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2009年27~30日出発

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  帰国のため、昼は荷物まとめ、電話やインターネットの解約、銀行口座の継続手続きなどで息つくまもなく、夜は沖縄県人会で送別会(オールナイト)などで、予定はすし詰め状態だった。音楽留学でパリ在住の友人達が、家具や楽譜を受け取りにきてくれた時、パリを去るとともに、音楽ともお別れすることに寂しさも感じた。  パリは私に、科学と芸術が共存する世界を教えてくれた。また私にとっては、前者は科学研究で、後者は趣味ながらピアノを通じてこれらを両立するという二度とないであろう生活環境を与えてくれた。程度の差はあれ、パリ以外でこのような生活を送ることは不可能だろう。その後も科学研究を続ける限り、年に1度は立ち寄ることになるが、在住時のような日々は二度と体験できない。  出発の日もシャルル・ド・ゴール空港まで友人達が見送りに来てもらった。2度目のパリ在勤も、友達に恵まれた滞在だった。

2009年9月26日フレデリック・ジェフスキ@オペラ・バスチーユ

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  午前中、音楽家の友達の案内を兼ねて、昨日が最終出勤日であったキュリー研に、部外者として入った。彼らにENSや、キュリー研のカフェを案内して、この研究所の文化的側面について、まるで自分の故郷について語るかのような気持で説明した。  夕方はオペラ・バスチーユ劇場でジェフスキ氏の演奏会。パリ国立高等音楽院ピアノ科に通う友人達と聴きに行った。現代音楽の演奏会なので、やや忍耐のいる演奏会だった。本人の演奏は、最後の「深き淵より(De Profundis)」 1曲のみ、ピアノソロしか弾かなかった。演奏の一部として、ピアノをたたいたり、叫びだしたりする箇所では、現代音楽になじみのない観客の中から、小声で笑い出す声も聞こえた。しかし、彼の音楽に傾倒して10年以上が経つ私にとっては、その演奏から伝わってくるもの凄いエネルギーと彼の人生感の凄まじい表現力に、感動とともに戦慄を感じた。ピアノのふたを閉めて鍵盤では音を出さないクライマックスには圧倒された。未だに彼は当代随一のコンポーザー=ピアニストであり、真のヴィルトゥオーゾだった。 71才、この方はこれからもまだまだパワーアップしていくのであろう。  パリ音楽院でピアノを学ぶ友達が、彼の曲を練習している最中だったので、終演後、彼をジェフスキさんに、将来有望な若手ピアニストとして紹介した。奥様に追い出されたブリュッセルの自宅から、エスターとノーム君がきていた。二人とも以前あった時に比べ、背が伸びて大きくなっていた。  興奮が冷めないまま会場をでて、ピアノ科の友達に加え、ヴァイオリニストの友達も合流し、バスチーユ界隈で夕食をとった。パリで、将来有望な若手音楽家らとの会食。これも最後になるのかもしれない。

