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3月24, 25日ロンドン

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 ケンブリッジで開催される学会に出席するついでに、ロンドンに立ち寄った。ロンドンでは郊外のHern Hillにあるラ・サール会修道院に宿泊した。  私が卒業したラ・サール学園中学・高等学校は、カトリック系ラ・サール修道会の学校であったため、これまで外国に寄る時はしばしば現地のラ・サール会修道院に宿泊することがあった。修道院には必ずゲストルームがあり、修道士達は、来客をもてなすことも職務の一つであるため、毎度丁寧なおもてなしを受けていた。但し、彼らと寝食を共にし、定時には共に祈りをささげないといけないため、彼らのペースに生活リズムを合わせないといけない。また、女人禁制であるため、女性同伴の旅行の際は訪問がはばかられ、おそらく独身の間しか利用しないであろう。  その日も早めに夕食を済ませ、修道士の一人が、聖職者とは思えない程豪快なハンドルさばきで、夜のロンドンを案内してくれた。21年ぶりのロンドンは、幼いころの記憶とほとんど変わった感はなかったが、21年前はとても街とテムズ川が汚かった記憶があった。しかし、この時は街が幾分綺麗になっており、修道士が言うにはテムズ川にも魚が戻ってきたそうだ。翌日はウェストミンスター寺院、ビッグベン、作曲家ヘンデルの墓とヘンデルが住んでいたヘンデルハウス、王立音楽アカデミーなどを訪れた。21年前にここで家族とチャールズ皇太子の行幸を待っていたが、あまりにも遅くなりすぎて、その一行を見られなかった時のことを思い出した。

3月20日米国ワシントン大学からの共同研究依頼

 先日出版されたばかりの私の論文を読んだという、アメリカのワシントン大学の教授から、彼の理論を証明する実験を私の開発した実験装置で行なって欲しいという連絡を頂いた。  彼は、自身の理論が生命の起源にも迫るものであると主張しているが、私はその理論に懐疑的であり、興味がもてなかった。東京大学の先生方にも意見を求めたところ、いずれの先生方も興味を示さず、「理論家と組むと実験家が汗をかくことになる(理論家は口を出すが手を動かして実験をすることはないため、実験家だけが一方的に手を動かす、つまり汗をかくことになる)」というわかりやすい助言を頂いたため、共同研究の提案には応じないことにした。

3月18日エリック・ハイドシェックマスタークラス@スコラ・カントロム

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 土曜休日。キュリー研から徒歩数分のところに、スコラ・カントロムという音楽学校がある。そこで、フランスを代表する歴史的大ピアニスト、アルフレッド・コルトー最後の弟子の一人で日本にもしばしば来日公演を行っているエリック・ハイドシェック氏のマスタークラス(公開レッスン)を聞きに行った。因みにハイドシェック氏は、シャンパーニュ地方のランス生まれで、有名なシャンパン醸造元シャルル・エドシーク(英語読みでハイドシェック)家の御曹司でもある。以前お会いした時に、是非聞きに来てくれと誘われての訪問だったので、中休みに楽屋に顔を出したら喜んでくれた。彼は誰に対しても気さくに接する方で、その後フランスで何度かお会いする機会があったが、いつも顔を覚えていてくれて、彼の方から声をかけてくれることすらあった。この時、スコラ・カントロムという以前から聞いていた音楽学校が職場のすぐ近くにあることを知り、またそのこじんまりとした趣のある、まるで使い古された個人の邸宅跡のような雰囲気の中で歴史的な音楽家達が後進の指導にあたっていることが、キュリー研の趣と重なって映った。その後様々な機会にここを訪れる機会があり、お気に入りの場所の一つになった。  後年、2度目のパリ滞在時に、ザルツブルクで指導を受けたガブリエル・タッキーノ氏も後日ここで教えることになり、私に彼のクラスに参加しないかと誘われたが、既にアメリカ行きが決まっていたため断らざるをえなかった。もしそれが1年早ければ、私はキュリー研で仕事をした帰りに、スコラ・カントロムでタッキーノ氏のレッスンを受けるという、思いつくことすら不可能なくらい贅沢な、二束わらじの生活を送っていたかもしれない。但し、そこまでピアノにのめりこんでしまっていたら、おそらく私の職業上のキャリアは壊滅していたであろうことを考えると、それが実現しなくてよかったと、今では思う。

3月16日知人来パリ&ソルボンヌで学生蜂起

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  この頃はすでに数え切れないほどの知人がパリを訪問し、キュリー研究所やその周辺の案内をこなしていた私の中では、訪問者の時間的余裕に対応した案内コースとそれに対応した記念写真撮影スポットが幾通りも用意されていた。30分コース、1時間コース、1時間半コース、夕食付コースなど、通常時間の限られた中で訪問してくれる彼らに、彼らの興味や状況に合わせた最も効率の良い案内をすぐに用意できるようになっていた。大学時代のサークルの後輩とその友達が、旅の途中半日だけパリに立ち寄ってくれた。1時間半だけしかご一緒する時間がなかったが、一時間半コースで、キュリー研、パンテオン、ソルボンヌを急ぎ足で案内した。  ちょうどソルボンヌに向かった時、学生のデモ隊にに遭遇した。大学を機動隊が封鎖していた。ソルボンヌ前のサン・ミッシェル通りは学生のデモ隊と武装警官が小競り合いをしており、煙が立ち込めた中でビンの割れる音が聞こえたり、なかなか迫力があった。この時の暴動の趣旨が何であったか、今となっては知る由もないが、自分たちの主張を行動でもって示すフランスのこれらのデモやストライキの文化にある種の合理性を感じた。科学技術立国を自称する日本で研究者・技術者が世界に類を見ない程の不遇を受けていることは、世界の科学界ではよく知られている事であったが、その全理系人材が1週間でもいいのでストライキを起こせば、日本社会は麻痺し、理系人材への待遇が改善されるのではないかと思った。

