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8月10日エズへ小旅行

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 ニース滞在中は、基本的には練習室で練習し、他の生徒達のレッスンを聴講し、夜は先生方の演奏会を拝聴し、真面目に音楽の勉強をする日々を送った。この日は午後の空いた時間を利用してニース近郊の小都市Eze(エズ)へ観光に向かった。中世の岩城と街並みが尖った山にへばりつくように建てられ、メルヘンそのものだった。山頂から見える地中海と山肌に可愛らしいカフェやブティックが並ぶ絶景を眺めながら、しばしそのおとぎ話にでも出てきそうなメルヘンな世界に浸っていた。  日が落ちる前にニース市街に戻り、晩は丘の上の修道院で、ロジェ先生の講師演奏会を、ロジェクラスの生徒さんらと聴きにいった。フランスの作曲家エルネスト・ショーソンのヴァイオリンとピアノのための協奏曲を演奏された。演奏後生徒一同で花束を贈った。

8月9日ロジェ先生レッスン

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   この日はショパンとプーランクの作品をみていただいた。この日はそういう雰囲気だったのか、会話もレッスンもフランス語だった。時間に余裕があったので、追加でサティの小品も聴いていただいた。これらの作品は、先生もCDを出されていたので、前もって先生の演奏を研究してレッスンに臨んでいた。細かい演奏技法から大きな構成どちらに関しても、レッスンで指示されたことは、ほぼCDで先生が演奏されているとおりの指示であった。それだけ先生の、これらの曲やピアノ演奏に対する解釈が確固たるものになっているのであろう。  ニース音楽院にはチェンバロがほぼ全ての部屋やロビーに置いてあった。19世紀に多くの凍死者を出した大寒波がヨーロッパを襲った時、フランス北部では薪が足りずにチェンバロが暖を取るために燃やされて多くが失われたが、比較的暖かいフランス南部では、薪として燃やされずに今でも多くが残されているそうである。

8月8日ギャルドン先生モーツァルト

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 朝は音楽院の練習室で、レッスンで見てもらうための曲をいくつかさらい、昼は観光のため親友とモナコへ小旅行にでかけた。絢爛豪華なカジノ・ド・モンテカルロや日本庭園、F1のコースなどの主要な観光スポットを見物し、港に豪華なヨットが並んでいる光景や高級住宅街を眺め、お金は集まるとことに集まっているのだと実感した。  晩は講師演奏会でギャルドン先生がモーツァルトのピアノ協奏曲14番を弾かれた。レッスン以外で先生のピアノを聞いたのはこれが初めてだった。先生らしく、堅実で堅い、大人の男性的なモーツァルトだった。演奏後楽屋に挨拶にいき、ロジェ先生のクラスで学んでいると告げたところ、”Oh, Pascal! Tres bien”(パスカルのクラスか。素晴らしい)と。楽屋は訪問者でごった返していたため、あまり話す時間はなかったが、この時撮った写真が、ギャルドン先生との唯一のツーショット写真になった。

8月7日パスカル・ロジェ初レッスン

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 趣味としてピアノを弾いてきた私にとって、音楽大学生や卒業生の中でもかなり上位レベルの音楽家達に交じって講習を受ける事自体挑戦だった。昔からCDで聴き慣れている程の有名ピアニストのクラスで学ぶとなれば、それなりの心の準備も必要であり、初日を迎える頃はかなり緊張していた。これまでCDのジャケットで見慣れていた顔のロジェ先生が、音楽院の入り口に、ニースを歩いている他の一般人達と同じようなラフな格好、短パンにリュックサック、サングラス姿で突然現れた時、とっさに口から出た挨拶は英語だった。彼はフランス人であるが、アメリカでの活動が多く、英語も達者だ。このクラスを通じては、私に限ってはフランス語か英語で、おそらくその日その時の先生と私の間の雰囲気でいずれかの言語でレッスンが行われた。それ以外の雑談や他の日本人の生徒さんらへの通訳をする時は英語を使ってコミュニケーションをとった。  この日、午後一番に自分の初回レッスンが回ってきたため、午前中、昼休みと練習室で聴いてもらうべく楽曲を念入りに読み直し、確認、練習をした。昼休み、音楽院の入口で座っていると、突然ギャルドン先生が入ってきた。彼の実家はニースで、少年期、パリ音楽院に入学するまでこの音楽院に通っていたそうだ。彼が幼少の頃、ハンガリーの名ピアニスト、リリー・クラウスが演奏旅行の際彼の実家に宿泊し、彼の母親がクラウスのステージ用ドレスにアイロンをかけていたと、後日ご自分で回想していた。そのリリー・クラウスに認められてピアニストへの道に進んだらしい。彼は次の週にクラスを持っていたが、翌日講師演奏会でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾くことになっていた。バカンスを兼ねて、早めに帰省していたのだろう。どちらの先生も私にとっては緊張なしには話せない権威であるが、ロジェ先生のレッスン直前で緊張していたため、ギャルドン先生へのご挨拶をするタイミングを逃してしまった。  ロジェ先生の初レッスン。パリに住んでいること、科学者であり、ピアノは本業ではないことなど、軽く自己紹介をした。ギャルドン先生に習っていることを伝えたところ、「おお、オリヴィエのことはよく知っている」と。ギャルドン先生の生徒さんが優勝を勝ち取った2004年ロン・ティボー国際コンクールピアノ部門で、ロジェ先生とギャルドン先生は共にフランス側の審査委員を勤めた仲である。そもそも、

