投稿

10月, 2013の投稿を表示しています

2009年6月25日キュリー研究所演奏会

イメージ
  この日、キュリー研究所所員による演奏会に出演した。キュリー財団が運営するキュリー研は基礎研究所とキュリー病院からなり、どちらもキュリー研究所(Institut Curie)と呼ぶ。演奏会には双方からの参加者が混じっていた。イギリスの作曲家ヘンリー・パーセルの歌曲「しばしの間の音楽(music for a while)」をバリトンのティボーさんの歌の伴奏を担当させてもらい、フルートのアンさんが吹くフランスの作曲家ガブリエル・フォーレによる「シチリアーナ」の伴奏をさせてもらった。場所は、頻繁に演奏を聴きに行った高等師範学校(ENS)の芸術学部の会場(Salle des acts)だった。  フランスの聴衆は(というよりは、この場に集まるようなエリート層からなる聴衆は)プロを呼んで聴くときも、アマチュアの演奏を聴くときも、素直に音楽を聴いて反応しているようだ。また、プロ・アマを問わず(演奏者にもよるが)、聴衆との対話が上手いように感じた。私自身の合計出演時間は10分もなかったが、やはり出演はとても疲れる。しかし、合計2年半の在籍中、同じ物理化学部門内、特に研究室や共同研究者以外の研究所メンバーとの交流をもったのはほぼ初めてであり、共通の趣味を共有しての交流の楽しさ、趣味を持つことの良さを実感した。

2009年5月27日マレイ・ペライア@シャトレ劇場

 1時間単位で人と会い、怒涛のスケジュールで過ぎ去った1週間の一時帰国から、パリに戻り、ベルビルの自宅についたのは朝6時半だった。  この日は午前中仮眠をとり、午後からキュリー研に出勤した。研究所で慌ただしく働いたその晩、シャトレ劇場へ向かった。パリで二度もキャンセルされて、未だに聴くことができていなかったマレイ・ペライアのリサイタルのためである。三度目にして初めて聴くことができた。彼はCDでもその素晴らしさが伝わるタイプの演奏家であり、十分にその安定感と技術の高さは理解していたが、生で聴いてもここまで安心して聴ける演奏家とは、滅多に出会うことはないだろう。

2009年5月あまりにも美しいキュリー研の中庭

イメージ
それぞれの季節、それぞれの表情を見せてくれるキュリー研の中庭。常に庭師による手入れがいき届いていて、キュリー夫人の時代から少しも変わっていない。テラスから柵に手をかけて、キュリー夫人がよく中庭をぼーっとみていたそうである。  近所のリュクサンブール公園などの豪華な雰囲気とは異なり、このこじんまりとした中庭は、研究が情熱であり芸術であった時代から何一つ変わっていない。  どの季節でも実験に疲れた時、この庭にくると、キュリー先生達の声を聞けるようなきがする。フレデリック・ジョリオ=キュリー先生曰く「(キュリー研など)伝統ある研究所で働く研究員の発言や思考には、過去の偉大な先人たち(キュリー夫妻ら)の思想・発想や知性が無意識のうちに顔をだす」そうだ。そのフレデリック・ジョリオ=キュリー先生も、戦前と戦後の研究現場の変化に大層危機感を感じていらっしゃったそうである。戦前は科学研究とは、貴い精神と知能を持つ者による芸術であったが、今では(戦後は)それらはどこにいってしまったのかと。いくらキュリー研であっても、その頃に比べ現在は、研究業界におけるグローバル化により、資金獲得や成果主義など、更に研究現場の大衆化、ビジネス化が進んでいるのだろう。キュリー一家が現状を見たらどう思われるだろうか。  私もキュリー一家直径の研究者の端くれとして、キュリー夫妻、ジョリオ=キュリー夫妻らの思想や知性が伝染しているはずである同僚達との日頃の雑談から議論に至るまで、どの会話も大事に、とくに老教授達の発言は、科学研究が文化活動であった古きよき時代の消えゆく最後の面影として、聴き漏らさないよう、彼らの知性を浴びなければならない。