3月14日仁田賞

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    当時まだ東京大学大学院の博士課程に籍を置いていたため、とあるセミナーでの発表義務があり、一時帰国していた。その時私が東京大学で行った発表に対し仁田記念賞受賞が内定していたらしいことを、パリに戻ったその日に知った。しかし、残念なことに、東京から受けたのは良い知らせではなかった。  当日、私が発表を終えた 後、教授達の間では受賞内定が固まっていたが、翌日パリに戻らないといけなかったため、私はセミナー会場を早めに退席していたのである。セミナーが終了し、受賞を発表しようとした際、受賞内定者である私が不在であったことに気づいた教授陣が、セミナー早退はけしからんということでお怒りになり、受賞取り消しということになったそうである。日本では仕事の内容よりも態度や精神論が優先される、 そのことをパリに戻ったその日に再確認させられた。受賞が内定していなければ、きっと私が早退したことなど誰も気づかず、先生方の機嫌を損ねることもなかったであろう。福が転じて災いとなる(?)とでもいうべき逸話である。パリに戻るために早退したのであるから仕方のないことであったが、前もって申し開きをするなど、何かしら対応はあっただろうと反省。日本で生きていく予定であるからには、今後このような事態にうまく対応できるよう精進していきたいと思った。  この逸話を早速職場でカペロ先生に話したところ「孫にも語れるネタだね」と笑ってくれた。日本人とイタリア人の反応の違いを、今更ながら興味深く感じた。

3月12日Academie Internationale d’ete de Nice

  音楽留学生達は通常、夏のバカンスシーズンには各地の、主にリゾート地で行われる講習会に参加して各々腕を磨くということを、この日ピアノ留学中の知人から聞いた。後年流行った漫画「のだめカンタービレ」でもその様子が描かれている。夏は研究所もバカンスで長い休みに入るため、旅行だけで過ごすには長すぎる。これらの講習会がどういうものかもわからないまま、知人の「先生に聞いてみたら?」の軽い勧めがきっかけで、後日ギャルドン先生に話を持ち掛けたところ、ご自身も講師として参加するニース音楽院夏季講習会を勧められた。これまで音楽大学生や卒業生に交じって演奏したり、レッスンを受ける事はしばしばあったが、これら国際的に有名で、世界中から優秀な若手音楽家が集まると聞いていた講習会に参加することは大変な冒険であった。だが、先生が気軽に来いというのなら参加してもよいのであろうと思い、その夏ニース音楽院にでの講習会に参加したことがきっかけで、その後フランスで過ごした3回の夏のバカンスシーズンは、これらの講習会に参加することになり、さらにピアノに深入りしていくことになった。  これらの講習会でパスカル・ロジェ、フィリップ・アントルモン、ガブリエル・タッキーノら名ピアニスト達のクラスで指導を受けることになったことを思い返すと、知人の軽い一言が私に与えた影響は大変大きかった。

3月2日シャンタル・リュウ&CNRマルメゾン校オケ

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 パリ郊外にあるCNR(現CRR:国立地方音楽院)マルメゾン校へ、学校のオーケストラとそこでピアノ科の教授を務めるシャンタル・リュウ先生によるモーツァルトのピアノ協奏曲を聴きに行った。オーケストラには当校に留学中の知人のヴァイオリニストも出演していた。先生のピアノからは品格を保った強い意思が感じられた。アンコールには先日レッスンで見ていただいたばかりのショパンのノクターンを演奏された。終演後挨拶に伺ったところ、ご年配の男性方(先生のファンクラブ?)に囲まれていて、話しかけるのが難しかった。アンコールで先日レッスンでみて頂いたショパンを弾きましたね、とお話をしたところ”C’est pour vous !”(あなたの為よ)と気前良くリップサービスを頂いた。

2月22日~26日国際アマチュアピアノコンクール

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   毎年パリで開催されるアマチュアを対象とした国際コンクール。但しアマチュアの定義が日本とは異なり、「音大で学び、演奏活動をしていても、それで生計を立てていなければよい。」であり、音楽大学の卒業生で他の職に就いている人も多く参加していた。日本からは知人も多数出演しており、久しぶりの再会を喜んだ。毎晩世界中から集まった多国籍、異業種の出演者達と、ピアノという共通の話題を通じそれぞれの生活や文化的背景に触れることができ、世界が広がったような体験だった。  1次予選の会場たまたま隣に座っていたご夫人と話しをしていたところ、ギャルドン先生の話になり、彼に習うきっかけは岩崎セツ子氏の紹介であったことを伝えると、「セツ子を知っているの!?」と。彼女は国立高等音楽院パリ校の名教師、ピエール・サンカンのクラスに在籍し、一緒に勉強した仲だというのだ。そのクラスには当時ギャルドン先生を含め、ジャン=フィリップ・コラール、ミシェル・ベロフ、ジャック・ルヴィエら、現在フランスのピアノ界の大御所が一同に会していた伝説のクラスである。でもその方はその後ピアノをやめてテニスのコーチとして過ごし、引退後またピアノを再開したそうだ。様々な人がそれぞれの人生の中それぞれの目的や生活スタイルでピアノを弾いている。そのご夫人はその場で手紙を書き、「これをセツ子に渡してくれ。」と頼まれた。しばらく帰国する予定がなかったので、岩崎セツ子氏に自分からも手紙を書き、パリから沖縄へ、彼女の手紙を郵送した。当時サンカン先生は痴呆が進行し、死の床についておられたそうで、残念ながら後日その訃報を聴くことになった。    その日の出演者で一番お上手だったのは中国系カナダ人男性で、前回のショパンコンクール(プロの部門)にカナダ代表で出場していたそうだ。日本でいうところのプロも多く参加していた。2次予選はソルボンヌ大講堂。ちなみにこの講堂で講演を許された最初の女性はキュリー夫人だったそうである。さらに、決勝はサル・ガヴォーで行われるという、とても華やかなコンクールである。また、決勝はフランスを代表するピアニスト達が審査員を勤め、過去にはアレクシス・ワイセンベルグ、アルド・チッコリーニら、今は亡き歴史的大ピアニスト達も審査員を務めたそうである。ギャルドン先生もよりによって今年だけ審査員をされていた。後で知人から聞いた話であ

