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2009年7月14日独立記念日

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パリで3度目の7月14日(独立記念日)を迎えた。午前中は友人達とシャンゼリゼ通りの軍事パレードで、装甲車や戦車のパレードを見学し、晩はエッフェル塔周辺での花火を観賞した。3度とも、ほぼ同じトロカデロ広場に場所をとり、エリゼ宮の後方から、エッフェル塔と共に花火を眺めながらワインを楽しんだ。この年はエッフェル塔120周年の特別花火だったようで、何となく頑張って華やかさを演出している感じがしたが、多少けばけばしい感じをうけ、日本の花火の美しさと品格、素晴らしさを改めて実感した。  7月14日を三度も経験するほどパリに長居してしまったことを考えると、やや焦りを感じてしまう。パリ滞在は、幾多の困難や負担を伴うと同時に、日本社会の現実からはかなり離れた世界である。私はしばしばこのことを、「パリはディズニーランドの現実版。それが現実になると、日本社会に戻れなくなる」と説明する。パリに滞在する日本人で、2,3年で帰国する人はその後日本社会に復帰できるが、それを超えて滞在していると、中途半端にフランス人化してしまい、帰国するタイミングを逃してしまい、日本社会に復帰が難しくなるといわれていた。私もこの頃滞在がちょうど2年を過ぎた頃で、早く仕事をひと段落させ、次のステップとして予定していたアメリカでの勤務に向け、ことを進めていくタイミングに差し掛かっていた。一方で、ここまで自分を惹きつけてしまったこのパリを去ることを思うと、さすがに寂しさも感じてしまう。    

2009年7月12日フォンテーヌブロー 

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  週末は、ニース音楽院で指導をうけたフランスを代表するピアニストで、フォンテーヌブローのアメリカ音楽院の院長を務めるフィリップ・アントルモンのマスターコースを聴講しに、画家の友人とフォンテーヌブロー宮殿に向かった。  歴代フランス国王による築城の結実であるフォンテーヌブロー城を見学、「栄光の中庭」を散策し、午後4時頃からマスターコースを聴講した。ニースで教わった時と変わらず、生徒に対しても周りにたいしても相変わらず大変厳しい態度で望み、生徒のできがあまりよくないと、生徒が演奏している最中でも席を立ってお喋りを始めたり、「あと何分やらなければいけないのだ」と大声で怒鳴ったり、相変わらずのレッスンだった。  最後にサプライズで、ニース音楽院でご一緒して以来の親友であり、アントルモンの愛弟子である戸室玄氏とアントルモン先生の連弾が披露された。先生は全く練習をしていなかったらしく、真面目に演奏する気すらないようだった。公開レッスン(教師と生徒の一対一のレッスンではなく、そのレッスンを聴衆に公開する形式のレッスンを、公開レッスンと呼び、そのレッスンでひどい目にあった時は、私はいつも「後悔レッスン」と呼んでいた。)の会場となったフォンテーヌブロー城の一大広間の、あまりの絢爛豪華さに、ある種の威圧感を感じ、神経が刺激される感覚をうけた。

2009年7月4日、5日ミラノ旅行

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  この週末はバーゲン期間初日にあわせてイタリアはミラノで過ごした。15世紀にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァが、ヴィスコンティ家の居城を改築して建設した城塞で、現在では美術館として公開されているスフォルツァ城で、様々な美術品や展示品を見学し、有名なドゥオモを観光して、夜は運河の畔で、ゆっくり一人でくつろぎながら夕食をとった。この晩宿泊したホテルのボーイさんが、何故かしきりにフランス語を喋りたがっていて、英語で何を答えてもフランス語でしか話してこなかったため、相手をするのが若干面倒だった。  バーゲンに合わせてきたとはいえ、もともと買い物が好きな方ではなかったため、特にこれといった目的があったわけでもなく、気に入ったバッグと靴を購入しただけで、大した戦利品はなかった。残りの時間は現地の音楽大学に留学で在住の知人に会い、色々と語りあった。  キュリー研の同僚で上司でもあるイタリア人のジョバンニが、「仕事の集中力を高め、より質の高い仕事をするために、積極的に休暇でチャージするのだ」とよく言っていた。労働時間、というより、職場にいる時間の長さが評価基準になってしまう日本の研究業界では、このような発言はタブーかもしれないが、これこそが生産性高く、質の高い仕事をし、人生を豊かにするために欠かすことのできない習慣であることは、この頃には既に身をもって実感していた。

2009年6月27~7月1日ボストン

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  今回のパリで仕事に区切りをつけた次は、ボストンで研究活動を続ける予定であったため、その下調べや面接のため、ボストンを訪問した。今回のパリ滞在中は、アメリカ東海岸との往復が多くなることは予想していたが、いざ東京、パリ、ボストン、ニューヨークを回りながらの生活が始まると、さすがにかなりの負担だった。  いつ行っても変わることのない、第2の故郷ボストン。現地の知人、元隣人のヒックス夫人とそのご家族と会い、更に彼女の長年の友人で東欧系の血を引くフランス人出身のパティシエ、アントワン翁とも知り合いになった。彼は私以外には英語で話すのであるが、私に対してだけ、フランスを懐かしがってか、フランス語で話してくれた。彼は第二次世界大戦の折にアメリカに移住してきたそうだ。二人とも戦前世代であり、折に触れて先の大戦の話しを回想していた。特にアントワン翁はヨーロッパでの体験を思い出してか、「どんな理由であれ、人が人を殺す正当な理由などない。」と口癖のようにおっしゃっていた。  今回のボストン滞在は、休暇をとっての私費での出張だったが、ハーバード大学・マサチューセッツ工科大学(MIT)でセミナーをさせて頂き、次の仕事の内定も頂き、複数の研究室を訪問して知見と人脈を広げることができた。空いた時間で、幼少期家族と頻繁に訪れたパブリックガーデン、ボストンコモンをフラフラ散歩し、大好きだったロブスター料理を食べたりした。  最終日はボストン美術館で、幼少期に何度か見た記憶のあるモネやルノワールの名画に再会した。それらの絵画を見ると、以前この絵画を見た頃のボストンでの幸せな幼少期が回想され、当時にもどったかのような、懐かしい感覚に浸ってしまう。最も幼少期の脳裏に焼き付いていたのは、モネによる「ラ・ジャポネーズ」。言わずと知れた名作であり、モネの妻カミーユが着物をきてフランス国旗風の扇子を片手に持って、その背景には、無数の団扇が舞っている。しかし残念ながら、この時は貸し出し中であったのか、「ラ・ジャポネーズ」との再会はならなかった。