2009年5月9日Georges Cziffra@Senlis

イメージ
パリ郊外のサンリス(Senlis)を訪れた。前回訪れてから約3年が経っていた(2006年6月17日の項参照)。前回訪問時には、時間に遅れてシフラ一家のお墓参りができなくて心残りだったのが、今回実現した。今回は時間に余裕を持って訪れ、その帰り、シャンティイ城とその周辺散策をする時間もとれた。3年前と同じ北駅のカフェで電車をまち、同じ電車でシャンティイまで行き、同じバスで前回同様、菜の花畑を通ってサンリスへ向かった。3年前と同じ観光案内所により、大聖堂を見学し、シフラ財団(Fondation Cziffra)が運営する教会へ。3年前と唯一の違いで、とても残念だったことに、受付の老女が、別の方に変わっていた。奥様は2006年頃に亡くなられたそうだ。  シフラ財団が拠点としているこの教会は、その前は長年にわたり荒れ果て、自動車修理場、兼駐車場として使われている有様であったそうだ。しかし、建物を修復しつつ進められた考古学的調査の結果、この教会がフランス王ユーグ・カペーの妻によって建てられた、フランス最古のカトリック教会Royal Chapel of Saint-Frambourg教会であることが判明したそうだ。現在ではフランツ・リスト・オーディトリウムとして、コンサート会場として使用されている。  既述(2009年04月22日「死の舞踏」@ピサ)の通り、ピアノ協奏曲の意味も分からず、「ピアノ」という文字だけで生まれて初めて買ったCDに書いてあった「シフラ」がピアニストの名前だとわかったのは高校生の頃だった。その後少しずつピアノを弾き出した縁でパリでもピアノを続けて、2回目の訪問にしてようやくこの日、シフラ一家のお墓参りをすることができた。幼少期から私のピアノにとってこれだけ影響を与えたピアニストは、直接指導を受けた先生方を覗けば、おそらく他にいないだろう。その人物のお墓参りが実現し、長年会いたかった人物に面会が叶ったような、そんな妙な充実感を得た。  帰りはシャンティーに寄より、シャンティー城を見学した。大公の居城だっただけあり、かなり豪華で威厳に満ちていた。シャンティー市の名物、クリームクレープ(Crêpe Chantille)を食べて、パリに帰った。ホイップクリームのことを、パリでも「シャンティー」と呼ぶ。

2009年04月22日「死の勝利」@ピサ

イメージ
 一ヶ月近く、ひたすら実験をしていたので、休養もかねて週末イタリアのピサに行ってきた。ちょうどその頃、キュリー研の研究室に、ピサ大学の学生がインターン生として来ていたので、とても身近に感じていた。ピサと言えば、なんといっても「斜塔」で有名である。  私の場合、一番の目的は、いつかは訪れてみたいと思っていたカンポサント教会(墓地?)にあるフレスコ画「死の勝利」。14世紀の画家、ブルナミーコ・ブファルマッコの作品とされる。27歳のリストがここを訪れ、このフレスコ画を見て得たインスピレーションからピアノとオーケストラのための作品、「死の舞踏」を作曲した。生まれて初めて買ったCD「リスト:ピアノ協奏曲、他 シフラ」にこの曲が入っていた。当時「協奏曲」が何なのかもさっぱりわからず、「ピアノ」しか意味がわからず、とりあえずピアノ音楽のCDを買ってみようと思いたち、「ピアノ」の文字だけからこのCDを手にとって購入してみただけという偶然が、この楽曲と、ジョルジ・シフラという希代のピアニストとの出会いだった。それでも、当時まだクラシック音楽にそこまで縁のなかった私が、「シフラ」がピアニストの名前だということを認識するまでには数年の歳月が必要だった。  その後、20代でピアノを再開し、かなりのピアノ音楽通になっていた私にとっても、死の恐怖が生々しく伝わってくるこの楽曲は、最も大切な思い出の曲の一つであり、シフラというピアニストは、最も敬愛、尊敬するピアニストの一人であり続けた。私が東京大学を受験した際も、このCDを持参し、試験開始直前にリラックスするため、CDウォークマンでこのシフラによる「死の舞踏」を聴いてコンディションを平時に近づけ、試験に臨んだ。おそらくこの曲、シフラによるこの名演は、今後も私の人生にとってかけがえのない音楽の一つであり続けるだろう。   このように、「死の舞踏」は大変思い入れの深い曲だったので、一度はそのインスピレーションの源泉となった、このフレスコ画の現物を、現地で見てみたいと思いだしてから10年以上が経過していただろうか。  感激の対面だった。「死の舞踏」から連想される中世ヨーロッパン人の生死感が生々しく伝わってきた。全ての人に訪れる死の圧倒的な存在と、それに対抗する人々のむなしい抵抗という主題が描かれている。この作品に骸骨の姿で表現された死の象徴が、王