2009年9月25日キュリー研究所最後の出勤

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2回の勤務で合計2年半、フランスに永住しない日本人研究者としてはかなり長い期間滞在したことになる。素晴らしい研究所、研究室、同僚達、プライベートの友達に恵まれて居心地が良すぎたこと、二度と出会えないかもしれない成果に遭遇したことが2度の滞在や長居の要因だったようだ。まだ残りたいし、まだ残らないか誘われ、残ることも可能だったが、滞在後半は次第にグループ内での自分の役割や貢献が減ってきた。一仕事を終えて、私がここでできる最大の成果を挙げるという使命を果たし、それ以上の次にやるべき仕事はここにはないので、やはりここで去らなければならない。  最後の出勤日はグループメンバーで最後のミーティングと、この研究を引き継ぐ新しい大学院生スコット君の博士研究の議論をし、同僚たちとENS(高等師範学校パリ校)での最後の昼食をとった。午後はあまり仕事を入れず、あいさつ回りでお世話になった方々に琉球紅型を贈り、夕方皆がpot(飲み会)をしてくれた。去ったはずの昔の同僚達が何人か、「たまたまパリに用があったから来ただけさ」と、さりげなく居合わせてくれて、とても感激した。ジョバンニが、論文が採択された時のために買っておいてくれたワインをあけた。大ボス、ジャン=ルイ(ヴィオヴィ先生)に「いつまでキュリーに居るのか、あなた(tu)はリタイアしなさそうだが」と問うと「私はリタイアしない」と即答された。この科学者も定年など関係なく、ジェフスキ氏のように、生涯科学研究に邁進し続けるのだろう。あっぱれでかっこいい生き様である。 何十年経ってもパリは変わらず、キュリー研もこの部屋も何も変わらないだろうが、皆いなくなっているのだろう。キュリー夫妻に始まり我々に到る、その繰り返しでキュリー研の歴史が積み重なっていく。皆との別れを惜しみながら、7時には研究所を後にした。去りながら研究所を振り返ると旧館(キュリー夫人が建て、最後までいらした最初の建物)の後ろから閃光のような夕日がさしていて、まるで後光がさしているようだった。成果を挙げた直後の栄光の瞬間と、それらが忘れられた後の長い寂しさと、ここまで命をかけてやりきった感。二度とここで勤務することはないということが、直感的に分かっていた。またここで同じように働くことはできるが、それが科学界にとっても私個人にとっても最良の選択肢でない限り、戻ってはいけない

2009年9月24日ジェフスキ氏とパリのラーメン屋で

  バスチーユのオペラ座で演奏会に出演するため、フレデリック・ジェフスキさんがパリに一人でいらした。2晩しか滞在しないのに、着いた初日に会って頂けるとは、なんとも光栄で嬉しいことである。その前日に突然電話で連絡を受け、びっくりしたと同時に、パリを去る直前にお会い出来ることにご縁の強さを感じた。  オペラ座前の階段で待ち合わせた。すこしやせて耳が遠くなり、髪もさらに薄くなった感じを受けたが、相も変わらずますますお元気そうでよかった。日本料理が食べたいのでどこかいいところ連れてってくれと言われ、かなり迷ったが、来日公演の際、高級料亭より屋台ラーメンが美味しかったという話をだいぶ前に伺ったことを思い出し、メトロのピラミッド(Pyramid)駅近くの、日本人が経営する庶民的なラーメン屋に連れて行った。特に餃子を気に入ってくれたらしい。あんなに小さなラーメン屋で歴史的大作曲家であるジェフスキさんとチャーシュー麺を2人ですすってキリンビールを飲んでいるとは、何というシチュエーションであろうか。いつもの調子で、哲学的な科学と音楽のうんちく話であっという間に時間が過ぎた。毎回とても興味深い話をしてくれるが、いつも別れたらすぐにその大半を忘れてしまう。毎回録音していたら、今頃本が一冊仕上がっただろう。   ブリュッセルから来たのかと聞くと"It's a long story"というので何かと思えば、2人目の奥さんから一緒にすまない方がいいといわれてブリュッセルの自宅を追い出され、ロンドンの友人宅にかくまってもらっているらしい。そして土曜は1度目の奥さんと家族がパリにきて久々に集まるらしい。そんな彼ももう71才である。 明後日の演奏会には、自分も親しい2つめの家族の息子さんノーム君と娘さんエスターが来てくれるらしい。21曲作るといっていたナノソナタも、筆が止まらず42曲書いてしまったらしい。とりあえず土曜に演奏会で会おう。3月にもニューヨークでウルスラ(女流ピアニスト、ウルスラ・オッペンス)と一緒に会おうといってくれた。その頃にはナノソナタも更に増えているのかもしれない。   演奏会前にお疲れにならなかったか心配しながら、更に老けたマエストロの後ろ姿をメトロで見送った。初めて東京でお会いしてから10年が経っていた。当時私はまだ10代であった。私も彼