8月3日はじめてのバカンス:ニース音楽アカデミー

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 以前週末にイスタンブールへ向かうため、金曜休みをジョバンニに打診した時、「休みは仕事へのエネルギーをチャージするためにとるのだ。休むことに対して躊躇するな」と言われたことがあった。そうはいっても、生真面目な日本人研究者が初めて経験するフランスのバカンスである。羽を伸ばして英気を養おうと意気込んで臨んだが、フランスの同僚達並みに上手にバカンスを過ごすことができただろうか。  昼過ぎ、オレリー空港から早朝の便で一人ニースに向かった。空港からタクシーで音楽院に直行したが、6時前という早い時間にもかかわらず、既に事務所が閉まっていたのでそのままホテルに向かった。既に講習会の期間内であったため、晩は講習会主催の講師による演奏会が催されていて、早速会場である丘の上からニースの街と海が見下ろせる修道院へ向かった。ニース音楽院学長でロン・ティボー国際コンクールでギャルドン先生とグランプリを分け合ったジャック・タディイ先生と、ブルーノ・リグット先生によるシューベルト作曲連弾のための大幻想曲を聴くことができた。リグット先生の、ピアノというより歌と呼ぶのがふさわしいような、甘い音色と歌いまわしに驚愕した。打弦楽器であるピアノがあれほど朗々と美しく、甘い音で旋律を歌うのを初めて聴いた。  レッスン初日まで3、4日時間があったため、練習室で練習をしたり、講師演奏会を聴いたり、マティス美術館やローマ時代の円形闘技場など、ニース市内の観光地を回って心身を休めた 。(写真:当時のニース国立地方音楽院)

7月30日(日)

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 良い成果を出し、区切りのいいところで仕事おさめをし、人生で初めてのフランスでのバカンスを満喫するため、休日出勤で実験を進めていた。この日は日曜であったが、午前中から実験を始め、昼過ぎに実験に適したと思われるDNAが見つかり、Rad51タンパク質を追加し、蛋白質によるDNAのねじり運動観察が軌道にのり、たて続けにいいデータがとれていた。そのため、実験を止める訳にはいかず、終電ギリギリまでねばって実験を続けた。バカンス明けに詳しい解析をしてから証明されたことであるが、この時の実験で、このタンパク質がDNAをねじる際、まさにタンパク質の分子1つがDNAをねじる動きが、磁気ビーズのステップ状の回転運動から観察されていた。タンパク質一分子の動きを見ることができたという新たな実験的成功と、また一分子ごとのねじる角度を世界で初めて計測できたことに、深夜帰宅後も興奮していて、朝7時まで全く眠ることができなかった。  翌日ヴィオヴィ先生とのディスカッションでは、この一分子による動きを計測できたことについては、まだデータとしての根拠が不十分であったこともあり、強く主張はせず可能性を示唆するにとどめ、期待を持たせる形で打ち合わせを済ませ、気兼ねなくバカンスに入る準備を整えることができた。  この月は、キュリー研の至る所でイレーヌ・ジョリオ=キュリーの写真を展示している。メモリアルデイでもあったのか。キュリー夫妻の長女として、研究者という家業を継いだ彼女は、少女時代から晩年まで、どの写真をみても一貫して深刻、又は怒ったような怖い顔をしている。一方で、キュリー一家で一人だけ研究の道に進まなかった次女のエーヴは、家族で一人だけノーベル賞もらわなかった人物となったが、笑顔の美人、歴史的人物の娘、ノーベル平和賞を受賞した組織の長の妻、母の伝記を書いてベストセラーとなった作家、母のアメリカツアーの付き添いをしたジャーナリストとして、欲しい物全てを手に入れたかのような人生を送り、当時ニューヨークの豪邸で102才、放射線を浴びて白血病で早死にした姉の寿命の二倍を超える長寿を得、まだまだ健在だった。どちらが幸せな人生なのだろうか。エーヴは「キュリー夫人伝」の中で、自分だけ研究者の道に進まなかったことに対し、少なからずコンプレックスを持っていた雰囲気を醸し出していることを感じた。自分が長生きしたことは

