得手が1カ月の時間ロスを生んでしまった。  成功の噂を聞きつけ、同僚たちが次から次へと実験室を訪れ、質問とお祝い、励ましの言葉をもらった。私がDNAを引き延ばしたというちょっとした騒ぎも、二日程経てばまた皆が忘れてしまったように収まったが、年齢や肩書にではなく純粋に研究成果そのものに正直に反応する彼らの素晴らしい研究文化に触発された。その後6月末に、Rad51タンパク質によるDNAのねじり運動観測に成功した時、今回とは比較にならない程の騒動を体験することになった。

4月15日トム・ジョンソン氏宅訪問

 数ヶ月ぶりにトム・ジョンソン氏宅を訪問した。  今回一緒に訪問したピアニストの知人が、彼の前でラヴェルの名曲「スカルボ」を演奏して聴かせたが、彼がこの有名な曲を知らなかったことに我々は驚愕した。専門のジャンルが違うとはいえ、作曲家で「スカルボ」を知らない人がいるとは、我々には信じがたいことであった。私は、ディヒラー作曲「左手のためのカプリチオ」を演奏したが、彼はこちらの方が、現代曲というだけで気に入ったようである。程なくしてヴァイオリニストの知人が合流し、最後は皆それぞれの楽器の彼の作品の楽譜をお土産にもらった。とりあえず彼のオペラ(?)がバスティーユ劇場で上演されるらしいので、興味本位で見に行ってみたいきもしたが、残念ながら都合が合わず、彼の自信作の上演を見ることができなかった。

4月14日パリ第六大学/ジャック・モノー研究所訪問

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    午前中はキュリー研で働き、お昼はパリ六大学内にあるジャック・モノー研究所へ、小桧山政経先生の研究室を訪問した。先生の学生さんで、先日ケンブリッジの学会で会った方と3人でランチをし、日本、アメリカ、フランスでの研究環境の違いなどを各々のユーモアを交えながら談笑した。  その後、研究室と実験セットアップなどを見学させてもらい、様々な議論と実験技術に関する情報交換、効率的な働き方などについての議論を行なった。彼女は特に、日本のある研究室で、24時間実験装置を稼働させるため、大学院生3人一組で、それぞれ一日8時間ずつ交代で働かせていたという話しをどこかできいて、日本人は学生をそんなにこきつかうのかとびっくりしたことを語ってくれた。日本の研究現場を知っている私にとっては、2人で12時間ずつ働かせる、でないだけまだマシな研究室だと思った。更に、日本以外の国の大学院生は給与をもらいこれらの仕事をしているのに対し、日本の大学院生は授業料の名目でお金を払っている立場で命令に従っているのである。  その後、小桧山先生とジャック・モノーとの出会いから始まった研究や小生の研究について、小桧山先生とマンツーマンでとても濃い議論をする機会に恵まれた。最後に、先日Science氏から発表された先生らの論文の別刷りを記念に頂いた。労働環境の違いに羨ましさを感じたり、先生の長年にわたる研究にスケールの大きさを感じたり、様々な刺激を受けた後、キュリー研に戻り自分の実験に取り掛かった。

4月12日キュリー研セミナー@マリー・キュリー記念講堂

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 私にとってキュリー夫人は、幼少期に読んだ自伝で初めてその存在を認識し、家族で見ていたテレビ番組「世界ふしぎ発見」でキュリー一家が築いたその研究所の存在を知り、科学研究に携わるようになってからは歴史上最も重要な科学者の一人であるだけでなく、実際にその研究業績や研究スタイルについて自分なりの意見をもちながらも最も尊敬する科学者の一人であった。そのキュリー夫人が、キュリー研に在籍してからは、歴史上の人物から、今現在自分の研究活動に様々な面で影響を与え続けている研究所の偉大な先達という存在に代わっていた。  キュリー研究所内にはキュリー夫人が使っていた実験室と書斎がそのまま残されており、一家で受賞した多数のノーベル賞の賞状などとともに博物館になっている。その同じ建物の一角にマリー・キュリー記念講堂があり、壁にはキュリー夫人がラジウムの質量を計算した実験ノートの肉筆のファックスや当時のキュリー一家の実験現場を撮影した貴重な写真が飾られている。  この小さな研究所の小さな講堂は、輝かしい歴史とブランドを誇り、毎日のように世界各国から著名な教授や科学者達の招待講演が行われ、誰でも自由に聴講し議論に参加することができた。この日、その講堂で、東大におけるこれまでの研究成果をもとに講演を行う機会に恵まれた。講演題目は”MEMS based microsystems for single molecule measurements”。隣の講堂での著名なロックフェラー大学教授の講演と時間が重なってしまったため集客を心配していたが、一般に開放された講演でもあり、キュリー研究所の同僚・先生方のみならず、パリ6 大学名誉教授でジャック・モノー研究所の小桧山教授ら、外部の知人もいらしてくれた。  講演終了後、小桧山先生から「君の発表スタイルは東大スタイルだ。アメリカではいいが、ヨーロッパではダメだ。京大の奴らにも嫌われるだろう。」と、今までうけたことのないアドバイスを頂いた。これは研究成果をアピールする程度についての助言であり、東京大学やアメリカでは研究成果を強くアピールする文化があり、京都大学やヨーロッパの方々からみると自慢しているように映るそうである。貴重なアドバイスであると同時に、先生が生きた時代の学閥意識の強さを改めて実感した。また、色々な国籍の方々から色々な視点で、実際の研究内