2009年4月5日ソー公園花見

イメージ
  日本人と台湾人が中心の芸術家集団で、ソー公園で花見を楽しんだ。公園の近くにはキュリー家のご自宅があり、確かジョリオ=ランジュバン先生(キュリー夫人女系3代目)がまだお住まいだったようなお話を、ふと思い出した。  花見とはいっても、4月のパリはかなり寒く、花は咲いていない。メンバーには、国立高等音楽院パリ校(CNSM)に在籍する作曲家が多かった。ピアニストや、クラリネット奏者の友達も何人か参加していたので、輪に入りやすく、終盤にはみなお酒が進み、フランス語、英語、日本語、中国語が飛び交い、相当盛り上がった。盛り上がるとはいっても、表現力の豊かなアーティスト達が、普段でさえ世間体や周りの目を気にせず自由に振る舞えるパリで、お酒が進み、はめを外して盛り上がると、控えめに言っても健全とはいえない程の自己表現ぶりだった。

2009年3月22日ホームパーティー

イメージ
 パリ 北駅で同僚達と待ち合わせて、パリ郊外トゥルナン=アン=ブリ(Tournan en Brie)にある、北アフリカ出身の同僚のご自宅でクスクス(北アフリカ先住民ベルベル人の伝統料理)パーティーに参加した。研究室のメンバー殆どが集まっていた。パリの日本食材店で購入した梅酒を差し入れした。薄めずにストレートで飲む梅酒は、食前酒としてちょうどよい味とアルコールの濃さであるようだった。  上司にあたるメンバーがご一緒していても、かしこまっていないところがいい。日本では、打ち上げや外の活動でも、上下関係はついて回る。まるでプライベートのメンバーで集まっているかのような、とてもリラックスした、にぎやかな会だった。夕方、日が傾き、ヨーロッパの直線的な陽の光が斜めからさす中、アルマンヴィリエール城(Château d'Armainvilliers)周辺の牧場を、皆で散歩したのもいい思い出になった。

2009年3月10日、12日セミナー

イメージ
東大時代にお世話になった先生方や元同僚達が、日本のみならずフランス各地からセミナーのため大挙してパリにいらした。会場はCNRS(国立科学研究機構)の大会議室(Auditorium)。元同僚達の研究の進展状況が伺えて大変懐かしく、また相変わらず活発な研究活動に刺激を受けた。  その一連のイベントとして、その二日後、キュリー研のご近所のESPCI(高等物理化学学校)で行われたNano thermique(ナノ熱力学)セミナーの招待講演にお招き頂く機会に恵まれた。演題は"Micro-Régulateur de température permettant l'analyse de biomolécules sur une gamme de temps de la seconde à la milliseconde"と、フランス語で演題登録をさせて頂いたが、さすがにフランス語で講演をするほど語学が堪能ではないので、この時も英語で講演を行った。ESPCIはキュリー夫妻がラジウムを発見した場所に建てられた大学であり、晩年キュリー研にもいらしたド・ジェンヌ先生が長年学長を務めていた大学でもある。建物の壁に、この大学にゆかりのある歴史的大科学者・ノーベル賞受賞者達の大きな写真が飾られている。   セミナーではリヨン大学とESPCIの研究者達の発表の各セクションの前に、東京大学からいらしたキム先生と、私が基調講演をさせて頂いた。共同研究をさせて頂いた2005年からますます進んでいたキム先生の大変興味深い研究に、ド・ジェンヌ先生と、先生と事実上の家庭を持たれていた元教え子で、当時キュリー研にてまだ現役で研究活動をされていたフランソワーズ先生がお二人で書かれた論文の理論が使われていた。こんな身近に、世界中から注目される研究者がいる環境を改めて実感し、将来有用となるであろうネットワーク構築のみならず、彼らの考え方や価値観、文化を学び、これらを自分の研究活動に役立てるよう、今後は研究の内容のみでなく、それらの研究を行った研究者達個人への関心を持つように心がけたいと思った。

