6月20日実験成功

 2006 年6 月20 日は記念すべき日になった。Rad51(相同組み換えタンパク質の一種)タンパク質がDNAをねじる運動を世界で初めて観測することに成功した。その日の午後、オランダの研究室から見学者があり、彼らに我々の実験テクニックの秘密を話さないようにとの注意が回っていた。彼らに我々の研究の説明をぼやかしながら話した午後2時頃には、まだ実験には成功しておらず、また訪問者らはその実験の重要性には全く気づいていなかった。ここ1カ月近く、磁気ピンセットを使って手作業でDNAを一本一本、数十回のねじりを加え、二重鎖で欠陥がなく、一本で独立してある二重鎖DNAを探すという途方もない地道な作業を繰り返していた。そしてこの日の午後4時頃、ついに「いい感じ」と直感で判断できるDNAを一本、磁気ピンセットで引っ張った状態で保持することに成功した。ここにRad51タンパク質を適切な化学条件で加えると、Rad51蛋白質がDNAをねじる動作がみられるはずである。慎重に慎重を期して試薬を準備し、Rad51タンパク質を導入したところ、その蛋白質がDNAに重合し、遂にDNAがねじれる運動を観測することに成功した。
 しばらくの間、まだ人類史上自分一人しか見た事がない、DNAがねじれて磁気ビーズがくるくる回っている様子を手作りでくみ上げた顕微鏡がモニターに映し出したその映像を一人で見入っていた。おそらくこの瞬間程、科学者としての感動と興奮を覚えたことはなく、今後もおそらくこのような機会には巡り合えないであろう。今後私が研究者を続けることがあれば、その原動力はこの時の感動に因るところが大きいだろう。共同研究者のジョバンニを呼び、その映像を見せるが早いか、彼はその意味を瞬時に理解し、「DNAがねじれて磁気ビーズが回っている!!」とびっくり仰天し、飛んでヴィオヴィ先生を呼びに行った。知らせを聞いた他の先生方や同僚達もすぐに駆けつけ、始めてみるDNAのねじれ運動を皆でしばらく鑑賞していた。理論的に予測していた回転速度よりもだいぶ遅かったが、それ自体は大したことではなかった。ヴィオヴィ先生から”Beautiful experiment”(美しい実験だ)との激励を受けた。
その後は数ヶ月にわたり、研究所外に情報が漏れないように厳戒令が敷かれた。内部情報を知ることのできる物理化学部門では、大学院生からノーベル賞受賞者まで、食事中の話題も、廊下の立ち話も、私が作った実験系と今後可能となる実験、その先の研究の広がりまで、実験成功の話題でもちきりであった。しかしそれもほんの数ヶ月の束の間、一流の世界では当然のことながら、しばらく経ち、この話題のインパクトが薄まるにつれ話題にのぼる頻度も減り、遂にはこの仕事が完全に忘れられてしまったかのように誰も口にすることはなくなった。
 2005年11月、キュリー研究所に到着したその日から実験の準備にとりかかった。物置きになっていた古い大型の防振台の左半分を使っていいと言われた。そこには多くの持ち主不明の実験器具やがらくたが積み上がっていたが、根気良く一つ一つ持ち主達と交渉し、撤去してもらい、そこを実験スペースとした。またフランスで顕微鏡を購入しようとしても、発注から納品までに数ヶ月もかかってしまうので、防振台の上に、所内に転がっていてがらくたと化していたレンズ、ミラーやCCDカメラなどの余っていた機材を並べ、手作りで顕微鏡をくみ上げた。幸い数ヶ月で顕微鏡が出来上がり、実験機材と材料がそろった。しかし全ての材料が揃い、計画通り実験を行った所で期待通り実験が成功することはまずない。同じ作業を繰り返しては条件を少しずつかえるという手順をひたすら繰り返していき、その間早くも半年近くの歳月が流れていた。
 当初は、DNAのねじり運動を観察するためには光ピンセット装置を準備する方が良いというのが先生達の案であったが、私は様々な経験、理論的根拠と実験研究者としての経験からの直感で、それではうまくいかないと思い、また短期間で成果を挙げたかったため、本当にうまくいくかもわからない新型磁気ピンセットを発案した。この研究所でよく用いられている光ピンセットの案を退け、本当にうまくいくかもわからない、自分で発案した新型磁気ピンセットを製作して実験をすすめることについて、先生方にも納得してもらうのに一苦労したが、地球の裏側からやってきた一介の若者に自分達の案を退けられたのにも関わらず、その発案を受け入れてくれたことに感謝したと同時に、一流の研究所に働く一流の研究者の度量の広さに敬服した。

コメント

このブログの人気の投稿

11月3日キュリー研究所初出勤

10月2日パリ生活残りわずか

2009年9月19, 20日先輩の結婚式@ボルドー