2月20日ギャルドン先生レッスン

  知人の話によると、CNR(パリ国立地方音楽院)の先生達にはそれぞれガリガリ先生、カバ先生、まゆ毛先生などのあだ名があるそうです。ちなみにギャルドン先生はまゆ毛先生。  午前中お休みを頂き、ご自宅でレッスンを受けてきた。何故か今日は先生も興奮していて、三拍子の拍の取り方を、ワルツダンスを踊りながら説明して頂いたりと、なかなか熱いレッスンだった。先生も一般的なフランス人芸術家同様、気分屋であり、その日の機嫌でレッスンの雰囲気も相当左右される。但し、レッスンを途中で辞めたり、ドタキャンするなど、フランス人にありがちないい加減さはなく、レッスン内容は常に密度の濃いものであった。その日は、持参した楽譜と別の版の楽譜にかかれた音と比較し、音を直したり、指使い変えられたり、また新しいテクニックを教わった。彼は最小限のエネルギーで指の回る(速く正確に弾くことができるテクニックをもっていることを、ピアノ留学生の間では「指が回る」という)メソッドを持っており、それを教授する能力に長けていた。毎回レッスン後は、何年分ものピアノに対する知見と、音楽的に大切なものを得られたような満足感をえることができる。

2月18日土曜休日:パリ症候群

 午後はシャンタル・リュウ先生の二度目のレッスンを受け、晩は東京での学生時代からの知人宅でフェット(いわゆる飲み会)に参加した。今夜のフェットで、今回一度目のパリ滞在を共に過ごす主要メンバーと知り合うことになった。フランスに赴任する日本人男性はしばしば、職場では黄色人種だという理由で馬鹿にされ、プライベートでは友達もできず、八方塞がりになってしまう、いわゆる男性版パリ症候群になる人も多いと聞いていたが、今思えば私は公私ともにどれだけ恵まれていたことか。当時の同僚や友人達、また彼らと出会うきっかけを与えてくれた科学と音楽には、感謝してもしすぎることはない。

2月16日、17日キュリー研での討論

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    同僚のMartial君に、彼が開発した光ピンセット実験装置を見せてもらいながら、その設計や動作原理を色々と教えてもらった。17日は自分の研究について、共同研究者であるミネ博士とカペロ博士との討論を行ったが、知的遊戯と言ってもよいものか、自由な発想をお互いに出し合い、それらをブレンドして何らかの知的産物を生むその議論は、なんともいえない楽しさがあった。相手の年齢や立場を気にしながら発言をするため、自由な発想はむしろ叱責の対象となっていた日本での研究討論を楽しいと思った事がなかった私にとってはあまりにも新鮮であった。これこそがキュリー一家から続く伝統ある知の生産方法なのであろうか。ソルボンヌに通い始めた話をしたところ、イデーがフランス語を始めたと喜んでくれた。ちなみにイデーとは、私のファーストネームの省略系Hideのフランス語発音で、アイディアを現すフランス語idéeと同じ発音であるため、私はこの愛称を気に入っていた。  討論は4階にあるこじんまりしたカフェで頻繁に行なわれた。壁に貼られたホワイトボードには、数々の研究者たちの即興的な発想による数式や、抽象的な落書きが所狭しとかきこまれている。科学雑誌が置かれた机一つとコーヒーマシンが置かれただけのこの小部屋から、どれだけの知が生み出されてきたことか。この何とも愛してやまない雰囲気で、同僚たちとコーヒーを飲みながら数々の輝かしい成果に結実したアイデイアが生まれたのであろう。実験に疲れた時、しばしばこの部屋で、ラバザーのエスプレッソを片手に一人たたずむことが習慣となった。その部屋にいるだけで、先達や同僚らが振り撒く知性の粉を浴びているような感覚になれた。

2月12日モンマルトル、郊外知人宅での夕食会

 日曜休日。午前中はピアノを弾き、午後からヴァイオリン留学生の知人とモンマルトルを散策し、フルート留学中の知人と合流。その後パリ郊外にあるピアニストの知人宅にお邪魔した。パリから電車で曲がりくねるセーヌ川を3回渡り、到着したそのご自宅もセーヌ川沿いののどかな場所にたたずんでいた。この日は日本人だけで、新鮮な生牡蠣をたべ、もちよった日本酒と、沖縄から持参した泡盛で盛り上がった。  観光でパリを訪れることは容易くなった昨今であるが、実際に居住してみなければ、フランス人コミュニティだけでなく、日本人コミュニティ、特に芸術関係者とこのような場を共有する機会は稀であろう。

2月13日ソルボンヌフランス文明講座初授業

 早朝8時からソルボンヌ(現在はパリ大学の一部)でのフランス語講座が始まった。初級クラスに在籍したため、生徒は皆、全くフランス語がしゃべれない外国人ばかりであったが、とても気合が入っていた。ソルボンヌ・フランス文明講座を受けている人達の間で「ソルボンヌ症候群」なる言葉があるという。この講座の短期間集中の詰め込み教育にまいってしまうことらしい。ほとんどの受講生は、中東や北アフリカ、中央アジア、中国、東南アジア諸国からフランスに移住する権利を得ることを目的にはるばる渡ってきて、フランス社会に居続けるために文字通り人生をかけてこの講座を受講しているのである。仕事をしながら片手間でフランス語を学びにきていた私とは真剣度がまるで違っていた。  ソルボンヌに行く日は出勤が午前遅めになってしまうため、時間のかかる実験を行うのは効率的でないため、これらの日はデスクワークや同僚との議論にあて、仕事のロスを最小限に抑えた。とにかくやるべきこと、やりたい事が多すぎ、かつ1年間という期間限定であったこの時の滞在中は、限られた時間を完全に無駄なく使えるよう、スケジュール管理を徹底していた。  ソルボンヌという名前は日本でそれなりに知られており、一流大学であるという誤解をしばしば受けているが、グランゼコールが一流校であり、残念ながらソルボンヌは二番手の位置づけであるパリ大学の付属教室とでもいうべき位置づけてあろうか。「ソルボンヌ卒のエリート」などとテレビで紹介される場合、実際にはこのフランス語講座を修了しただけの場合も多いそうである。