2009年6月25日キュリー研究所演奏会

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  この日、キュリー研究所所員による演奏会に出演した。キュリー財団が運営するキュリー研は基礎研究所とキュリー病院からなり、どちらもキュリー研究所(Institut Curie)と呼ぶ。演奏会には双方からの参加者が混じっていた。イギリスの作曲家ヘンリー・パーセルの歌曲「しばしの間の音楽(music for a while)」をバリトンのティボーさんの歌の伴奏を担当させてもらい、フルートのアンさんが吹くフランスの作曲家ガブリエル・フォーレによる「シチリアーナ」の伴奏をさせてもらった。場所は、頻繁に演奏を聴きに行った高等師範学校(ENS)の芸術学部の会場(Salle des acts)だった。  フランスの聴衆は(というよりは、この場に集まるようなエリート層からなる聴衆は)プロを呼んで聴くときも、アマチュアの演奏を聴くときも、素直に音楽を聴いて反応しているようだ。また、プロ・アマを問わず(演奏者にもよるが)、聴衆との対話が上手いように感じた。私自身の合計出演時間は10分もなかったが、やはり出演はとても疲れる。しかし、合計2年半の在籍中、同じ物理化学部門内、特に研究室や共同研究者以外の研究所メンバーとの交流をもったのはほぼ初めてであり、共通の趣味を共有しての交流の楽しさ、趣味を持つことの良さを実感した。

2009年5月27日マレイ・ペライア@シャトレ劇場

 1時間単位で人と会い、怒涛のスケジュールで過ぎ去った1週間の一時帰国から、パリに戻り、ベルビルの自宅についたのは朝6時半だった。  この日は午前中仮眠をとり、午後からキュリー研に出勤した。研究所で慌ただしく働いたその晩、シャトレ劇場へ向かった。パリで二度もキャンセルされて、未だに聴くことができていなかったマレイ・ペライアのリサイタルのためである。三度目にして初めて聴くことができた。彼はCDでもその素晴らしさが伝わるタイプの演奏家であり、十分にその安定感と技術の高さは理解していたが、生で聴いてもここまで安心して聴ける演奏家とは、滅多に出会うことはないだろう。

2009年5月あまりにも美しいキュリー研の中庭

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それぞれの季節、それぞれの表情を見せてくれるキュリー研の中庭。常に庭師による手入れがいき届いていて、キュリー夫人の時代から少しも変わっていない。テラスから柵に手をかけて、キュリー夫人がよく中庭をぼーっとみていたそうである。  近所のリュクサンブール公園などの豪華な雰囲気とは異なり、このこじんまりとした中庭は、研究が情熱であり芸術であった時代から何一つ変わっていない。  どの季節でも実験に疲れた時、この庭にくると、キュリー先生達の声を聞けるようなきがする。フレデリック・ジョリオ=キュリー先生曰く「(キュリー研など)伝統ある研究所で働く研究員の発言や思考には、過去の偉大な先人たち(キュリー夫妻ら)の思想・発想や知性が無意識のうちに顔をだす」そうだ。そのフレデリック・ジョリオ=キュリー先生も、戦前と戦後の研究現場の変化に大層危機感を感じていらっしゃったそうである。戦前は科学研究とは、貴い精神と知能を持つ者による芸術であったが、今では(戦後は)それらはどこにいってしまったのかと。いくらキュリー研であっても、その頃に比べ現在は、研究業界におけるグローバル化により、資金獲得や成果主義など、更に研究現場の大衆化、ビジネス化が進んでいるのだろう。キュリー一家が現状を見たらどう思われるだろうか。  私もキュリー一家直径の研究者の端くれとして、キュリー夫妻、ジョリオ=キュリー夫妻らの思想や知性が伝染しているはずである同僚達との日頃の雑談から議論に至るまで、どの会話も大事に、とくに老教授達の発言は、科学研究が文化活動であった古きよき時代の消えゆく最後の面影として、聴き漏らさないよう、彼らの知性を浴びなければならない。

2009年5月9日Georges Cziffra@Senlis

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パリ郊外のサンリス(Senlis)を訪れた。前回訪れてから約3年が経っていた(2006年6月17日の項参照)。前回訪問時には、時間に遅れてシフラ一家のお墓参りができなくて心残りだったのが、今回実現した。今回は時間に余裕を持って訪れ、その帰り、シャンティイ城とその周辺散策をする時間もとれた。3年前と同じ北駅のカフェで電車をまち、同じ電車でシャンティイまで行き、同じバスで前回同様、菜の花畑を通ってサンリスへ向かった。3年前と同じ観光案内所により、大聖堂を見学し、シフラ財団(Fondation Cziffra)が運営する教会へ。3年前と唯一の違いで、とても残念だったことに、受付の老女が、別の方に変わっていた。奥様は2006年頃に亡くなられたそうだ。  シフラ財団が拠点としているこの教会は、その前は長年にわたり荒れ果て、自動車修理場、兼駐車場として使われている有様であったそうだ。しかし、建物を修復しつつ進められた考古学的調査の結果、この教会がフランス王ユーグ・カペーの妻によって建てられた、フランス最古のカトリック教会Royal Chapel of Saint-Frambourg教会であることが判明したそうだ。現在ではフランツ・リスト・オーディトリウムとして、コンサート会場として使用されている。  既述(2009年04月22日「死の舞踏」@ピサ)の通り、ピアノ協奏曲の意味も分からず、「ピアノ」という文字だけで生まれて初めて買ったCDに書いてあった「シフラ」がピアニストの名前だとわかったのは高校生の頃だった。その後少しずつピアノを弾き出した縁でパリでもピアノを続けて、2回目の訪問にしてようやくこの日、シフラ一家のお墓参りをすることができた。幼少期から私のピアノにとってこれだけ影響を与えたピアニストは、直接指導を受けた先生方を覗けば、おそらく他にいないだろう。その人物のお墓参りが実現し、長年会いたかった人物に面会が叶ったような、そんな妙な充実感を得た。  帰りはシャンティーに寄より、シャンティー城を見学した。大公の居城だっただけあり、かなり豪華で威厳に満ちていた。シャンティー市の名物、クリームクレープ(Crêpe Chantille)を食べて、パリに帰った。ホイップクリームのことを、パリでも「シャンティー」と呼ぶ。