4月7日ENSセミナー:4月9日小桧山先生宅訪問

 7日金曜、私がキュリー研で行っていた研究と最も近く、一番の競争相手ともいえる研究者で、英国の科学雑誌ネイチャーに論文が掲載され、飛ぶ鳥を落とす勢いのアメリカ人大学院生ジェフ・ゴア氏によるセミナーを、お隣のENSで聴講した。  彼の顔を見た瞬間「こいつかー!」と思った。ケンブリッジの学会で一緒にディナーをした相手であった。うかつにも私は彼程のキーマンの名前を失念してしまっていた。逆に、当時から彼はこちらが競争相手だとわかっていたらしく、研究の詳細や実験技術について質問しても、なかなか答えてくれなかった。(とはいえ、その後ゴア氏とはお互いが別の研究分野に移った後、2010年にボストンで再開することになった。)  その会場で、一緒にケンブリッジの学会に参加してENSの大学院生から、生物学者小桧山政経先生を紹介して頂いた。小桧山先生は、東京大学を学科主席で卒業後、ジャック・モノーに憧れ、終戦直後に単身船でフランスに渡り、モノーとノーベル生医学賞を共同受賞したフランソワ・ジャコブ博士のもとで研鑽を積んだ人物である。チェロ弾きとしても知られていたモノーに影響を受けてか、渡仏まもなくチェロを始めたらしく、それ以来長年チェロを続けているらしい。私は彼と研究の話がしたかったが、彼は僕がピアノを弾くことをその大学院生から聞くに及び、ベートーベンのトリオは弾けるか、モーツァルトはどうかと、一緒に音楽を演奏して遊ぶことにしか興味をもってもらえなかった。とにかく一度先生のご自宅に遊びに来るようにお誘いをうけた。  9日日曜晩、小桧山先生のサン・ラザール駅裏にある自宅を訪問した。先生は終戦直後にパリに船で渡り、以降CNRS研究員として永きに渡り分子生物学の研究に携わられ、現在パリ第六大学ジャック・モノー研究所にて未だに現役で研究に携わっていらっしゃる。とっても素敵な音楽部屋には、壁にはチェロが何台も飾ってあった。国立地方音楽院(CNR、現CRR)ヴェルサイユ校に通われているというヴァイオリン留学生の方もご一緒した。先生はモーツァルトのピアノトリオがお好きらしく、三人で弾こうと誘われた。一応は初見で弾き出してはみたものの、さすがについていけなかった。トリオで譜読み(楽譜を読んで演奏する、または演奏の準備をすること)に一番時間と労力を必要とする楽器はピアノであり、プロのピアニストでもしばしば割