2月11日シャンタル・リュウ初レッスン

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 土曜休日。ギャルドン先生に紹介されたChantal Riou先生のご自宅を訪問し、初めてレッスンを受けた。12歳で天才少女としてパリ国立高等音楽院に入学し、ロン・ティボー国際コンクールで3位に入賞した。高齢になってもたくましさに裏打ちされた美しさを保っており、絶えず笑顔と愛嬌を絶やさない、完璧ともいえるレディーである。彼女の立ち振る舞いや話すフランス語は、キュリー研の同僚達と同様、洗練された上流階級のものであり、「小鳥のさえずりのような響き」に例えられるフランス語とはこのことかと思った。彼女の気品と人間性は、生まれの良さだけでなく、おそらく相当な努力をしながら生きてきたことからくるのであろう。  先生のご自宅があるNogent-sur-Marneはとても小奇麗でメルヘンな郊外の住宅地で、かつて近代フランスを代表する作曲家フランシス・プーランクの叔父が住んでいて、その家にプーランクもしばしば滞在していたらしい。プーランクの自伝に出てくる船着き場でよくレッスンまでの時間を潰していた。  リュウ先生はギャルドン先生とは元同僚で、演奏技法は全く異なるものの、音楽に対する解釈はどこか似ていた。ギャルドン先生は、自分に時間がない時はしばしばシャンタル先生を紹介するらしいが、だからこそ安心して生徒を任せられるのであろう。彼女のテクニックは「指で弾く」「真珠のネックレスのような粒のそろった美しい音色」と比喩される、古典的なフランスピアニズムの直系に属し、そのピアニズム最後の歴史的大スター、フィリップ・アントルモンにもフォンテーヌブローのラヴェル音楽院で師事したそうである。奇しくも数年後、私もそのアントルモン先生にニース音楽院での講習会で習うことになった。  一例であるが、ギャルドン先生と同じく、弱音を出すときに指の先で(指を曲げて)弾きなさい、又は、鍵盤の奥を押すのだとも教えられ、そのあまりに理にかなった奏法・指導法に、論理性と感性が見事に融合したヨーロッパクラシック音楽の一旦を垣間見た気がした。彼女らの音楽と指導法は、理論と感性の見事な融合の上に成り立っている。日本におけるピアノ教育は、厳しい見方をすれば、どこか前者を精神論に、後者を周囲への迎合に取り違えて教えられているような気がする。  リュウ先生らの演奏技法は、幼少期よりそれ専用に指を鍛えないと、後から学ん

2月9日研究室ミーティング:10日Soiree Orange@キュリー

 10日はキュリー研で不定期に主催されるSoiree Orange(オレンジのソワレ)に初参加してきた。研究所の一室をオレンジ色で飾り、各々食事を持ち寄るパーティーで、私は稲荷ずしにイクラとキャビアを乗せたオリジナルレシピで参加した。ティラミスのケースにそれらの寿司を詰めて持って行ったため、同僚が「これが日本のティラミス?」と冗談を言いながら喜んで食べてくれた。フランスで手に入る食材でフランス人好みの寿司を同僚に気に入ってもらえた事がとても嬉しかった。当時まだフランス語が十分に話せなかったので話の話題に入っていくことにかなり苦労したが、イクラ稲荷寿司が功を奏してか、普段直接会うことの少ない多くの同僚達と知り合うことができた。  その集まりで、長身のスウェーデン人、ゲルブランド君が、私と同じくバスケットボール好きだということで意気投合し、その後しばしば週末に体育館やリュクサンブール公園でバスケットボールをする仲間として、深い友情で結ばれた。後にも続く友達とは、いつどのような形で出会うかわからないものである。そのような機会に文化、人種、国籍を超えて結ばれるきっかけを与えてくれるものは、スポーツや芸術など、仕事以外の教養である。そこで確実に言えることは、お互い同じレベルでそれらを共有している必要があるということである。ゲルブランド君と私は、お世辞にもバスケットボールが上手とは言えない同程度のレベルであったから一緒にプレーすることを楽しめたのであり、三島由紀夫に刺激を受けたというある同僚とは、私がフランス・ロマン主義の文豪ヴィクトル・ユゴーに心酔していた事について語れなければ、その場で打ち解けることは難しかったであろう。  キュリー研に到着した初日、一緒に実験をすることになる大学院生が若いころピアニストを目指していたことを聞き、私が沖縄で行ったピアノコンサートのライブ録音のCDのうちの一つをプレゼントしたことで、お互い研究者として認め合う以前に、瞬時に距離を縮めることができた。それも、お互い演奏を聴けばその熟練度だけでなく、性格や、物事に対する真摯な姿勢、教養の高さや教育・文化レベルを耳で瞬時に感じ取ることができるレベルにあったからである。彼女は当然、私のパリで習っていたコンセルヴァトワールの先生達を知っており、残念なことに彼らに師事することを断られたそうで、代わりに彼女

2月8日イスラエル人科学者@マリー・キュリー記念講堂:スティーヴン・ハフ@ルーブル

 キュリー研のマリー・キュリー記念講堂。壁にはキュリー夫妻の在りし日の写真と、ラジウムの質量を計算した時のキュリー夫人直筆の拡大ファックスが掲げられている。イスラエル人科学者ユーリ・アロン博士のセミナーを聴講した。彼は理論系と実験系のちょうど中間に位置する研究者といえるかもしれない。私はこのような中間に位置する研究に触れたことがなかったためか、その時は、彼の癖のある独特の皮肉と、実験を伴わない仮定に基づいた理論に違和感を感じ、胡散臭い研究をしているなという誤解をもってしまった。しかし後日、彼と夏にコルシカ島で行われた合宿でご一緒したとき、彼の理論と科学者としての高度な思考を実感することになった。その後の彼の活躍は折に触れて見聴きすることになり、当時の自分の科学者としての見分の狭さを実感するとともに、日本の実験科学現場における肉体労働と労働時間を高い評価基準とし、理論や知的産物を軽視する傾向に日本の科学界に対する危機感を感じるに至った。  晩はピアニストの友人と、ルーブル美術館の地下の演奏会場で、スティーブン・ハフ氏のピアノリサイタルを聴きに行った。彼は、ピアノマニアの中では、特に超絶技巧マニアにとても人気があるピアニストである。CDでしか聴いた事がなかった彼の演奏であったが、予想通りの澄んだ音とクリアなタッチで、音量は意外と大きかった。ピアニストには CD で聴くとよいが、ライブで聴くとがっかりするタイプと、 CD ではよさが伝わらないがライブでは感動的な演奏を与えるピアニスト、 CD でもライブ演奏でも魅力が伝わるピアニストがいるが、彼のようなクールで特に演奏技巧がウリのピアニストは、その素晴らしさがCDでも良く伝わるのだと思う。彼の弾くモーツァルトは、彼の知的で計算された高度な技巧では、モーツァルトの純粋無垢な音楽が多少シリアスに感じたが、編曲物や現代音楽では、驚愕の超絶技巧と演奏技術の高いヴィルトゥオジティを堪能することができた。