2009年04月22日「死の勝利」@ピサ

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 一ヶ月近く、ひたすら実験をしていたので、休養もかねて週末イタリアのピサに行ってきた。ちょうどその頃、キュリー研の研究室に、ピサ大学の学生がインターン生として来ていたので、とても身近に感じていた。ピサと言えば、なんといっても「斜塔」で有名である。  私の場合、一番の目的は、いつかは訪れてみたいと思っていたカンポサント教会(墓地?)にあるフレスコ画「死の勝利」。14世紀の画家、ブルナミーコ・ブファルマッコの作品とされる。27歳のリストがここを訪れ、このフレスコ画を見て得たインスピレーションからピアノとオーケストラのための作品、「死の舞踏」を作曲した。生まれて初めて買ったCD「リスト:ピアノ協奏曲、他 シフラ」にこの曲が入っていた。当時「協奏曲」が何なのかもさっぱりわからず、「ピアノ」しか意味がわからず、とりあえずピアノ音楽のCDを買ってみようと思いたち、「ピアノ」の文字だけからこのCDを手にとって購入してみただけという偶然が、この楽曲と、ジョルジ・シフラという希代のピアニストとの出会いだった。それでも、当時まだクラシック音楽にそこまで縁のなかった私が、「シフラ」がピアニストの名前だということを認識するまでには数年の歳月が必要だった。  その後、20代でピアノを再開し、かなりのピアノ音楽通になっていた私にとっても、死の恐怖が生々しく伝わってくるこの楽曲は、最も大切な思い出の曲の一つであり、シフラというピアニストは、最も敬愛、尊敬するピアニストの一人であり続けた。私が東京大学を受験した際も、このCDを持参し、試験開始直前にリラックスするため、CDウォークマンでこのシフラによる「死の舞踏」を聴いてコンディションを平時に近づけ、試験に臨んだ。おそらくこの曲、シフラによるこの名演は、今後も私の人生にとってかけがえのない音楽の一つであり続けるだろう。   このように、「死の舞踏」は大変思い入れの深い曲だったので、一度はそのインスピレーションの源泉となった、このフレスコ画の現物を、現地で見てみたいと思いだしてから10年以上が経過していただろうか。  感激の対面だった。「死の舞踏」から連想される中世ヨーロッパン人の生死感が生々しく伝わってきた。全ての人に訪れる死の圧倒的な存在と、それに対抗する人々のむなしい抵抗という主題が描かれている。この作品に骸骨の姿で表現された死の象徴が、王

2009年4月5日ソー公園花見

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  日本人と台湾人が中心の芸術家集団で、ソー公園で花見を楽しんだ。公園の近くにはキュリー家のご自宅があり、確かジョリオ=ランジュバン先生(キュリー夫人女系3代目)がまだお住まいだったようなお話を、ふと思い出した。  花見とはいっても、4月のパリはかなり寒く、花は咲いていない。メンバーには、国立高等音楽院パリ校(CNSM)に在籍する作曲家が多かった。ピアニストや、クラリネット奏者の友達も何人か参加していたので、輪に入りやすく、終盤にはみなお酒が進み、フランス語、英語、日本語、中国語が飛び交い、相当盛り上がった。盛り上がるとはいっても、表現力の豊かなアーティスト達が、普段でさえ世間体や周りの目を気にせず自由に振る舞えるパリで、お酒が進み、はめを外して盛り上がると、控えめに言っても健全とはいえない程の自己表現ぶりだった。

2009年3月22日ホームパーティー

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 パリ 北駅で同僚達と待ち合わせて、パリ郊外トゥルナン=アン=ブリ(Tournan en Brie)にある、北アフリカ出身の同僚のご自宅でクスクス(北アフリカ先住民ベルベル人の伝統料理)パーティーに参加した。研究室のメンバー殆どが集まっていた。パリの日本食材店で購入した梅酒を差し入れした。薄めずにストレートで飲む梅酒は、食前酒としてちょうどよい味とアルコールの濃さであるようだった。  上司にあたるメンバーがご一緒していても、かしこまっていないところがいい。日本では、打ち上げや外の活動でも、上下関係はついて回る。まるでプライベートのメンバーで集まっているかのような、とてもリラックスした、にぎやかな会だった。夕方、日が傾き、ヨーロッパの直線的な陽の光が斜めからさす中、アルマンヴィリエール城(Château d'Armainvilliers)周辺の牧場を、皆で散歩したのもいい思い出になった。

2009年3月10日、12日セミナー

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東大時代にお世話になった先生方や元同僚達が、日本のみならずフランス各地からセミナーのため大挙してパリにいらした。会場はCNRS(国立科学研究機構)の大会議室(Auditorium)。元同僚達の研究の進展状況が伺えて大変懐かしく、また相変わらず活発な研究活動に刺激を受けた。  その一連のイベントとして、その二日後、キュリー研のご近所のESPCI(高等物理化学学校)で行われたNano thermique(ナノ熱力学)セミナーの招待講演にお招き頂く機会に恵まれた。演題は"Micro-Régulateur de température permettant l'analyse de biomolécules sur une gamme de temps de la seconde à la milliseconde"と、フランス語で演題登録をさせて頂いたが、さすがにフランス語で講演をするほど語学が堪能ではないので、この時も英語で講演を行った。ESPCIはキュリー夫妻がラジウムを発見した場所に建てられた大学であり、晩年キュリー研にもいらしたド・ジェンヌ先生が長年学長を務めていた大学でもある。建物の壁に、この大学にゆかりのある歴史的大科学者・ノーベル賞受賞者達の大きな写真が飾られている。   セミナーではリヨン大学とESPCIの研究者達の発表の各セクションの前に、東京大学からいらしたキム先生と、私が基調講演をさせて頂いた。共同研究をさせて頂いた2005年からますます進んでいたキム先生の大変興味深い研究に、ド・ジェンヌ先生と、先生と事実上の家庭を持たれていた元教え子で、当時キュリー研にてまだ現役で研究活動をされていたフランソワーズ先生がお二人で書かれた論文の理論が使われていた。こんな身近に、世界中から注目される研究者がいる環境を改めて実感し、将来有用となるであろうネットワーク構築のみならず、彼らの考え方や価値観、文化を学び、これらを自分の研究活動に役立てるよう、今後は研究の内容のみでなく、それらの研究を行った研究者達個人への関心を持つように心がけたいと思った。