2009年9月19, 20日先輩の結婚式@ボルドー

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沖縄出身でフランスに永らくピアノ留学していた先輩の結婚式で、ボルドー地方を訪れた。フランスの結婚式は市役所での調印式が終わった後は、ひたすら朝まで飲み明かす、そんな感じに形式張ったところがなくなごやかで、朝まで飲んで踊ってとにかく楽しく、なんだか沖縄の結婚式に近いものを感じた。 お二人とも緊張ぎみでかたかったが、とても輝いていた。フランスの片田舎での結婚式、純粋にフランスらしい結婚式に参加する機会があり、とても良い思い出になった。それにしても100%フランス語だけの一日は、さすがに疲れた。

2009年9月17日論文採択通知

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 キュリー研を去る直前に、ようやくここで数年に渡り遂行してきた研究成果をまとめた論文が米国科学アカデミー紀要(PNAS)に採択されたという連絡を受けた。2005年から2006年にかけての1度目のキュリー研滞在時に実験系の開発から生物実験のプロトコルの立案まで、厳しいけれども創造的なチャレンジを、自分の采配でさせてもらう稀有な機会に恵まれた。回転型磁気ピンセット(これをヴィオヴィ先生は「新世代磁気ピンセット」と呼んでくれた)の奇跡的な発明が功を奏し、2006年6月20日Rad51蛋白質がDNAをねじる運動を世界で初めて観測することに成功した。その直後に、蛋白質が一分子ごとにDNAをねじる運動も観測された。ヴィオヴィ先生が「エレガントで美しい」と評してくれた実験手法と、その観察された現象のあまりの新規性に、その後しばらくは研究所外に情報が漏れないよう厳戒態勢が敷かれた。内部情報を知ることのできる物理化学部門では食事中の話題も、廊下の立ち話も、大学院生からノーベル賞受賞者まで、自分が作った実験系と実験成功の話題でもちきりだった。しかしそれもほんの数ヶ月の束の間、一流の世界では当然のことながら、しばらく経つとまるでこの仕事が完全に忘れられてしまったかのように誰も口にすることはなくなり、あとはひたすら論文にまとめるための実験に数年の歳月を費やしてしまった。何年にもわたる地味で複雑な作業の繰り返し、米国科学アカデミー紀要(PNAS)の審査過程の厳しさ、追加実験の困難さなどで主要プレイヤーである自分とジョバンニは、既にこの頃には疲れ果ててしまっていたようである。あるいは学術雑誌中の最高峰Science, Nature, PNASのどれかには採択されて当然の成果だと我々も周りも確信していたものだから、なお更不採択にはさせられないというプレッシャーがあったのかもしれない。  採択の知らせを受けた当日、既に去ってしまった共同研究者や噂をきいた他グループのメンバーや大ボス、ヴィオヴィ先生がお祝いのメッセージを送ってくれたが、その時キュリーにいた当事者である自分とジョバンニはその日何度会っても一度もそのことを話題にすることなく、いつものようせかせかと仕事の話しかしなかった。以前は採択された時はみんなでシャンパンをと思っていたが、それどころではない忙しさやこの研究に対する疲れからか

