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8月21日マルセイユからアヴィニョンへ

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 明け方、ナポレオン・ボナパルト号はマルセイユに寄港した。時間がなかったため、マルセイユ観光はあきらめ、すぐにアビニョンに向かった。14世紀にフランス王フィリップ4世の圧力で、当時の教皇クレメンス5世により教皇庁がローマからアビニョンに移された事件(アビニョン捕囚)で有名な街だ。観光の目玉は旧教皇庁とサン・ベネゼ橋であるが、ファーブル昆虫記で有名なフランスの博物学者ジャン=アンリ・ファーブルの過ごした町でもあった。  アビニョンから、ファーブルが晩年を過ごした村セリニャンへ、一日一本しか出ないバスで向かった。アビニョンよりも、私にとってはセリニャンを訪れる方が重要であった。そこにはファーブルが「昆虫記」に記述している観察研究の多くを行った自宅と広大な庭が記念館として残されている。小学校時代、自然科学に興味を持ち始めていた私にとって、彼の昆虫記から受けた影響は大きかったと思われる。動物、特に昆虫類の多様性の神秘に魅せられ、自然に対する興味と観察研究における基本的姿勢(このことに関しては今でも興味と愛着以上に重要な要素はないと思う)を養っていったことは、後に実験系研究者となった私の原始体験として、彼の昆虫記との出会いに因るところが大きかった。  その昆虫記が書かれた、またそれらの観察が行われた場所にようやくたどり着いたわけだが、記念館が昼休みに入る時間と重なってしまい、帰りのバスに乗るためには昼休み後に来ては間に合わないことになる。何とか見せてもらえないかと管理人と交渉したが、「昼休みなので5分だけ」と言われ、結局急ぎ足で10分程その中庭を散策することになった。幼少期に熟読した昆虫記に、この庭での出来事や観察結果がたくさん書いてあった。まさにその場所に来たのだと思うと、昆虫記を読んで膨らませていた想像の中の彼の庭を思い出し、今自分が立っている場所と重ねあわせながらしばし感慨にふけった。  村はずれにある墓地に、ファーブルのお墓を訪問した。お墓にはラテン語で「(死は)決して終わりではない、もっと崇高な命への入り口だ。」と刻まれていた。一般向けの伝記では、歴史的人物にについてかかれた伝記のほとんどがそうであるように、純粋無垢の性格で、極貧生活の中わき目もふらず使命を全うしたように書かれてある。しかしまた、他の歴史的人物がそうであったように、大きな屋敷に使用人を多数抱え

8月20日Cargesからアジャクシオ、マルセイユへ

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 合宿は2週間に及んだが、私は早くパリに戻り、実験を再開したかったため、1週目が終わった段階で一人Cargesを後にした。途中で一人抜けるのは後ろ髪をひかれたが、残り少ないパリ滞在中に、できる限りのことをしたかった。  帰途、初めに立ち寄ったアジャクシオで少し観光をした。アジャクシオはナポレオンの生誕地として有名であるため、どこへいってもナポレオンに関する名所ばかりだった。イノシシなどのご当地名物料理を食べ、その名もナポレオン・ボナパルト号でマルセイユへ向かった。船室は3人一部屋。同室の高校生くらいの若いフランス人とデッキから夜の海を眺めながら話し込み、日本の教育環境や文化について様々な質問を受けた。船で夜を過ごしたのは初めてだったかもしれない。

8月19日合宿主催クルージング

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 Cargesの港から、道がなく船でしかいけないという小さな村までヨットで訪問した。その途中様々な地形の洞窟などを船上から見物した。小さな砂浜と埠頭があり、その周辺に小さな家がぽつぽつ散見し、中世の地中海を彷彿とさせる街並みだった。そんな小さな村にも小高い岬の上に小さなお城があった。現在では個人の所有で、残念ながら入ることができなかった。Cargesへの帰り、岩だけの無人島の側で停泊し、皆で船から飛び降り、その辺りの海を遊泳した。珊瑚礁の外で泳いだのは初めてだったかもしれない。Carges最後の夜は、インド人のタパン君と食事をして、将来の夢や計画について語りあった。