2月28日~3月4日生物物理学会@ボストン ロンドン大英博物館で琉球国の遺品に遭遇

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  今回の新大陸訪問の一番の要務であった米国生物物理学会年会のため、NYからボストンへ飛んだ。生物学分野の世界的権威、その次の座を狙う中堅、一旗揚げようと意気込む若手など、世界中から錚々たる面々が一斉に会するイベントである。同僚や競合相手の発表を聴講し、激励の言葉を送ったり、厳しい質問を投げてみたり、大変実りの多い学会だった。教授間の様々な人間関係、力関係や、政治闘争を目の当たりにすることもできた。研究者の世界も洋の東西を問わず、結局は分野内では縄張り争いで権威というものを確立し、対外的には人気商売である。学術界は、政治と自己アピールが苦手な者は、およそ生き残れる世界ではない。  大阪大学から参加していた若手ホープの後輩と、ハーバードスクエア近くの、幼少時代家族と頻繁に訪れたUnoのピザ店で食事をしながら色々語り合い、彼の知識の広さと意欲的な姿勢に大きな刺激を受けた。また学会の合間に、幼少期お隣にお住まいだったHicks夫人と彼女の甥達とを訪問し、昔を懐かしがった。研究者になった後、学会や出張で数年に一度、ボストンを訪れる際は、かならずHicks夫人を訪れていた。私の家族の中で、頻繁にボストンを訪れるのは自分だけだったので、家族の近況を報告すると毎度自分の家族の話を聞くように喜んでくれた。  帰国の途中ロンドンでトランジットの際、短い時間であったが、財務省から出向中の大学の同期の千家君と会う時間がとれ、日本、世界の金融業界について、色々と貴重な情報を仕入れることができた。リーマンショックからまだ日が浅かった当時、金融業界は様々な余波が残っていたようである。  また、ほんの1時間程度であったが、大英博物館に入ることができ、25年ぶりにロゼッタストーンに再会した。昔はむき出しで展示されていたような記憶があったが、この時はしっかりとガラスケースでおおわれていた。アジアコーナーでは、日本の展示の隣に、朝鮮王朝、琉球国のコーナーがあり、他では見たことのない琉球製のお膳と漆器に初めてであった。  沖縄にあった琉球国の遺産は先の大戦でことごとく消失してしまったため、琉球国のかつての繁栄を伝える文化遺産の多くは、日本本土や外国に散らばった物でしか目にすることができないものも少なくない。これらの世界中に散った琉球国の遺産を再調査してはどうかという旨の記事を、パリに戻った直後

2月25日~27日ニューヨーク訪問

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  ボストンで開催される米国生物物理学会に参加するための米国出張。ボストンに向かう前に、コロンビア大等を訪問するため、ニューヨークに立ち寄った。到着後すぐに、元キュリーの同僚で、現在コロンビア大学で研究を行なっている友達夫婦のご自宅にお邪魔し、ご夫妻のフランス人のお友達数名とステーキハウスBen’sで会食をした。  日本人同様、食文化を大切にするフランス人達は、アメリカの大衆食文化に辟易している様子だった。先進国の中では、アングロサクソン(米英)とフィン人(フィンランド)の食事が最も残念だという意見を、世界中を飛び回る研究者、ビジネスマンの間でよく聞かれるが、自分も全く同感である。最も食事に気を使っているのが、やはり日本とフランスであろう。但し、日本人は自国の文化を誇示しないのに対し、フランス人は自国文化のアピールが上手である点は正反対といえる。  高校時代、ニューヨーク郊外ロングアイランドにあるラ・サール学校への短期留学した時以来のNY訪問だった。用務はコロンビア大学で複数の研究室訪問であった。議論を戦わせるために訪問した生物学者の中に、ノーベル生医学賞受賞者のマーチィン・チャルフィー教授もいた。当大学で時間を過ごし、様々な分野、職位の方々と議論を交わした。教授陣の顔ぶれは素晴らしいが、学生や研究員、更には現場の活気やエネルギーは、やはりハーバード大学やマサチューセッツ工科大学に比べると、やや物足りなさは否めなかった。パリの次はボストンに異動するか、それともニューヨークに異動するか、まだ最終決定は下していなかった。  用務の合間に、約10年ぶりにマンハッタン中心部や、ツインタワー跡に立ち寄った。晩はカーネギーホールでウェーンフィルハーモニー管弦楽団による公演。指揮者はインド出身の名指揮者ズービン・メータ、ピアノソロは中国人の芸人的ピアニスト、ランラン氏。高校時代に、当時師事していたピアニストから勧められて訪れたカーネギーホール裏にある老舗の楽譜屋さんを訪れた。10年前ここで買ったリストの「死の舞踏」や「ピアノ協奏曲」のオーケストラとピアノソロからなるフルスコアは、今でも大切に持っている。

2009年2月11, 12日Institut Oceanographique

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    今年はキュリー研究所設立100周年記念で、100周年にまつわる様々なイベントやセミナーが企画されている。今回はキュリー研究所(基礎研究)とキュリー病院(医療)の共同セミナーがあった。研究所とキュリー病院はどちらもInstitut Curie(キュリー研究所)と呼ぶので、外からは区別がつきにくい。  会場は同じ敷地内にあるInstitut Oceanographique(海洋学研究所)で行われた。キュリー研究所と同じ敷地内には、海洋学研究所の他に、数学界で有名なポアンカレ研究所や、国立高等化学学校などが立ち並んでいる。同じ研究所といっても、海洋研の方々は海に出るため、研究所にはオフィスや講堂しかなく、壁や天井には美しい絵画や海の生物の写真で散りばめられていた。モナコ公国のプリンス・アルベール1世が設立したらしく、お城や劇場を連想させる豪華絢爛な建物だ。セミナー参加者に振る舞われた昼食も極めて豪華だったため、現在でも資金が豊富であることが伺えた。