2月28日~3月4日生物物理学会@ボストン ロンドン大英博物館で琉球国の遺品に遭遇

イメージ
  今回の新大陸訪問の一番の要務であった米国生物物理学会年会のため、NYからボストンへ飛んだ。生物学分野の世界的権威、その次の座を狙う中堅、一旗揚げようと意気込む若手など、世界中から錚々たる面々が一斉に会するイベントである。同僚や競合相手の発表を聴講し、激励の言葉を送ったり、厳しい質問を投げてみたり、大変実りの多い学会だった。教授間の様々な人間関係、力関係や、政治闘争を目の当たりにすることもできた。研究者の世界も洋の東西を問わず、結局は分野内では縄張り争いで権威というものを確立し、対外的には人気商売である。学術界は、政治と自己アピールが苦手な者は、およそ生き残れる世界ではない。  大阪大学から参加していた若手ホープの後輩と、ハーバードスクエア近くの、幼少時代家族と頻繁に訪れたUnoのピザ店で食事をしながら色々語り合い、彼の知識の広さと意欲的な姿勢に大きな刺激を受けた。また学会の合間に、幼少期お隣にお住まいだったHicks夫人と彼女の甥達とを訪問し、昔を懐かしがった。研究者になった後、学会や出張で数年に一度、ボストンを訪れる際は、かならずHicks夫人を訪れていた。私の家族の中で、頻繁にボストンを訪れるのは自分だけだったので、家族の近況を報告すると毎度自分の家族の話を聞くように喜んでくれた。  帰国の途中ロンドンでトランジットの際、短い時間であったが、財務省から出向中の大学の同期の千家君と会う時間がとれ、日本、世界の金融業界について、色々と貴重な情報を仕入れることができた。リーマンショックからまだ日が浅かった当時、金融業界は様々な余波が残っていたようである。  また、ほんの1時間程度であったが、大英博物館に入ることができ、25年ぶりにロゼッタストーンに再会した。昔はむき出しで展示されていたような記憶があったが、この時はしっかりとガラスケースでおおわれていた。アジアコーナーでは、日本の展示の隣に、朝鮮王朝、琉球国のコーナーがあり、他では見たことのない琉球製のお膳と漆器に初めてであった。  沖縄にあった琉球国の遺産は先の大戦でことごとく消失してしまったため、琉球国のかつての繁栄を伝える文化遺産の多くは、日本本土や外国に散らばった物でしか目にすることができないものも少なくない。これらの世界中に散った琉球国の遺産を再調査してはどうかという旨の記事を、パリに戻った直後