2009年9月9日キュリー病院

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  パリを去る日程がほぼ確定してきたこの頃、キュリー研では研究を引き継いでくれる予定の大学院生さんに、引継ぎを徐々に始めていった。私の発明した次世代磁気ピンセットシステム(FRMT)を使った研究をアメリカでも日本でも行う予定はなく、私が去っても、キュリー研のこの場所で、誰かに使ってもらい、更なる研究発展に寄与してもしいと切に願った。この研究の今後の発展は彼にかかっている。しっかりやって欲しいものだ。アメリカに移った時も、日本に戻った時も、年に1度は出張でキュリー研を訪れ、この装置が稼働しているのを見るたびに、とても誇らしく、かつ嬉しく思った。  キュリー研(研究所と病院)職員による演奏会の時のCDを受け取りに、キュリー病院へ、演奏会主催者の一人であるコリーヌさんを訪問した。キュリー病院に入ったのは、1度目の訪問時に予防接種を打ちに行った依頼、3年半ぶりだった。コリーヌさんが、小児病棟で、がんに苦しむ子供たちを見て欲しかったらしく、彼らの可哀そうな病状を説明してくれた。ジョリオ=キュリー夫人も最後はこの病院に担ぎ込まれたらしい。  晩は友達4人で、フランスで初めて映画館にいった。ジーアイジョー(G.I. Joe)は子供の頃ボストンで流行っていたのを覚えているが、原作とは余りにも違い、トランスフォーマーの実写映画に同じく、半分ギャグのように感じた。フランス語吹き替え版のアメリカ映画を初めてみたのも初めてだった。

2009年8月25日赤門同窓会@パリ

 ロンドン留学中の大学・サークルの同期と、旅行で来ていた同じくサークルの同期、彼のハーバード時代のルームメイトで医師・神経科学者の M 君とで集まった。キュリー研とその周辺を案内し、レアール広場の辺りで食事をした。金融マンや官僚さん達には、キュリー研やソルボンヌなどの古い伝統ある建物には興味をもってもらえなかったようだ。

2009年8月9日~21日モーツァルテウム音楽院@ザルツブルグ

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  ザルツブルグを直訳すると塩の山。世界中から各界のセレブ達の集まるザルツブルグ音楽祭の期間中なので、市内には裕福な観光客が多く、市内を馬車が多く通るため、路上に巨大な落し物がよく転がっていた。ザルツブルグ在住の日本人が曰く、この時期は「馬糞の香る街ザルツブルグ」だそうだ。  フランスで過ごす最後のバカンスシーズンであり、おそらく人生最後となる長期休暇で、私のピアノ学習の最後を締めくくることになると、前々から予想していた夏は、大指揮者カラヤンも指導したことで有名な、モーツァルテウム音楽院の講習会に参加した。この講習会は、おそらく大規模の講習会では、世界で最も権威があり、参加者のレベルも高い講習会である。世界中から音楽を学ぶ者が集まり、その多くの割合は、それぞれの講師によるオーディションでふるいにかけられ、初日で参加すら断られてしまうという大変厳しいものである。  音楽院の、入ってすぐのホールに、講師の先生方の写真が展示してあった。いずれも名前を聞いたことがある著名な音楽家達ばかりで、彼らの顔写真をみてまわっていると、突然ギャルドン先生のドアップ写真があり、一瞬驚いた。よく考えれば、彼もここで違う週に教えているのだ。私は、おそらく人生最後のピアノの修行になるであろうこの夏の講師として、フランス人ピアニストで兼ねてから師事したいと思っていた、ガブリエル・タッキーノ氏のクラスに希望をだした。彼は、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団や、カラヤン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団と若き日に共演を重ねるなど、輝かしい演奏歴をもつピアニストである一方、フランスを代表する作曲家、フランシス・プーランク唯一の弟子として知られ、作曲家本人から教わったプーランクの音楽や演奏法を後進に伝えることに情熱をもっていらした。二度に渡るフランス滞在中、私が最も力を入れた曲はプーランクの楽曲であったため、パリを去る前には是非とも作曲者直弟子のタッキーノ氏に本物のプーランクの音楽を学びたいと切望していた。  初日、タッキーノ先生のクラスで生徒達が集まった。生徒にはモロッコ人、ギリシャ人と日本人がおり、後日韓国人が途中参加したそうだ。初日はオーディションのみで、レッスンがなかったので、ザルツブルグの街を歩き、モーツァルトの生家を見学し、晩は音楽院の練習室で練習した。カラヤンの家