4月6日キュリー研セミナー合宿@Dourdan

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 昨日、今日とパリ郊外Dourdanの施設でキュリー研主催のセミナーに参加してきた。前日からの体調不良のため、2日目のみ参加した。 とってものどかな町で古い町並みに趣があり、バカンスを過ごすにはいい所だった。  午前中から室内にこもってのセミナーであったが、天気がよかったせいか、午後になったら参加者が半分になっていた。ここでも、パリの研究所でも、セミナーや講義なるものは、全て基本的に参加は任意である。但し、自由には責任が伴うものであることを皆よく理解しているらしく、大事なセミナー程出席率が高く、学生の講義等は単位がかかっているため、日本の大学の様に、欠席する人や居眠りをする人は殆どいないそうだ。自由で優雅にみえるここの環境の裏には、全て自己責任という厳しい現実があり、皆ピラミッド社会で一つでも上に行くために、真剣に考えて行動しているのである。昼休みは同僚で共同研究者のミネさんとのどかな山道を散策しながら、お互いの生い立ちから育った環境について語り合い、理解を深めた。特に私がフランス・カトリック系の中学・高校に通っていたことは、彼女に親近感を与えたようだ。先日ケンブリッジで一緒にピアノを弾いて以来、彼女が音楽の話をしたがるのを避けるのが大変だった。彼女は常に私から音楽の話を引き出したがっていたが、私は彼女からフランスの研究業界におけるルールや文化、研究所で生き残るための情報を少しでも多く聞きたがった。  フランスエリート層から認められるために最も重要なことの一つに、教養と文化レベルの高さを彼らに認めてもらうことがある。パリ滞在を通じ、カトリック文化に対する理解と、ヨーロッパの歴史と文化、特にクラシック音楽に対する造詣は、彼らの中に溶け込む際の大きな助けとなった。

4月4日滞在許可証

 恐怖の滞在許可書申請。フランス入国後10日程度で滞在許可証申請すべての工程を終えるようにとの決まりがあるが、11月にフランスに入国してすぐ役所に手続きに来て提示された最初のランデヴー(予約)が半年後とは、いったいこの国の役人はどこまで仕事が遅いのか。単に仕事が遅いという次元を超えている。  書類にほんの些細な記載ミスが見つかっただけで追い返される(追い返されれば次の予約はまた半年後?)この環境で、今回も幸いにも必要書類全て不備なく提出することができ、この時点でようやく申請手続きを行ったことを証明する青いカードをもらうことができた。今回は「これをもって2ヵ月後にこい」と言われた。半年後でなくてよかった。半年後にはもう日本に帰国している予定である。  それまでフランスから出てはいけないことも告げられた。学会や週末休暇にヨーロッパの他国に滞在する予定が多くあったため、どうしたものかと悩んだが、隣の窓口で問い合わせたら、出国手続きさえすれば問題ないと言われた。対応する役人によっていうことが違ったり、場合によっては真逆であったりすることも、この国に滞在する者にとっての洗礼である。自分の手続きを終え、半年前に自分も並んでいた長蛇の列の前を改めて観察してみると、多くのアラブ系、中国系移民たちが何かと指摘をうけて、彼らのほとんどが門前払いを受けている。ちゃんと対応した方が最終的には早く仕事が終わるのではないかとも思ったが、とにかく目の前の仕事がしたくないのであろう。果たして自分は帰国までに無事にアロカシオン(滞在許可証)をもらうことができるのであろうか。  ソルボンヌ・フランス文明講座を受けている人達の間で「ソルボンヌ症候群」なる言葉があるということを聞いた。この講座の短期間集中の詰め込み教育にまいってしまうことらしい。ほとんどの受講生は、中東や中央アジア、中国、東南アジア諸国からフランスに移住する権利を得ることを目的に、はるばるわたってきて、フランス社会に溶けこむために文字通り人生をかけてこの講座を受講しているのである。仕事をしながら、ピアノを学び、更に空いた時間で、趣味感覚でフランス語を学びにきていた私とは真剣度合いがまるで違っていた。彼らの人生をかけてフランス語とフランス文化を身に着けようとする姿勢からは、「ソルボンヌ症候群」なるものに陥ってしまう者がでてくるのも納得でき

4月1日パトリック・ジグマノフスキ&池田珠代@サール・コルトー

  この日、後年長きにわたり友情で結ばれることになるご夫妻のピアノリサイタルに足を運んだ。エコール・ノルマル音楽院に通っていた親友たちが、当音楽院で師事していたパトリック・ジグマノフスキ先生と、奥様である池田珠代さんによるデュオリサイタル。  人間的にもピアノ演奏の面でも、自由気ままな旦那と安定した奥様による、全く堅苦しさを感じさせない演奏会。アンコールで披露されたラフマニノフのイタリアンポルカなども、品格を保った上での遊び心あふれる演奏で、フランスエスプリの鱗片を、音と会場の空気から感じ取るとこができた。