2009年2月9日Concert-portrait: Guy Sacre

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  月曜の晩。高等師範学校(ENS)で、Guy Sacre, Faure, Poulenc, Rousselの歌曲やピアノ曲の演奏会があった。ENS芸術学部主催の演奏会は、場所がキュリー研の隣で、仕事帰りに友達と夕食を取るなどしてから行ける時間帯なので、頻繁に通うようになっていた。しかも入場無料である。  「作曲者立会い」とプログラムにあったとおり、Guy Sacre氏が会場にいらしていた。そして、その隣には予想通り、同性のパートナーでピアニストのビリー・エイディ先生が座っていた。ギャルドン先生の同僚であるエイディ先生の生徒さんには友達も多く、頻繁にお見かけしていた。  演奏者はエイディ先生やギャルドン先生の教えるパリ国立地方音楽院(CNR)の生徒でENSの卒業生だったり、ENSの生徒でCNRの卒業生だったり、最高峰の音楽大学と一般大学で何らかの専門と、音楽と双方を学んだメンバーであった。客層も学生が多かったようで、いつもと違う趣旨の演奏会だった模様。

2009年2月8日Lagny国際コンクール

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続く日曜は、パリ郊外に位置するラニー=シュル=マルヌ市(正確には小群)で開かれた国際コンクールに、モスクワ音楽院に留学中の友達が出演されるので応援にかけつけた。当初は早めに現地入りし、少し観光をしてからコンクールを聴こうと思っていたが、この日は早朝同僚とバスケットボールの日で、その後に疲れて仮眠をとってしまった。そのため、現地への到着が大幅に遅れてしまい、コンクールは最後の5人しか聴くことができなかったが、幸い友人の出番には間に合った。 このコンクールの審査委員にも、ギャルドン先生が名を連ねていたことを、出演する友人からの「新田さんの先生が審査委員にいらっしゃるみたいです」との連絡で前もってしっていた。フランスのみならず、主要国際コンクールのほぼすべての審査委員を経験されているといっても過言でないギャルドン先生であるが、審査員席に座っている見慣れた後ろ姿を見ていると、威厳とともに親しみが沸いてきた。そのギャルドン先生は、ある意味面倒見がよく、自身の生徒の結果について毎回かなり神経を使われる。  この日も、結果が発表されるまではピリピリしている様子が伝わってきたので、結果がでるまでは顔を合わせないように挨拶を避けていた。結果が発表された時、残念ながらモスクワから参加していた親友の入賞は見届けられなかったが、ギャルドン先生の生徒さんでもある友達のエリック・アルツ君が優勝した。これで先生のご機嫌は一気によくなり、こちらが気づく前に先生の方から「元気か?!」と声をかけてくれて、にこにこエリック君と歩いていった。  また会場から駅への帰り路、前年4月に沖縄のシュガーホールで、日仏交流150年記念演奏会に一緒に出演して沖縄観光にも案内した、ギャルドン先生門下のフランス人Jさんとばったり遭遇した。彼女もこのコンクールを受けていたらしい。帰りの電車でも、沖縄での思い出や、共通の友達の話で盛り上がった。数年後、鈴木隆太郎氏がロン=ティボー国際コンクールに出演した時の会場でも遭遇した。

2009年2月7日日本文化会館

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  土曜の午後、キュリー研に行ったところ、ジュッシュー(Jussieu)のパリ6大学から出発し、ENSとキュリー研前のユルム通りを通り、パンテオン広場に向かっているデモ隊に遭遇した。デモ隊には研究者だけでなく若い学生も多く、Superieur系大学(=各分野のトップ大学)を壊す政策に反対というのが主な主張だったと同僚が説明してくれた。サルコジ大統領就任以来、フランス各地で学者や研究者のデモが続いている。  科学技術立国を自称している日本で、研究者や技術者がデモやストライキをしてみたらどうだろうか。一瞬で産業がストップし、理系人材の大切さを社会が認識できるのではないか。もっとも、認識したところで彼らへの待遇が良くなる方向に動くことは日本の文系優位社会ではありえないと思われるが。  夏以降、ニース音楽院夏期講習のフィリップ・アントルモン先生のクラスで出会ったピアニストの鈴木隆太郎氏、戸室玄氏と共に「三人会」を結成していた。この日の夕方、パリの日本文化会館で、メンバーの戸室玄氏が出演する演奏会に行ってきた。先日友達の誕生会で会ったばかりの日本人ピアニストも一緒に出演していた。戸室玄氏の演奏は、ニースのクラスでアントルモン先生にいじられているところしか聴いたことがなく、ステージでの演奏を聴いたのは初めてだった。日本人離れした音色と流れと歌が何とも言えない妖艶な美しさを醸し出していて、とても若者の音楽とは思えないほど素晴らしかった。いつもはどのピアニストに対しても、厳しい批評を下し、音楽家の演奏について褒めることが滅多にない辛口批評家の鈴木隆太郎氏も、もさすがにその素晴らしい演奏にびっくりして、よい刺激をうけたようだった。

2009年1月30日サルコジ批判

サルコジ大統領は、フランスでおそらく初めてのエリート出身でない大統領のようだ。詳しいことはわからないが、エリート社会を壊しにかかっているような雰囲気があり、同僚から聞いた話によれば、フランスの研究機関や大学を壊して平坦にしようと企てているそうだ。中でも優秀な研究者が、賃金は低いが、言葉通りの自由な活動が保証される(7年間職場に現れなかったらクビになった人がいたという噂を聞いたことがある。つまり7年間はこなくても大丈夫?)フランス国立科学研究センター(CNRS)の定年制研究員制度は真っ先に潰したがっているそうだ。  サルコジ大統領のこれらの政策に、我らが大ボス、ヴィオヴィ先生がお怒りのようで、メーリングリストに頻繁に長いご意見と、サルコジの演説サイトのURLをつけたメールを送ってきていた。この頃からしばらくの間、先生の発言は政治マターが9割、研究マターが1割というありさまだった。「彼はretournement semantique(むちゃくちゃにする?)の天才で、彼の天才は今、我々研究者を攻撃している」「競争を勝ち抜いてきた人や競争に備えて準備している人たちへの侮辱だ」など、素直な意見が多く、自分の意見を述べやすい社会であること、学者(ここでは研究者はオタクではなく、学者なのである!)や文化人達が、少なくとも今までは大事にされてきたことが伺え、フランスが文化大国であることを改めて実感した。