2009年8月3日シャンタル・リュウ@Nogent-sur Marne

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  ここに来るのは、おそらく最後になるだろう。2006年以来、何度もここに通った。かつてはプーランクが、この町の叔父の家に滞在していたらしい。  いつでも笑顔を絶やさない、年齢を重ねても強くて美しいシャンタル先生。この日はいつになくご機嫌がよく、おそらくその頃ご自分でも演奏されていたアンリ・トマジ(Henri Tomasi)というコルシカ人作曲家の曲をいくつも弾いてくれた。先生のご自宅にあるペトロフ社製のピアノは、あまり状態がいいとはいえず、極めて弾きづらいのであるが、先生が弾かれると、まるで別の楽器であるかのように綺麗に鳴るのだ。シャンタル先生は、いわゆる世界的なスターピアニストではないかもしれないが、音楽とは別の本業で滞在しているにも関わらず、このような本物のピアニストに指導を受け、お近づきになり、お人柄や、音楽を通しての様々な価値観を共有できるパリという街の魅力、またシャンタル・リュウというピアニストの魅力と思い出は、私の人生と共に一生ついて回るだろう。

2009年8月1日Musée Maurice Ravel@Ville de Montfort-l’Amaury

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 ピアニストの岩崎セツ子氏に、パリに滞在中に是非一度は訪れなさいと勧められていた場所の一つで、以前から一度は訪問したいと願っていた作曲家モーリス・ラヴェルの住んでいた家に向かった。駅から遠く、タクシーも通らない田舎にあるため、小旅行かハイキングの感覚で訪れた。  その日は来客も少なく、とても気さくな管理人のおばさんが、ゆっくり丁寧に家中を案内してくれた。どの部屋もそれぞれの色やテーマがあるようで、それぞれの部屋がそれぞれ独立した不思議の国とでもいえそうな、また中庭は日本庭園の様式で、まさしく芸術家による趣味を凝らした自宅であった。    我々はピアノ弾きだという話をしたら、ラヴェルの作曲部屋にあった展示品であるはずのラヴェルが作曲で使っていたピアノを、親切にも弾いてみてくれと、触らせて頂いた。エラール社製のピアノで、同時代のプレイエル程の軽いタッチだった。このような機会があるとわかっていれば、ラヴェルの曲の一曲は練習してきたかったが、レパートリーになかったため、プーランクの小品を3曲弾かせて頂いた。管理人のマダムも、日本人科学者がラヴェルのピアノでプーランクの曲を演奏するのを、楽しげに聴いてくれた。

2009年7月29日Au Lapin Agile

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  夜はモンマルトルの丘の上、フランスのピアノ界に多大な影響を与えたピアニスト、アルフレット・コルトーの名を冠したコルトー通りの裏にあるラパン・アジル(Lapin Agile)という老舗の歌酒屋で、今ではめっきり少なくなった古きよきパリを楽しんだ。パリが最も華やかであった20世紀初頭まで、貴族はサロンで、庶民はこのような歌酒屋に集まり、それぞれ音楽や社交を楽しんでいた。お酒を飲みながら歌を楽しめるここラパン・アジルにも、多くの画家、詩人、作家、喜劇役者達が集まる芸術的なキャバレーだった。  その暗く狭い室内の一角に置かれた古めかしいアップライトピアノを弾いていた老人のピアノは、コンサートホールでグランドピアノを弾くクラシック音楽のピアニストの演奏とは全く違ったスタイルの、初めて感じる味のあるピアノに感動したと当時に、このスタイルのピアノも時代と共に聴けなくなってしまうであろうことに寂しさを感じた。