7月27日滞在許可証ゲット

 ここ数日、実験がうまくいかないか、不可解なデータがでてばかりいた。翌週月曜、ヴィオヴィ先生と打ち合わせの約束を取り付けたため、それまでには何とか形にしなくてはいけない。  この日、入国から9ヶ月の時を経て、ついに滞在許可証を獲得した。入国後10日程度で滞在許可証を取らなければならない決まりのはずであったが、申請をするためのランデヴー(窓口対応の予約)の最短が半年と告げられた時は、本当にパリ滞在中に滞在許可証をゲットすることができるとは思えなかった。長い道のりだった。滞在許可証の期限は1年間で、毎年更新しないといけないため、この日役所の窓口で遂にゲット許可証の期限は、残り3カ月だった。許可証を受け取ると同時に、更新手続き申請のためのランデヴーを取るよう告げられたが、10月に帰国する予定であったため、不要だった。仮に更新手続きのランデヴーを取ったとしたら、同じように半年後だったのだろうか。二度とここの役所のお世話にはなりたくないと思い、ナンテールを後にした。

7月23日(日)一人観光

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 パリ滞在中に、なるべく多くのパリに眠る著名人達と会い、インスピレーションを得たいとの思いから、主な墓地巡りを一通り済ませておきたかった。この日は、当時パリでピアノを師事していたギャルトン先生の、先生の先生にあたるピアニスト、イヴ・ナットの墓参りに、パッシーの墓地へ向かった。その他、画家マネ、作曲家ドビュッシー、フォーレが眠っていた。その足でモンマルトル墓地へ向かい、作曲家ベルリオーズ、科学者フーコー、小説家エミール・ゾラ、詩人ハイネらの墓参りをした。彼らの墓前に、彼らの作品に触れた時の思いや、彼らの創作活動に思いを馳せた。後日、彼らの作品に触れる際に、この時の思い出がよみがえり、鑑賞又は演奏に何らかの味わいを与えてくれるであろう。  先月、大家さんが近所から苦情がくるのではという憶測(きたわけではない)から、部屋でピアノを弾ける時間帯が夜10時までだったところが9時に早まっていた。この頃、実験が忙しくなり、帰りが遅くなりがちだったため、ピアノの練習がますます難しくなっていた。日本における滅私奉公的な長時間労働に比べればまだ恵まれた方ではあったが、ニース音楽アカデミーでの夏季講習会を控えている時期に、かなりの痛手だった 。

7月19日パリ初胃カメラ!

 最近大好きなエスプレッソの悪影響もあってか、胃腸の調子が悪かったため、胃カメラ検査をすることにした。この日朝一でアメリカン病院に向かった。この病院は、薬物中毒でかつアルコール中毒だったエディット・ピアフが発狂した時に担ぎ込まれたり、ウサーマ・ビン・ラーディンなど世界の錚々たるセレブ達が入院した豪華で由緒ある病院である。20世紀フランスを代表するピアニストの一人であったサムソン・フランソワが倒れ、最後に運ばれたのも当病院だった。  大学院1年目、東京大学の厳しい労働環境で知られる研究室で働き出して約10ヶ月で胃潰瘍が出来て以来、定期的に胃カメラを飲んでいたが、幸いその時再発はしていなかった。麻酔後はバスや電車に乗らずにタクシーで家に直行するという誓約書にサインをしたが、平日だったためそのままバスでキュリー研究所へ向かった。平日なので家で休むことに意味もなく妙な罪悪感を感じてしまうことに、ここまできても日本人を捨てきれていない自分を発見した。麻酔が完全に抜け切れていないぼけた頭で、天才ジョバンニと画像解析技術について議論をした。おそらくほとんど議論になってなかったと思われるが、よく相手してくれたものだ 。