2009年1月24日土曜餃子パーティー@ベルビルの自宅

 この日は朝から部屋を掃除し、フェット(fete:ホームパーティー)の準備をした。午後遅めにピアニストのお友達が一番乗りで準備の手伝いにきてくれたので、一緒に買出しに行き、二人で餃子を作り始めた。サックス奏者とフルーティストの友達が加わり、ピアニストがさらに一名加わった。  日本では、そもそも家の広さが狭いためか、飲み会といえば居酒屋で行うことが多い。一方で、欧米ではホームパーティーが盛んで、自宅を友人達に開放し、自分の生活空間を見せることにより、親交を深めることが一般的である。その日も色々なメンバーが加わったり帰ったりしているうちに、きが付いたら朝になっていた。自宅を開放しての餃子パーティーは、十分に友人たちへおもてなしできたかなと思う。ここで出会った2人が後日カップルになって結婚にまで至ったことを考えると、ホストとしてそれなりに成功だったと思う。  翌日は起きるのが遅かったため、また演奏会開始の時間を勘違いしていたため、チケットを購入済みで、大変楽しみにしていたマウリツィオ・ポリーニのピアノリサイタルを聴き逃してしまった。次にポリーニ氏の演奏を聴くのは、翌年ボストンに赴任した時になった。

2009年1月21日第1回キュリー研究所・パスツール研究所細胞分子生物学セミナー

 キュリー研とパスツール研はもっと協力するべきだというコンセプトのもと、パスツール研究所120年記念の年に開かれた第1回キュリー研究所・パスツール研究所細胞分子生物学合同セミナーに参加した。  パスツール研究所訪問するのは2年ぶりだった。キュリー研の同僚で少年時代、剣道で全仏2位の実績を残した筋肉質のギヨーム君(ちなみに1位は彼の弟だった)と研究所内を散策した。建物全般を見るだけでも、キュリー研との圧倒的な経済格差を感じた。もともと物理学者を主体とするキュリー研究所と、医者・生物学者を主体とするパスツール研究所では、流れ込む資金の桁がそもそも違うのだろう。ちょうど物理学者と医者の給料の違いのような感じである。   ヨーロッパでは、優秀な学者であれば収入が多くなくても、社会的な尊敬と威厳を享受できるので、優秀な人が収入の高い職業に流れる潮流は日米程ではないらしい。  発表者の共同研究者の中にC. ランジュバンさんという女性の方がいらした。もしかしてキュリー夫人女系4代目かと思ったが、未だに確認はとれていない。  キュリー夫人の女系3代に渡る物理学者は次の通りである。 初代:マリー・キュリー=スクロドフスカ(P.キュリーと結婚) 2代目:イレーヌ・ジョリオ=キュリー(F.ジョリオと結婚) 3代目:イレーヌ・ジョリオ=ランジュヴァン(P.ランジュバンの息子と結婚)

2008年1月18日誕生日の演奏会

 前日はパリ郊外、ナポレオンとジョセフィーヌの居城であったマルメゾン城を貸し切り、現在の城主さんのご好意と親友のお誘いで、パリ在住音楽仲間の送別会兼誕生パーティーに参加していた。ジョセフィーヌの別荘として使われていた時代から残るオーブン等をみせて頂き、暖炉のある大広間で、調整はされていないが、プレイエルのピアノをピアノ弾き達が代わる代わる演奏し、他は各自の楽器を演奏する、何とも贅沢でにぎやかなパーティーだった。  対照的に翌日の自分の誕生日は一人おとなしく過ごした。15の誕生日を迎えた時、二度と戻らぬ幸せだった沖縄での幼少時代を思い出し、郷愁に更けていた。それ以降、毎年誕生日を迎えるたびに、人生を振り返り、郷愁に浸る癖が私にはあった。まだ20代であった私にとって、30を迎えた時程のショックはなかったが、「ながらえばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき(藤原清輔)」を暗唱し、予想以上に日々の生活を充実させてしまった事も原因の一つであったのか、肉体的にも精神的にもあまりにも負担が大きく厳しかったパリでの生活を、使命を果たし無事乗り切ることを誓った。  その日はたまたま、シャンゼリゼ劇場でエフゲニー・キーシンがソロリサイタルを開いていた。彼のピアノソロを演奏会場で聴いたのは10年程前に東京で、まだピアノの事をあまり専門的には知らなかった頃以来だった。演奏の細かい部分どこを切り出しても「巧い」と「面白い」が伝わってくるような魅力を感じた。彼の演奏については、録音を聴いた時の感想と同じく、普通の人間とはやや違う思考をもっている印象を受けた。年とともに人間として成長する部分が成長していないと、誰かが批評していたのも納得するが、とにかく圧巻で楽しいから、素晴らしいのである。アンコールの時は2階席から花びらが散り、マダムがステージにブーケを投げ、...le Roi !(よく聞こえなかったが、おそらく「お前は〇〇の王だ!」のようなニュアンスだった)と叫ぶムッシュもいた。ここまで盛り上がったクラシック音楽のライブは初めてだった。 

2008年12月15日キュリー夫妻の墓参りで湯浅先生が読んだ詩

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 現在はフランスの偉人達が眠るパンテオン地下にいらっしゃるキュリー夫妻も、当時はソー (Sceaux) にあるキュリー家のお墓にいらした。   Les cimetieres de Sceaux   Cimetieres de Sceaux si fleuris, Que tu es luxe, aujourd'hui! La lumiere, le bonheur que tu as! Mais, sais-tu? Pourquoi es-tu luxe?   Tant d'envie que j'en ai. Mme. Pierre-Curie y dort. Sans ornement, sans les fleurs. Mais, sait-tu? Comment sa vie etait luxe?   Tant d'envie que j'en ai. Mme. Curie a vecu, avec l'amour, avec le radium si eminants. フランス語の詩とともに和歌も詠み、一緒に絵まで添えられている。先生の日記からはその多才ぶりが伺われる。教養が深く多才な素質は、研究者の仕事とは相反することが多く、それに葛藤し続けた人生が垣間見られる。キュリー研の入り口を毎朝だらだらとくぐっていたが、戦前湯浅先生がこの門で何度も門前払いされた(結局はコレジ・ド・フランスのジョリオ先生の所に入った)と知ると明日からありがたみをもって通えそうだ。