2009年7月26日トム・ジョンソン宅

  日曜。午前中から昼過ぎにかけて、レピュブリック広場(Place de la Republique)のカフェで論文を読み(この頃週末の日課となっていた)、午後は自宅でピアノの練習をしてから午後4時、バスチーユ広場近くのトム・ジョンソン氏宅を、パリを去る前の挨拶を兼ねて訪問した。ベルサイユの大学で植物遺伝子の研究をしているアメリカ人のDavid Tepher博士も同席した。  既述の通り、私も彼の話には昔からあまり興味がなかったが、トム・ジョンソン氏は、その日私が説明したキュリー研におけるトピックであるDNA修復の話には、全く興味がなかったようだ。彼は自称数学者で、数学を基に作曲するミニマム・ミュージックの巨匠とされている。数式、しかも彼が理解できる程の簡単な四則演算がでてこない限り、彼の興味をひくことは難しいだろう。

2009年7月25日ノートルダムの鐘

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  土曜休日、ペール・ラシェーズ墓地で作曲家フランシス・プーランク、フレデリック・ショパン、思想家サン・シモン、シャンソン歌手エディット・ピアフらのお墓参りをした。  午後はキュリー研にたちより、少し仕事をしてから、パンテオン、ソルボンヌ裏を通るいつものルートでノートルダム寺院まで散歩をし、パリ滞在も2年を過ぎて初めてノートルダム寺院の塔に登った。  3年程前、初めてパリに移住した頃、敬愛するフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの「ノートルダムの鐘」の壮大なロマンスに魅了されて以来、いつかこの塔に登りたいと思っていた。「ノートルダムの鐘」にも登場するガーゴイル達を間近でみられ、その愛らしい表情から「ようやく会えたね」とでも言いだしそうな感激を覚えた。

2009年7月18日~20日週末はローマ経由でアッシジへ

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この週末もイタリアで過ごすことにした。一番の目的は、リストが晩年滞在し、名曲「エステ荘の噴水」や「エステ荘の糸杉」を作曲するモチーフになった、ローマ郊外のティヴォリ(Tivoli)へ、そのエステ荘を訪れることであったが、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院に留学中のピアニストの友人との朝食でついゆっくりしてしまい、電車をのりすごしてしまい、その日のうちにエステ荘へは行けなくなってしまったため、時間の迫る中、とっさの判断でアッシジに直行することにした。  結局は一泊二日のアッシジ観光になった。中学・高校と、フランスカトリック系の学校に通っていた時、中学時代に見たアッシジの聖フランチェスコの映画を鮮明に覚えていた。そのためか、アッシジの街並みや雰囲気自体が、映画でみたその雰囲気と重なり、趣深く感じられた。  目玉は何といってもフランチェスコ寺院。聖フランチェスコの棺があり、ご遺体の前では敬虔なカトリック信者達が祈りをささげ、感涙の泣を流す人、声を出して泣き出す人さえいた。信者でなくても(特に私は幼稚園からキリスト教系の学校に所属していたこともあり)敬虔な心持ちになってしまう、そのような神秘的な空間だった。  私にとってのもう一つの目玉、「小鳥に説教する聖フランチェスコ」のフレスコ画が、同寺院の壁に何百年も変わらずそこにある。19世紀にフランツ・リストがここを訪れ、このフレスコ画から得られたインスピレーションをもに、ピアノ曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を作曲した。このフレスコ画との出会いのため、リストの最後の高弟であり、演奏スタイルもリストと酷似していたと伝わるロシア出身のピアニスト、アルトゥーロ・フリードハイムが演奏する「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」の録音を旅行中しばしば聴いていた。その演奏から得られるインスピレーションやイマジネーションを思い出しながら、その壁画の前にかなりの時間立ちすくんでいた。リストがここを訪れた時、何を感じ、何と言ったのだろうか。きっと、彼の敬虔な信仰心と、スターとして振る舞いたい欲求の双方が入り混じった、パフォーマンスのような言動をしたのだろうか。アッシジでの晩は、400年続くと言われる老舗レストランで、地元ウンブリア料理を食べ、翌日パリに帰り、短い週末が終わった。  フランス人の同僚がこの旅程をこ