2月25日~27日ニューヨーク訪問

イメージ
  ボストンで開催される米国生物物理学会に参加するための米国出張。ボストンに向かう前に、コロンビア大等を訪問するため、ニューヨークに立ち寄った。到着後すぐに、元キュリーの同僚で、現在コロンビア大学で研究を行なっている友達夫婦のご自宅にお邪魔し、ご夫妻のフランス人のお友達数名とステーキハウスBen’sで会食をした。  日本人同様、食文化を大切にするフランス人達は、アメリカの大衆食文化に辟易している様子だった。先進国の中では、アングロサクソン(米英)とフィン人(フィンランド)の食事が最も残念だという意見を、世界中を飛び回る研究者、ビジネスマンの間でよく聞かれるが、自分も全く同感である。最も食事に気を使っているのが、やはり日本とフランスであろう。但し、日本人は自国の文化を誇示しないのに対し、フランス人は自国文化のアピールが上手である点は正反対といえる。  高校時代、ニューヨーク郊外ロングアイランドにあるラ・サール学校への短期留学した時以来のNY訪問だった。用務はコロンビア大学で複数の研究室訪問であった。議論を戦わせるために訪問した生物学者の中に、ノーベル生医学賞受賞者のマーチィン・チャルフィー教授もいた。当大学で時間を過ごし、様々な分野、職位の方々と議論を交わした。教授陣の顔ぶれは素晴らしいが、学生や研究員、更には現場の活気やエネルギーは、やはりハーバード大学やマサチューセッツ工科大学に比べると、やや物足りなさは否めなかった。パリの次はボストンに異動するか、それともニューヨークに異動するか、まだ最終決定は下していなかった。  用務の合間に、約10年ぶりにマンハッタン中心部や、ツインタワー跡に立ち寄った。晩はカーネギーホールでウェーンフィルハーモニー管弦楽団による公演。指揮者はインド出身の名指揮者ズービン・メータ、ピアノソロは中国人の芸人的ピアニスト、ランラン氏。高校時代に、当時師事していたピアニストから勧められて訪れたカーネギーホール裏にある老舗の楽譜屋さんを訪れた。10年前ここで買ったリストの「死の舞踏」や「ピアノ協奏曲」のオーケストラとピアノソロからなるフルスコアは、今でも大切に持っている。

2009年2月11, 12日Institut Oceanographique

イメージ
    今年はキュリー研究所設立100周年記念で、100周年にまつわる様々なイベントやセミナーが企画されている。今回はキュリー研究所(基礎研究)とキュリー病院(医療)の共同セミナーがあった。研究所とキュリー病院はどちらもInstitut Curie(キュリー研究所)と呼ぶので、外からは区別がつきにくい。  会場は同じ敷地内にあるInstitut Oceanographique(海洋学研究所)で行われた。キュリー研究所と同じ敷地内には、海洋学研究所の他に、数学界で有名なポアンカレ研究所や、国立高等化学学校などが立ち並んでいる。同じ研究所といっても、海洋研の方々は海に出るため、研究所にはオフィスや講堂しかなく、壁や天井には美しい絵画や海の生物の写真で散りばめられていた。モナコ公国のプリンス・アルベール1世が設立したらしく、お城や劇場を連想させる豪華絢爛な建物だ。セミナー参加者に振る舞われた昼食も極めて豪華だったため、現在でも資金が豊富であることが伺えた。

2009年2月9日Concert-portrait: Guy Sacre

イメージ
  月曜の晩。高等師範学校(ENS)で、Guy Sacre, Faure, Poulenc, Rousselの歌曲やピアノ曲の演奏会があった。ENS芸術学部主催の演奏会は、場所がキュリー研の隣で、仕事帰りに友達と夕食を取るなどしてから行ける時間帯なので、頻繁に通うようになっていた。しかも入場無料である。  「作曲者立会い」とプログラムにあったとおり、Guy Sacre氏が会場にいらしていた。そして、その隣には予想通り、同性のパートナーでピアニストのビリー・エイディ先生が座っていた。ギャルドン先生の同僚であるエイディ先生の生徒さんには友達も多く、頻繁にお見かけしていた。  演奏者はエイディ先生やギャルドン先生の教えるパリ国立地方音楽院(CNR)の生徒でENSの卒業生だったり、ENSの生徒でCNRの卒業生だったり、最高峰の音楽大学と一般大学で何らかの専門と、音楽と双方を学んだメンバーであった。客層も学生が多かったようで、いつもと違う趣旨の演奏会だった模様。