2008年12月5日ジョージ・ベンジャミンとベンジャミン・ブリテン

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作曲家、指揮者、ピアニストのジョージ・ベンジャミンとベンジャミン・ブリテン、どちらもブリテン島出身。よく混同する。ジョージ・ベンジャミン指揮で、本人の楽曲とオリヴィエ・メシアンのプログラムを聴いた。  ベンジャミン氏は、よくベンジャミン・ブリテンと混同していたためか、歴史的人物という認識があったため、その若さに驚いた。サル・プレイエルで当日券を買うために並んでいると、品のあるマダムから余っていた招待券を頂き、なんと無料で入場できた。ピアニストはフランス人のピエール=ローラン・エマール氏。頭で演奏するタイプの彼の演奏は、恐ろしいほど完璧だった。  ライブ演奏での臨場感や空気感、音色の美しさや多彩さも魅力とする、古典やロマン派を弾くいわゆるクラシック音楽のピアニスト達は、実際にライブで聴いた時の魅力や素晴らしさが録音では伝わりにくいことが多い。一方で、その完璧に練られて再現される演奏ゆえに、彼はその魅力が録音でも伝わりやすいタイプの演奏家だと感じた。音は常に澄んでいて、曲の大きな構成から、リズムやアーティキュレーションは完璧で、天才的な頭脳をもっていることに疑いようがない演奏だった。

2008年12月3日ギャルドン先生レッスン

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 いつもの通り地下鉄Liege駅から、先生のご自宅へ向かった。今日はフランツ・リスト作曲の「誌的で宗教的な調べ」から「祈り」と、伊藤康英氏作曲の「ぐるりよざ」ピアノ独奏版を聴いて頂いた。リストは昔から弾きこんでいた曲であったので、今年初めて「ブラボー!」と褒められた。後者は練習が進んでいなかったので正直にそう申し出て、テクニカル面をご指導頂いた。  「ぐるりよざ」という曲を大変気に入ったようで、レッスン中に2度ほど「コンクールにいい曲だ」とつぶやいておられた。先生の門下生から、ロン=ティボー国際コンクールの優勝者が出たほど、生徒をコンクールで成功させる教育手腕で世界的に高名な先生だけに、コンクールで有利になる新曲には常に興味をもっておられたようだ。  その日は先生のご機嫌もよく、私のピアノを応援して頂き、今後勉強するにふさわしいお薦めの曲もいくつか頂いた。人生であと何回ここを訪れることができるだろうか。先生からは、音楽を通して一流の価値観、品格、感性や精神面を磨いて頂ける、この類まれなるご指導を通じ、本物や一流を見抜く力、ひいては物事の本質や一番大切の部分を見抜く感性を磨いて頂いたと思う。この貴重な体験を、一度でも多く受けられることを願う。

2008年11月30日Palais de la decouverte

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直訳すると「発見の宮殿」。 アルフレッド・ノーベルの特別展の企画でフランス人のノーベル賞受賞者5人の講演シリーズがあった。この日は、数年後ドイツのリンダウでお目にかかることになるジャン=マリー・レーン教授(1987年ノーベル化学賞)の講演。一般向けの講演だったので、宇宙の歴史や科学の歴史から入り、歴史上の人物を紹介したり、逆に我々科学者は普段の研究活動を通じてあまり聞く事のできない、興味深い講演だった。その中に美術や文化思想を巧みに織り交ぜながら話を進めていく講演から、博士の、ひいてはフランス科学者の、オタクではない教養と文化レベルの高い学者魂を感じた。最後はイヴの有名な絵をお見せになり、「イヴが実を食べた時が科学の始まりだ。最初の科学者は女性だった」とのウィットに富むジョークで締めくくった。  Palais de la decouverteの建物はその名の通り宮殿で、美術館、博物館と一緒に科学博物館が常設されている。まるでギリシャ神殿のようなアンティークな建物に、最新の科学技術に関する展示を入れているところがとてもフランスらしい。その昔、フレデリック・ジョリオ=キュリー先生が、「人間は芸術と科学、両方が平衡をたもっていないといけない」と述べられたが、それがもはや不可能であると思われるほど専門が細分化した現代において、その精神を無理やりにでも、どうにか見える形で表そうともがいているような印象をうけた。 そのフレデリック・ジョリオ=キュリー先生がルーブル美術館を借り切って学会を開催した際、研究者達が展示物である大盃盤を灰皿につかったり、石像の胸にパラをさしたり気軽に古代彫刻に触れているのをみて、湯浅博士が「科学と芸術の融合」「大変興味深い」と述べられていたのを思い出した。

2008年11月27日グレゴリー・ソコロフ@シャンゼリゼ劇場

 音楽家の知人達から、是非聴くようにと薦められていたピアニスト、グレゴリー・ソコロフの演奏を初めて聴いた。一時期は毎週のように通っていたシャンゼリゼ劇場に足を運ぶのは久しぶりだった。プログラムはモーツァルトとベートーヴェンの、ややマイナーなソナタが中心だった。彼の弾き方は、腕と手が大きく上下するもので、一見弾きにくそうに見えるが、全くピアノに負荷のかかっていないかのような美しい音色がとても自然に紡ぎ出され、演奏を聴こうと意識せずとも、会場に身を置いているだけで自然に聴き入ってしまう演奏だった。  しばらく聞いていると、ピアニストの存在が消え、ピアノが勝手に演奏しているような、大きなふたの開いた箱から音が自然にあふれ出ているような錯覚を受けた。ピアノに極限まで負担がかからないない時、このような音がでるのだろうか。もっと彼の演奏を聴ける機会があることを祈る。