8月14日~ 生物物理夏の合宿@Carges

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 この合宿には、アメリカのハーバード大学、イスラエルのワイツマン研究所などから超大物研究者達が講師として呼ばれ、講義中のみでなく、食事やビーチバレーをしながらも彼らと討論をすることができた。講師も生徒も生物系分野の出身者はほとんどおらず、ほぼ全員物理系のバックグランドを持つ研究者達だった。早朝と夕方のみレクチャーがあり、それ以外は全くの自由時間だった。  この合宿を通じ、改めてヨーロッパにおける研究者の待遇の素晴らしさに衝撃をうけた。合宿が行われた会場は素晴らしい地中海の海を臨む丘の斜面にあり、ヨーロッパではめずらしく冷房が完備されていた。合宿中の食事のために、フランス本国からコックを数人連れてきて毎日おいしい食事を頂いた。沖縄の離島以外ではこれまでに見たことがない程白く美しいビーチで泳ぐことができ、宿泊施設にはPCルーム、無料国際電話、ピアノやオーディオ設備が設置されているMusic roomまでも完備されていた。面倒な書類作業などの、いわゆる雑用は一切は、秘書がしてくれる。合宿中も週末はもちろん休みであり、合宿に参加するために必要な交通費、参加費、宿泊費は全て研究所からの研究費で賄われており、個人負担をする必要は一切なかった。これくらいの環境でなければ超一流の研究者が集まってはくれず、またここに参加することにより超一流を学ぶわけであるが、日本社会でこのような環境を用意しようとすれば、経費の無駄使いだという野次が入り、問題視されるだろう。一流の人材を作らない日本の教育、社会制度を、戦後日本の再興を恐れた米国が作ったときいたことがあるが、社会や年輩から頭を押さえつけられて過ごす日本の優秀な若手研究者が、このような待遇を受けて一流の世界に積極的に参加する外国の研究者と対等にわたり歩くためには、本人の能力や努力以前に、かなりのハンディを負っているといっても過言ではなかろう。  講師を含めた参加者で黄色人種は日本人、中国人、琉球人がそれぞれ1人ずつだった。初日の自由時間はインド人達と卓球をしながら様々な情報交換を行った。複雑怪奇な数学を操りそうな勝手な印象をうけるのは、思い込みだろうか。彼らの中での英雄はやはり、天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンとインド人唯一のノーベル賞受賞者である物理学者のチャンドラセカール・ラマンであるらしい。  金曜

8月13日ニースからコルシカ島へ

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 朝ホテルをチェックアウトし、ニース港から高速フェリーでコルシカ島のナポレオンが生まれた街、アジャクシオヘ向かった。コルス=デュ=シュド県のカルジェーズ市にて、キュリー研究所(フランス)とマックス・プランク研究所(ドイツ)が共同主催する生物物理学研究者の夏の合宿へ参加するためである。ニースで趣味の音楽を学んだ次は、コルシカ島で本業である科学のサマースクールで生物物理を学ぶ形になった。その日は波が高かったため、高速船が低速運行し、だいぶ到着が遅れた。現地でバスへの乗り継ぎに数時間も遅れ、その日のうちに開催施設へ到着できないのかと心配したが、港で同じ講習会に参加するウクライナ人研究者カップルにばったり遭遇し、一緒にタクシーでバス停へ向かうことができた。幸運にも高速船が遅れたという知らせを受けてか、バスが我々の到着を待っていてくれたため、バス停でキュリー研の同僚達に合流することができた。  ウクライナ人達は、この時も、合宿期間中も終始一貫してロシア人以上に表情を変えず、常に険しい顔つきと態度をみせていた。抑圧された民族にありがちなお国柄であろうか。  バスで講習会が開催される施設に到着し、皆で部屋割りを決めた。キュリー研の同僚でイタリア人のパオロ君のドイツでの同僚、ドイツ人のトビアス君と同じ部屋になった。彼らは日本人の様に、毎日シャワーを浴びる習慣がないので、特に夏には鼻につく体臭を放つ者も多い。旅を終えて施設について、そのままベッドに入ったトビアス君は、強烈な悪臭を放っていた。この日はさすがに疲れがたまっていたため、パニーニを食べに外出した後、晩はすぐに寝むりについた。

8月11日ロジェ先生レッスン

 その日のレッスンは英語で行われた。ドビュッシーとプーランクの曲からいくつかを再度みてもらい、ヨゼフ・ディヒラーとサン・サーンスの新しい曲を聴いて頂いた。この日はディスカッションが弾み、曲について、ピアノ演奏一般について、また彼ら作曲家の時代背景について、多くの議論を交わした。この時みて頂いたサン・サーンスによるいくつかの小曲については、作曲家本人の演奏が残されていて、その演奏から感じたインスピレーションや、具体的な奏法について自分の見解を述べ、先生の意見を伺ったところ、サン・サーンスが演奏するベートーベンを録音で聴いた時の感想を「かなり速く弾いていた。彼の方が我々よりはるかにベートーベンが生きていた時代に近いので、彼の方が我々よりも当時のことを知っているのだろう」と述べられていた。最後はBonne continuation(頑張って続けるように)。  翌日が講習会最終日で、先生やクラスの生徒達に別れを告げた。2年後の夏に再び戻ってくることになるが、当音楽院は翌年新校舎に移動したため、ギャルドン先生やタッキーノ先生らが学んだこの歴史ある古い校舎で学ぶのは最後の機会だった。