2月4日オリヴィエ・ギャルドン初レッスン

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       土曜休日。私の人生の中で忘れられない一日になった。朝11時からrue de St. Petersburgのギャルドン先生宅を訪れ、初めてレッスンを受けた。  その日は数週間後に控えたコンクールで弾く曲をみて頂いた。曲があまり知られていないものばかりだったため、審査員が評価できないので危険な選曲だといわれた。ドビュッシーやベートーベンを弾くのだといわれ、その場で相談した結果、バッハとショパンに曲を変更するよう言われた。しかし、あまり知られてはいないが、ディヒラー作曲左手のためのカプリチオだけは技巧的に派手なので弾いた方がいいといわれた。因みにこの曲は、東京で師事した最初の先生へ献呈され、その先生から楽譜をプレゼントされた曲であり、かなり弾きこんでいたため、この曲をパリのステージで弾けることはとても嬉しかった。初めてのレッスンで、かつコンクール本番の数週間前に曲を変えられるという厳しさを味わったが、多忙な中、翌週も連続で指導して頂いた。  フランス語が十分に分からなくてもフランス語だけでレッスンを受けられると聞いてはいたが、なるほど、演奏法や音楽について、教える側と教わる側で共通の知識、感覚があれば、何をおっしゃっているのかおよそ理解することができる。曲の解釈が今までの先生達とは全く違っていて多くの発見があり、初めてみる楽譜でも一瞬で曲の構造、内面、キャラクターを理解し、それをわかりやすく説明する卓越した能力に驚愕した。曲を献呈された先生ご本人も気付かなかったカプリチオのミスプリもその場で発見された時は、正に職人芸の極まる彼の読譜能力に圧倒された。彼はピアニストとして、より少ない力で効果的に演奏する卓越した演奏技巧をもっており、その真髄を生徒に論理的に、時には物理的に教える類まれな能力をもっていた。  彼の説明を受けると曲がとてもよく理解できるので、ますますその曲に引き込まれてしまう一方、あまりにも乗り越えなければならない課題の多さに圧倒されてしまう。これほどの天才的指導者に幼少期からレッスンを受けられれば、誰でも上達してしまうだとう思ったほどであった。個人の能力開発には本人の努力と才能も重要であるが、本物に触れたり学んだりする機会も不可欠である。  その後2度に渡るパリ滞在中、彼に個人的にピアノを習う事になった。私はアマチュアの中でも決して上級とは言え

2月3日ネルソン・フレイレ@シャトレ劇場

 夕刻に、シャトレ劇場でネルソン・フレイレのピアノリサイタルを聴きに行くため、たまった仕事を片付けるため、朝早く出勤し、日中はバタバタ仕事をし、何とか開演に間に合った。以前東京で聴いた時、あまりにも素晴らしショパンが記憶に残っており、再度彼のピアノを聴くことを大変楽しみにしていた。相変わらず鍵盤を押す力を感じさせない美しく澄んだ音で、素晴らしいモーツァルトと、演奏困難な曲でも難しさを感じさせない本物テクニックをヴィラ・ロボスで披露してくれた。  リスト作曲のTranscendental Etudeを日本では「超絶技巧練習曲」と訳され、単にものすごく難しいテクニックのための練習曲だと誤解され、ひいてはリストという作曲家・ピアニストへの誤解を生んでいる。本来はテクニックをTranscendつまり「超越」したところにある芸術を磨くための練習曲である。そのことを思い出させてくれる演奏だった。

1月30, 31日キュリー研セミナー合宿@Marly de Roi

 パリ郊外のMarly de Roiにある施設でキュリー研主催のセミナー合宿に参加した。宿泊するという選択肢もあったが、自分は2日間パリから通った。雪が積もっていてとても寒い日であった。  イギリス同様、フランスでも戦前からの階級社会が事実上残っており、階級ごとに喋る言葉の発音や品格が異なる。日本やアメリカでは既にそうでなくなったが、ヨーロッパではまだ上流階級のエリートが研究者になる傾向が残っており、科学界の最上位にいるキュリー研のメンバーの多くは、その話すフランス語の発音の美しさや、身長の高さ、体格、容姿からも、明らかに上流階級出身者が多かった。

1月27日~29日調律師ご夫妻滞在

 27日、数日前からお泊まりにきているドイツにお住まいの日本人の調律師ご夫妻に、自宅のプレイエルについて調律並びに講習会をして頂いた。ピアニストのお友達も来て頂き、ピアノの歴史や設計、ハンマーの構造など、様々な議論をしながら多くを学ばせて頂いた。 28日は知人のピアニストへご夫妻を紹介し、調律をして頂くため一緒にご自宅までお邪魔した。29日は朝4時までご夫妻と語り合い、日曜の朝Gare du l’estまで見送った。  外国では、現地の知人・友人を作ることも大切であるが、そこで出会う日本人同士のつながりも、また同様に人生の大切な財産となるのである。

1月26日ベレゾフスキ&フランス国立管弦楽団@シャンゼリゼ劇場

 晩はシャンゼリゼ劇場でフランス国立管弦楽団とボリス・ベレゾフスキによるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番。 10年程前、鹿児島で彼のソロリサイタルを聞いた時、それ自体が芸術的ともいえる程素晴らしい超人的テクニックに魅了されて以来、彼のピアノを生で聴いた。  オーケストラが後ろにさがって殆ど聴こえないような錯覚を受けた程、彼のピアノは恐ろしく存在感があった。オーケストラと少し間合いがずれたら、指揮者を見ながら歩調を合わせるなど、絶えず演奏をリードしていた。巨漢のロシア人である彼に完全に支配されたピアノからは、通常のピアノ演奏からは聴くことのできない規格外ともいえる音が鳴っていた。グリュッサンドでは、オーケストラのどの楽器だろうと思ったほどであった。ピアノ一台がオーケストラにとってかわった様な錯覚を受ける程、多彩でスケールの大きい演奏だった。

