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2009年9月26日フレデリック・ジェフスキ@オペラ・バスチーユ

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  午前中、音楽家の友達の案内を兼ねて、昨日が最終出勤日であったキュリー研に、部外者として入った。彼らにENSや、キュリー研のカフェを案内して、この研究所の文化的側面について、まるで自分の故郷について語るかのような気持で説明した。  夕方はオペラ・バスチーユ劇場でジェフスキ氏の演奏会。パリ国立高等音楽院ピアノ科に通う友人達と聴きに行った。現代音楽の演奏会なので、やや忍耐のいる演奏会だった。本人の演奏は、最後の「深き淵より(De Profundis)」 1曲のみ、ピアノソロしか弾かなかった。演奏の一部として、ピアノをたたいたり、叫びだしたりする箇所では、現代音楽になじみのない観客の中から、小声で笑い出す声も聞こえた。しかし、彼の音楽に傾倒して10年以上が経つ私にとっては、その演奏から伝わってくるもの凄いエネルギーと彼の人生感の凄まじい表現力に、感動とともに戦慄を感じた。ピアノのふたを閉めて鍵盤では音を出さないクライマックスには圧倒された。未だに彼は当代随一のコンポーザー=ピアニストであり、真のヴィルトゥオーゾだった。 71才、この方はこれからもまだまだパワーアップしていくのであろう。  パリ音楽院でピアノを学ぶ友達が、彼の曲を練習している最中だったので、終演後、彼をジェフスキさんに、将来有望な若手ピアニストとして紹介した。奥様に追い出されたブリュッセルの自宅から、エスターとノーム君がきていた。二人とも以前あった時に比べ、背が伸びて大きくなっていた。  興奮が冷めないまま会場をでて、ピアノ科の友達に加え、ヴァイオリニストの友達も合流し、バスチーユ界隈で夕食をとった。パリで、将来有望な若手音楽家らとの会食。これも最後になるのかもしれない。

2009年9月25日キュリー研究所最後の出勤

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2回の勤務で合計2年半、フランスに永住しない日本人研究者としてはかなり長い期間滞在したことになる。素晴らしい研究所、研究室、同僚達、プライベートの友達に恵まれて居心地が良すぎたこと、二度と出会えないかもしれない成果に遭遇したことが2度の滞在や長居の要因だったようだ。まだ残りたいし、まだ残らないか誘われ、残ることも可能だったが、滞在後半は次第にグループ内での自分の役割や貢献が減ってきた。一仕事を終えて、私がここでできる最大の成果を挙げるという使命を果たし、それ以上の次にやるべき仕事はここにはないので、やはりここで去らなければならない。  最後の出勤日はグループメンバーで最後のミーティングと、この研究を引き継ぐ新しい大学院生スコット君の博士研究の議論をし、同僚たちとENS(高等師範学校パリ校)での最後の昼食をとった。午後はあまり仕事を入れず、あいさつ回りでお世話になった方々に琉球紅型を贈り、夕方皆がpot(飲み会)をしてくれた。去ったはずの昔の同僚達が何人か、「たまたまパリに用があったから来ただけさ」と、さりげなく居合わせてくれて、とても感激した。ジョバンニが、論文が採択された時のために買っておいてくれたワインをあけた。大ボス、ジャン=ルイ(ヴィオヴィ先生)に「いつまでキュリーに居るのか、あなた(tu)はリタイアしなさそうだが」と問うと「私はリタイアしない」と即答された。この科学者も定年など関係なく、ジェフスキ氏のように、生涯科学研究に邁進し続けるのだろう。あっぱれでかっこいい生き様である。 何十年経ってもパリは変わらず、キュリー研もこの部屋も何も変わらないだろうが、皆いなくなっているのだろう。キュリー夫妻に始まり我々に到る、その繰り返しでキュリー研の歴史が積み重なっていく。皆との別れを惜しみながら、7時には研究所を後にした。去りながら研究所を振り返ると旧館(キュリー夫人が建て、最後までいらした最初の建物)の後ろから閃光のような夕日がさしていて、まるで後光がさしているようだった。成果を挙げた直後の栄光の瞬間と、それらが忘れられた後の長い寂しさと、ここまで命をかけてやりきった感。二度とここで勤務することはないということが、直感的に分かっていた。またここで同じように働くことはできるが、それが科学界にとっても私個人にとっても最良の選択肢でない限り、戻ってはいけない