3月28日アンスネス@シャンゼリゼ劇場

 ケンブリッジからパリに戻り、その足でそのままシャンゼリゼ劇場に直行した。  以前から、現代における最高のピアニストの一人であると目しているレイフ・オヴェ・アンスネスのピアノリサイタルを聴くためであった。どのプログラムの演奏も完璧で、テクニック的にも音楽的にも決して崩れることがない、驚くべきほど完璧な演奏だった。

3月26~28日Single Molecule国際会議@ケンブリッジ

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                 英国王立化学会主催の一分子生物物理学国際会議。  私はまだ24歳の大学院生であった頃に、英国王立化学会の論文レフリー(当学会誌に世界中から投稿された論文を審査し、採択するか棄却するか意見を述べる審査員)に任命され、レフリー活動を続けていたため、その本拠地を訪れることを、半ば興味本位で楽しみにしていた。  私はこの分野ではまだまだ新参者で、たまたま駅からタクシーに乗車した方々が、キュリー研の私の研究グループとライバル(というより険悪な仲)のグループ一行だったことに後で気がついた。知らないうちに重要情報を話すことがなくてよかった。  この分野で、少数の優れた科学者のみが集まる、大変密度の濃い学会であった。自身は工学出身で一介の新参者であったが、その白熱しながらもむしろ自由な討論の行われる場にとても刺激をうけた。この分野の大御所や有名人がほぼ全員一同に会し、一分子生物物理の最先端を端的に把握することができた。この学会で得た知識や、一刻を争う激しい競争を目の当たりにしたことが、その後のパリで研究を立ち上げ、遂行する際のモチベーションに強い影響を与えた。  日本人は殆ど参加していなかったため、幸運にも日本においてこの分野で最も権威ある研究者である柳田敏雄先生とゆっくりお話をする機会に恵まれた。彼は私の父の大阪大学大学院時代の後輩であり、「日本人研究者が世界の権威たちと渡り歩くためには、真っ向から討論を受けて立つと言い負かされてしまうため、目立たずこっそりネタを仕込んでおき、気が付いたら勝っていた。という様な戦略をとらないといけない。」という秘策をご教授頂いた。  この学会に参加していたハンガリー人の研究者に、かねてから私が目をつけていたハンガリーのゼゲド(Szeged)市の国立研究所のPal Ormos教授について話をしたところ、やはり彼はハンガリーで一番の生物物理学者だと、彼の研究や人柄について熱く語ってくれた。これがきっかけで後日、Szegedへ彼を訪問することになった。  この時、「レーザー冷却により原子を捕捉する技術」でノーベル物理学賞を受賞した後に生物物理の研究にシフトし、更にオバマ大統領の要請により、第12代アメリカ合衆国エネルギー長官も務めたスティーブン・チュー教授の講演を聞く機会にも恵まれた。彼の講演を次に聞いたのは、20

3月24, 25日ロンドン

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 ケンブリッジで開催される学会に出席するついでに、ロンドンに立ち寄った。ロンドンでは郊外のHern Hillにあるラ・サール会修道院に宿泊した。  私が卒業したラ・サール学園中学・高等学校は、カトリック系ラ・サール修道会の学校であったため、これまで外国に寄る時はしばしば現地のラ・サール会修道院に宿泊することがあった。修道院には必ずゲストルームがあり、修道士達は、来客をもてなすことも職務の一つであるため、毎度丁寧なおもてなしを受けていた。但し、彼らと寝食を共にし、定時には共に祈りをささげないといけないため、彼らのペースに生活リズムを合わせないといけない。また、女人禁制であるため、女性同伴の旅行の際は訪問がはばかられ、おそらく独身の間しか利用しないであろう。  その日も早めに夕食を済ませ、修道士の一人が、聖職者とは思えない程豪快なハンドルさばきで、夜のロンドンを案内してくれた。21年ぶりのロンドンは、幼いころの記憶とほとんど変わった感はなかったが、21年前はとても街とテムズ川が汚かった記憶があった。しかし、この時は街が幾分綺麗になっており、修道士が言うにはテムズ川にも魚が戻ってきたそうだ。翌日はウェストミンスター寺院、ビッグベン、作曲家ヘンデルの墓とヘンデルが住んでいたヘンデルハウス、王立音楽アカデミーなどを訪れた。21年前にここで家族とチャールズ皇太子の行幸を待っていたが、あまりにも遅くなりすぎて、その一行を見られなかった時のことを思い出した。