1月25日ソルボンヌ大学フランス文明講座、イヴァン・モラヴェッツ@シャトレ劇場

  早朝、キュリー研の同僚から勧められていたソルボンヌ大学フランス文明講座でフランス語コースの申し込みを済ませてきた。仕事であれ、フランスに滞在するということは、単に生活をするためにフランス語を話す必要があるだけでなく、言語を理解することは文化を理解する第一歩でもあり、フランス人はフランスに来る外国人に対し、それを強く求めているのである。また、フランス語を解するかどうかで、フランス滞在で得られる物が格段に広がることは間違いない。  午後はキュリー病院で二種類目のワクチンを接種してきた。幸い今回は熱発などの副作用はなかった。  晩はシャトレ劇場で老巨匠イヴァン・モラヴェッツのピアノリサイタル。音色の美しさが際立っており、特に随所で聞かれる和音の美しさは芸術の極みであった。

1月21日~23日千年の都

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  イスタンブールで学会があり、東大の先生方や同僚達トイスタンブールで集合した。東大の研究室からはボスニア出身のオランダ人(彼はクロアチアの大学にいた時クロアチアと祖国との戦争が起こったのでオランダに亡命した「戦場の研究者」)とトルコ人、日本人の後輩達。別れて数カ月しか経っていないが、異国の地での再会は、長い間会えなかった旧友に再会したような気持だった。現地出身者が同僚にいてくれたので、効率よく現地を楽しむことができた。  到着したその晩から早速彼らと夜のイスタンブールへ繰り出し、美味い物を食べ、水タバコ(ナーギレ)を初めて吸った。酒などで酔う感覚とは全く異なるうつろな気分になる、不思議な体験だった。麻薬ではないというので一応安心はしていたが、あまりの楽しさに毎晩水タバコを吸いに通ってしまった。運よくトルコスーパーリーグ(サッカー)の試合も見られた。  最終日は真面目に文化遺産を巡った。1000年前の建物が残っていることは、文化遺産のほぼ全てが400年前の薩摩の侵攻と先の大戦で破壊されてしまった沖縄人にとっては羨ましい限りである。  東京では研究の話しかしたことのなかった同僚達と、それぞれの国による文化、生活様式、結婚などの違いについてプライベートな話ができた。特に宗教が異なる相手との結婚については、我々では実感することが難しい大変複雑な要素があるらしい。  

1月18日シュリメ @ユネスコ

 この日は26歳の誕生日。ユネスコのコンサートホールで、オルレアン国際コンクール優勝者シュミレ氏(Francesco Schlime)のピアノリサイタルを聴きに行った。たまたまピアニストの知人とそのお友達3人に遭遇し、ご一緒することになった。  シュミレ氏は「現代とバロックしか弾かない、でもハイドンは面白いから弾く」と公言しているそうで、それを納得させてくれるテクニック、クールなオーラ、現代人的な感性と歯切れのいい音を持っていた。プログラムはフレスコバルディー、ハイドンに加え、自作。フレスコバルディーでは全くペダルを使わない、とても考え抜いて構築された演奏であり、一種の完成された世界を感じたが、ハイドンでは逆にそれに違和感を覚えた。  自作はTokyo Beirutなど、内部奏法(ピアノの中の弦を直接はじく奏法)も使ったバリバリの現代曲で、彼のオーラ、演奏スタイルにとてもハマっていた。  会場にはセルジオ・ティエンポなど、若手有名ピアニストもちらほら来ていた。彼の演奏から、また音楽家の友人達と彼の演奏について多くの議論を交わしたことで、多くを学んだような気持で帰途についた。何を学んだか、言葉で表現することは難しいが、実際に芸術や音楽を学ぶことの一環として、このような経験の積み重ねも重要なのであろう。実際に、東京で初めて師事したピアニストから、「言葉や理屈で説明できない事も学びなさい」としばしば指導を受けていた。

1月15日パリ沖縄県人会

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 誕生日の3日前、パリの沖縄県人会メンバーの集まりにご招待頂いた。会長さんは「うちなーぐち」(日本語沖縄弁)をよく話し、沖縄の昔話に詳しかった。  琉球史、琉球考古学や琉球の神々の話題ができたのも貴重な経験だった。近代の話になり、会長さんの高祖母が100年ほど前に、沖縄本島北部の久志村で、琉球国が大日本帝国に併合された後、仕事を失い首里(琉球国の首都)から落ちてきた士族を畑仕事に使ったという自慢話をしていたことを話してくれた。一方で、私の数代上の先祖は、琉球併合により首里城での職を失い、久志村に落ちのび、農民に使われ苦労したという話を聞いていた。つまり、会長さんの高祖母がこき使ったと自慢していた元士族は、自分の先祖である可能性が極めて高いことがわかった。一つ歴史がつながった。数カ月後、会長さんの引っ越しの手伝いに駆り出され、歴史は繰り返された。  沖縄にいても、東京にいても、これほど濃い沖縄の話をした経験はなかった。パリのアパルトマンの一室での濃い沖縄体験だった。

1月13日ノルマリアン

 しばらくの間一緒に実験を行うことになった大学院生は、既述の超エリート校エコール・ノルマル・シュペリウル(高等師範学校)ENS卒であったが、何故かとても計算に弱かった。私が鉛筆や暗算で行う計算も、電卓を用いなければできなかった。日本では自力で計算することを重視する一方、フランスでは論理的な考え方やディベート力を重視する文化があるからかもしれない。少なくとも論理的な考え方と合理的な実験手法に関しては、彼女の能力は私の比ではなかった。  フランスのグランゼコール(フランスの最難関大学の総称)生の身長はそれ以外のフランス人のより10センチ高いそうだ。上流階級だけで婚姻を続け、庶民と200年もの間血が混ざらなかった結果らしい。彼女はバレー選手で背が180センチメートル近くあり、彼女の婚約者は2メートルくらいの身長があった。グランゼコールの中でも「ノルマリアン」と呼ばれるENSの学生、卒業生は、在学中から准公務員として給料をもらい、卒業後は一生国から手当が出るそうだ(現在でもそうであるかは不明)。優秀な学生にはこれくらいの経済的な支援をしないと、金融やビジネス界に行かず、地味な学術研究を続けてもらうことは難しいのである。また、努力した者、才能のある者への待遇は、日本以外の国ではこの程度が当たり前なのだ。そういう制度や価値観を日本社会が受け入れることは、まず不可能であろう。  我々の研究室の生物物理チームは、インターンの学部生から教授まで、フランス人は全員ノルマリアンであった。世界中どこを探してもこんなにもずば抜けたエリートだけを揃えたチームは、研究業界では稀であろう。彼らの仕事の質の高さと生産性の高さ、集中力には驚かされた。午後6時には皆仕事を終える。休日出勤はまずありえない。彼らにとっては、夜まで働く、または休日も働くことは、勤務時間内に仕事を終える事ができないというマイナスの評価になるらしい。成果に関係なく、長く職場にいることが評価される日本の研究現場とは真逆である。また、彼らエリートにとっても、プライベートも仕事と同等に大切である。ある日の夕方6時頃、日本でいえば上司にあたるジョバンニに打ち合わせをお願いしたところ、「ノー! 僕の彼女が待っているのだ! あと10分でいかなければならない。僕らは今週1度しか会えていないんだ!」と情熱的に断れた。彼はイタリア人であったた

1月10日キュリー夫人伝

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 この頃、パリの自宅で私は毎晩のようにキュリー夫人伝やキュリー一家にまつわる書籍を読み漁っていた。当時102歳という高齢でご存命であったキュリー夫人の次女、エーヴ・キュリー著の『キュリー夫人伝』や、キュリー夫妻の長女で、夫婦でノーベル賞を受賞したイレーヌ・ジョリオ=キュリー夫妻の回想録、フレデリック・ジョリオ=キュリー(イレーヌの夫)に師事した湯浅年子先生著「パリに生きて」等。戦前、戦後のパリの様子、キュリー研究所の建物、空間や研究者達の営み、先達のパリでの生活を思い浮かべ、想像の中で追体験することが多かった。不思議なことに、これらの本を読みながらある種の郷愁に誘い込まれていた。時が流れても変わらない、濃い独特の文化の中で研究活動にいそしむ研究者達の生き様が、現在の自分の生活や経験、感じた事とあまりにも酷似していて、強い共感を得た。ある種の伝統の重みの中に身を置いている実感であったのかもしれない。また、パリとキュリー研究所周辺の建物は100年の時を経ても姿がほぼ変わらず残されているため、これらの書物にでてくる具体的な大学や劇場などの場所、道、建物、実験室や廊下に至るまで、まさしく自分が活動しているその場所であり、刻まれた歴史の重みの中で研究活動を行う機会に恵まれたことに対する重責と感謝の念を感じた。そして、キュリー一家の後進である私にここまで大きな共感を与えるほど、キュリー研究所内の環境も研究者達もパリも、変わっていないところが多いことに、ある種の歴史ロマンを感じた。 キュリー夫人がアメリカを訪問した際、記者達に私生活について質問攻めにあった時、「大切なのは人間(私)ではなく科学であるのに」とぼやいたそうである。研究一筋で生き抜いたキュリー夫人が、自身の私生活ではなく、研究の方が大切なのになぜ私生活ばかり質問されるのか、困惑したことは想像に難くない。しかし、視点を変えて「科学者は正しいことを言うが役に立つことは言わない」という科学者の職業的性質を言い当てた言葉を思い出し、それに従って自分なりに突っ込みを入れてみた。「世間は科学にではなく、あなたに興味があるのです」。

2006年1月6日ガレット・デ・ロワ@公現祭の集い

 夕刻、研究所で公現祭の集いに参加した。おもちゃが入ったケーキ(ガレット・デ・ロワ)を集まったメンバーで切り分け、そのおもちゃが入った一切れをあてた者が冠を被るイベントである。持ち寄ったご馳走とともに、恒例のケーキを食べた。会場はサル・ジョリオ。キュリー夫妻の娘婿であるノーベル化学賞受賞者フレデリック・ジョリオ=キュリーの名を冠した小さな会場で、彼らが使っていた実験器具等が展示されていた。  その集いの最中に、去年から研究所に在籍している日本人がいたが、彼と連絡が取れなくなったので日本の研究室に電話する時に手伝ってくれないかと頼まれた。確かに、英語があまり使われないこの環境に、私のようにすき好んで来た者でなければ、息が詰まって失踪してしまうのもわかる気がする。それくらい、日本の環境とも、外国人にオープンなアメリカの環境とも全く違う、フランスの濃い文化の中に、私はいた。  その時話していた先生が、ドゥ・ジェンヌ先生と事実上の家庭を持っていたフランソワーズ先生(Francoise Brochard-Wyart)であった。

12月16日ワクチン接種による熱発。パリでの年越し。

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   キュリー研究所の職員であった私は、キュリー研に併設されったキュリー病院でフランス居住のために義務づけられていたワクチン接種をした。このワクチンは、アジア系の人にはしばしば発熱の副作用を起こすものであり、その後急激に体調が悪化した。そのため、年末の休暇が台無しになってしまった。異国で一人床に臥せる時の寂しさとはこのことかと、悔しい日々を淡々と過ごした。  パリで年を越すのも一度の機会かと思っていたため、体調が悪く体が重いまま、友人数名とクリスマスはサン・ジェルマン・デュ・プレ寺院でのミサに行った。幼稚園時代から、日本でミサに参加する機会は何度かあったが、歴史的にも重要な大寺院での本場のミサは、建物の歴史、参加者の敬虔なオーラとともに、これまで参加したミサに比べ、その荘厳さにおいて圧倒的であった。年越しはエッフェル塔前広場で迎えた。カウントダウンとともに、日付が変わった瞬間の感動は今も忘れられない。