3月20日米国ワシントン大学からの共同研究依頼

 先日出版されたばかりの私の論文を読んだという、アメリカのワシントン大学の教授から、彼の理論を証明する実験を私の開発した実験装置で行なって欲しいという連絡を頂いた。  彼は、自身の理論が生命の起源にも迫るものであると主張しているが、私はその理論に懐疑的であり、興味がもてなかった。東京大学の先生方にも意見を求めたところ、いずれの先生方も興味を示さず、「理論家と組むと実験家が汗をかくことになる(理論家は口を出すが手を動かして実験をすることはないため、実験家だけが一方的に手を動かす、つまり汗をかくことになる)」というわかりやすい助言を頂いたため、共同研究の提案には応じないことにした。

3月18日エリック・ハイドシェックマスタークラス@スコラ・カントロム

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 土曜休日。キュリー研から徒歩数分のところに、スコラ・カントロムという音楽学校がある。そこで、フランスを代表する歴史的大ピアニスト、アルフレッド・コルトー最後の弟子の一人で日本にもしばしば来日公演を行っているエリック・ハイドシェック氏のマスタークラス(公開レッスン)を聞きに行った。因みにハイドシェック氏は、シャンパーニュ地方のランス生まれで、有名なシャンパン醸造元シャルル・エドシーク(英語読みでハイドシェック)家の御曹司でもある。以前お会いした時に、是非聞きに来てくれと誘われての訪問だったので、中休みに楽屋に顔を出したら喜んでくれた。彼は誰に対しても気さくに接する方で、その後フランスで何度かお会いする機会があったが、いつも顔を覚えていてくれて、彼の方から声をかけてくれることすらあった。この時、スコラ・カントロムという以前から聞いていた音楽学校が職場のすぐ近くにあることを知り、またそのこじんまりとした趣のある、まるで使い古された個人の邸宅跡のような雰囲気の中で歴史的な音楽家達が後進の指導にあたっていることが、キュリー研の趣と重なって映った。その後様々な機会にここを訪れる機会があり、お気に入りの場所の一つになった。  後年、2度目のパリ滞在時に、ザルツブルクで指導を受けたガブリエル・タッキーノ氏も後日ここで教えることになり、私に彼のクラスに参加しないかと誘われたが、既にアメリカ行きが決まっていたため断らざるをえなかった。もしそれが1年早ければ、私はキュリー研で仕事をした帰りに、スコラ・カントロムでタッキーノ氏のレッスンを受けるという、思いつくことすら不可能なくらい贅沢な、二束わらじの生活を送っていたかもしれない。但し、そこまでピアノにのめりこんでしまっていたら、おそらく私の職業上のキャリアは壊滅していたであろうことを考えると、それが実現しなくてよかったと、今では思う。

3月16日知人来パリ&ソルボンヌで学生蜂起

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  この頃はすでに数え切れないほどの知人がパリを訪問し、キュリー研究所やその周辺の案内をこなしていた私の中では、訪問者の時間的余裕に対応した案内コースとそれに対応した記念写真撮影スポットが幾通りも用意されていた。30分コース、1時間コース、1時間半コース、夕食付コースなど、通常時間の限られた中で訪問してくれる彼らに、彼らの興味や状況に合わせた最も効率の良い案内をすぐに用意できるようになっていた。大学時代のサークルの後輩とその友達が、旅の途中半日だけパリに立ち寄ってくれた。1時間半だけしかご一緒する時間がなかったが、一時間半コースで、キュリー研、パンテオン、ソルボンヌを急ぎ足で案内した。  ちょうどソルボンヌに向かった時、学生のデモ隊にに遭遇した。大学を機動隊が封鎖していた。ソルボンヌ前のサン・ミッシェル通りは学生のデモ隊と武装警官が小競り合いをしており、煙が立ち込めた中でビンの割れる音が聞こえたり、なかなか迫力があった。この時の暴動の趣旨が何であったか、今となっては知る由もないが、自分たちの主張を行動でもって示すフランスのこれらのデモやストライキの文化にある種の合理性を感じた。科学技術立国を自称する日本で研究者・技術者が世界に類を見ない程の不遇を受けていることは、世界の科学界ではよく知られている事であったが、その全理系人材が1週間でもいいのでストライキを起こせば、日本社会は麻痺し、理系人材への待遇が改善されるのではないかと思った。