12月5日オリヴィエ・ギャルドンを知る; 12月6日バドゥラ=スコダ@Salle Gaveau

 その日、沖縄在住の世界的ピアニスト、岩崎セツ子氏から一通の電子メールが届いた。 「ギャルドン先生にメールしなさい。私の方からも紹介しておきます」と。  私はこのメッセージの重みを全く理解していなかった。私は不遜にもこの時初めて彼の名前、そしてこのギャルドン氏がフランス屈指のピアニスト、ピアノ教師であり、彼に習うことを切望する音楽留学生が世界中から大挙してパリを目指す程の音楽家であることを知った。しばしば音楽留学生の友人達との会話の中で、「ギャルドン先生に習っている」といった時の周囲から驚かれる様子から、次第に彼に習う機会の貴重さ、生徒としての責任の重さを実感するようになっていった。とにもかくにも、これを機に、彼が私のピアノの師となった。  私はそれまで多くの方々に応援、サポートを頂き、ピアノを続けてきたが、その中でもやはり大御所ピアニストからのサポートは大きな転機を生むことが多かった。パリで長年活躍し、沖縄県立芸術大学が設立された際、教授として迎えられ、長年後進の指導にあたっていた高名なピアニスト、岩崎セツ子氏もその一人であった。   私がまだ幼少の頃、岩崎セツ子という世界的ピアニストが沖縄に赴任したことは、沖縄社会にそれなりのインパクトがあったようである。クラシック音楽とは全く無縁であった両親に連れられて聴きに行った唯一の演奏会が、岩崎セツ子氏とアンサンブル金沢による演奏会であった。当時ピアノや音楽に全く興味がなかった私は、ただオーケストラを後ろに従えた女王の様にピアノに向かう岩崎氏の姿と、そのピアノがいかに高価なものであったかを両親から聞かされたことのみ覚えている。生涯初めての演奏会で見た岩崎氏と、その後ピアノを始めたことにより、十数年の時を経て面識をもつようになるとは、人の縁とは予想のできないものだ。2004年の初春、沖縄県立芸術大学の教授室に招待され、岩崎氏と彼女の生徒達を前にピアノを弾くという形で再会を果たした。  その場をアレンジするために尽力頂いたのは、小学生の頃初めて通ったピアノ教室を主宰していた宮城氏であり、アメリカで大ヒットした映画「ベストキッド(通称カラテキッド)」に登場する沖縄出身の空手家宮城氏のモデルとなった、琉球政府、沖縄県を代表する空手家、実業家、宮城嗣吉氏の義娘であった。嗣吉氏亡き後、首里の宮城邸を改装した料亭「御

11月30日四本足プレイエルとの出会い:12月3日Clichyの新居に入居

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  早朝、ピアノレンタル業者に1900年頃に作られた四本足のプレイエルグランドピアノを紹介してもらった。一度廃業し、生産中止となる前の、ショパンが愛用していた昔の本物のプレイエル。長年貴族の家に保管されていたらしく、保存状態がとてもよかった。少し弾かせて頂いたとたん、その繊細で女性的で、アンティークな音色に感激し、即レンタルを決定した。楽器に一目ぼれ(聴きぼれ?)した。  このピアノは、ショパンやプーランクを演奏すると、古き良きパリの黄金時代において、控えめに自分の道を生きた彼らの空気を感じられるような音を出してくれた。  

11月17日フジコ・ヘミング@Salle Gaveau:11月21日ミシェル・ダルベルト@シャンゼリゼ劇場

  17日はイングリット・フジコ・ヘミングのピアノリサイタル@サル・ガヴォー。サル・ガヴォーはこれまで歴史的なピアニスト達がこのホールで演奏している映像をDVDなどで見たことがあり、別世界のことのような存在であったので、私にとってはその場所にきただけでいっぱしの観光であった。客層は、日本大使館の宣伝による集客がほとんどであったようで、音楽家や音楽愛好家でなさそうな日本人ばかりであった。老齢な彼女の指は、もはやプログラムのどの曲も弾き通すことができなく、初めは痛々しく感じたが、プログラムの終わりに近づき、ほとんど弾けていないことに耳が慣れてきた頃、ようやく彼女独特の血の通った、ホールの奥まで届くしぶとい音に一つの世界を感じることができ、最終的にはそれなりの満足感が得られた。   21日はシャンゼリゼ劇場でミシェル・ダルベルトのシューベルトリサイタル。構成がしっかりした全く乱れない素晴らしい演奏で、シューベルトのソナタ3曲3時間、一度も飽きることなくき通すことができた。彼の音は少し汚い気もしたが、シャンゼリゼ劇場最上階末席まで届くとてもしぶとく伸びる音であった。帰宅は12時前になった。

11月13日日曜休日Tom Johnson氏訪問

  ヴィクトル・ユゴーの大ファンなので、数年前に訪れたユゴー記念館を再度訪れた。  午後は、以前から フレデリック・ジェフスキ 氏から、パリに寄った際は是非会うようにと勧められていたミニマルミュージックの巨匠、現代音楽作曲家 トム・ジョンソン 氏宅を訪れた。  

11月12日土曜休日

 夕刻パリで一番古い教会、 St. Julien-le-Pauvre で行われるコンサート。 Herbert du Plessis さんのピアノリサイタル。小さく古いが、歴史を感じる雰囲気の中でのコンサートは趣があり、その後何度か通うことになった。 du Plessis さんのピアノは演奏スタイルが我流であったが、とても豊かで美しい音色をもち、その音色とスケールの大な表現に魅了された。

11月8日 沖縄県庁使節との懇親会

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  パリ高等師範学校(École Normale Supérieure, ENS)で、関連分野の生物物理学者による実験を見学させてもらった。フランスの学歴ピラミッド社会の頂点に君臨する超エリート校で ある。  一生貴族生活が保証されたも同然のエリートである他のグランゼコール卒業生達からも、「ユルム通り(ENSとキュリー研がある)を歩いている奴らは頭が良すぎて宇宙人みたいだ。」という話を耳にした。またフランスのノーベル賞受賞者は文系理系を問わず、学生時代であれ研究者としてであれ、一生に一度はウルム通りに通うそうである。  晩は沖縄から県庁職員の使節団との懇親会。沖縄大学院大学についても意見を求められた。その学長に担ぎ出されているノーベル賞学者、シドニー・ブレナー先生とは、後日パスツール研究所でお会いすることになった。