2008年11月24日湯浅年子シンポジウム

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  本人初の女性博士の弟子がキュリー研にいたという噂は以前からちらほら聞いたことがあった。正確にはフレデリック・ジョリオ=キュリー博士の弟子で、所属はコレジュ・ド・フランス。キュリー研究所には入所はかなわなかったそうである。今年は日仏交流150年。ENSで記念行事に湯浅年子シンポジウムを開催するというポスターを見たので興味本位で参加してみた。日本人初女性博士は保井先生(生物学)で、その現お茶大での生徒が湯浅先生(物理学)だったようだ。講演にはジョリオ=キュリー夫妻の娘でいらっしゃるマダム・ランジュヴァン=ジョリオ先生(キュリー夫人女系3代目孫)もいらしていた。  ここ最近、この機会にと湯浅先生の著書を購入して読んでいると、50年前も変わらないパリやパリ市民の様子、特にキュリー研の現在も同じ建物で繰り広げられる研究者達の営みの変わらないことに、時間的な距離を感じず、とても親近感を感じた。「研究がしたいという発言がなによりも権威をもつ」や、「自由な環境に魂が開放される」など、自分が感激、共感する、日本では体験することのできない感覚が今も昔も、ここにはあった。  「パリ随想」などは特に研究の話を書いているわけではないので、近年パリに住んだことのある人なら誰でも共感をもって読むことができると思う。ロダン美術館の話や、ブローニュの森のバガテル庭園(ちょうど先週末訪れたばかり)にいった時の感想など、長年変わらないパリの魅力を確認することができる。湯浅先生は芸術音楽にもご興味があり、仕事帰りにシャンゼリゼ劇場でジャック・ティボーの演奏会にいかれた時の話が書かれてあったが、私は先日ティボーの伴奏をしていたチッコリーニの演奏会に行ってきた。湯浅先生も同じような生活をしていたようだ。  フランス語の詩とともに和歌も詠み、自著には一緒に絵まで添えられている。先生の日記からはその多才ぶりが伺われる。教養が深く多才な素質は、研究者の仕事とは相反することが多く、それに葛藤し続けた人生が垣間見られる。それでもやはり、当時はまだまだ精神的に貴族的で優雅だった研究業界の文化と、現在我々の国際的な競争にさらされ、ビジネス化しているそれとの違いは大きく、古きよき時代というのが実際にあった事を再確認させられた。  ピエール・キュリーの言葉「たとえ魂の抜けた体になってしまっても、研

2008年11月21日フルイジェン

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  キュリー研での大ボス、ヴィオヴィ先生が数年前に立ち上げたベンチャー企業Fluigentを初めて訪れた。ヴィオヴィ先生にとっては50代になってからの初ベンチャーである。いつもながらそのバイタリティーの凄さには敬服する。おかげで更に忙しくなり、議論をするために先生を捕まえることが更に難しくなった。自分は直接この会社に関わってはいないが、日本の類似特許や製品仕様を(公開されているものに限り)ヴィオヴィ先生からの頼みで訳、解説をしてあげたりしていたので、無償の貢献をしていたことになるのだろうか。  先日研究所内パーティーでお会いしたFluigentの経営責任者を務めるニコラさんに電話をし、たまたまお互いの時間があったので、この日訪れることになった。その時のパーティーで、特許戦略など、ベンチャー企業の経営についての話しを聞かせてくれたニコラさんが社内を案内してくれた。ベンチャー企業なのでかなり小さな部屋で、少人数で製品の作製と会社の運営をしていた。

2008年11月6日秋のキュリー研

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キュリー研究所の中庭は、四季折々の趣を見せてくれる。秋の中庭は、一世紀ものあいだ途切れることなく、ここで繰り広げられてきた研究者達の会話、営みへのノスタルジーを感じさせてくれる。

2008年11月3日高等師範学校パリ校での無料コンサート

高等師範学校(ENS)パリ校でフランス語の授業を受けた帰りに偶然目に入ったHistoire et Theorie des Arts(芸術学部)主催の演奏会に、その時の気分でふらっと寄ってきた。ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグとロシアの作曲家メトネルのヴァイオリンソナタがその日のプログラムだった。これらの曲目は、よほど優秀な演奏者でない限り退屈になってしまうので、夜遅い時間でもあり、はじめはあまり期待せずにいたが、行って正解だった。  演奏者は若手フランス人達で、ヴァイオリン奏者のRoussevさんはCNSMD(コンセルヴァトワールパリ校)のジャン=ジャック・カントロフ先生のクラスを卒業し、ロン・ティボーコンクールに入賞した実力派。ピアノのD'Oria-Nicolasさんはロシアで研鑽を積んだそうで、風貌もロシア人ぽく十分に脂肪とヒゲを蓄え、ラザール・ベルマンを彷彿させる体格と風貌だった。二人の演奏レベルは非常に高かった。頭にアンテナがついた宇宙人のような秀才しか入れないとも言われるENSでの演奏会なので、さすがに客層も若者はオタク系の学生が多く、その中に老齢の紳士淑女達が交じっていた。音楽の専門家でない私の感想であるが、この客層が聴衆として極めてハイレベルだったことが通常の演奏会とは一線を画していた。壁に過去に在籍していた偉人達の名が刻まれた石版で埋め尽くされ、偉い方々の胸像や彫刻がところ狭しと配置されている普通の教室で、奏者と聴衆の距離が近かったこともよかったのだろう。この時は、まるで聴衆が3人目の奏者として、トリオの演奏に参加していたような印象を受けた。 客席が演奏に反応していて、奏者もそれを感じ取りながら部屋全体で演奏しているような雰囲気の演奏会は、なかなか体験するチャンスはない。 さらにこの時は、たまにあるそういった演奏会とは全然違うレベルを感じた。一見聴衆の皆様は、ただ行儀よく座っているだけなのであるが、傾聴していてかつ理解して反応しているオーラが客席から湧き上がっていた。おそらく彼らは、単なる音楽オタクではなく、高い教養、知性と常識をもった、本物の音楽の聴き方を知っている知的階級なのだろう。なんとなくそんな感じがした。  大学で、こんなに凄い演奏会を気楽に、授業の帰りにちょっと立ち寄っただけで聴けてしまう環境は羨ましい。学食を

2008年10月30日ティム・ハント先生セミナー

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キュリー研究所ベルグ記念講堂でティム・ハント先生のセミナーがあった。彼はSir 、Prof.、 Dr.と、3つ以上の称号を持つ。ハント先生は、ナース先生と一緒に2001年ノーベル生医学賞を受賞している。今回はガンとの戦いを銘打っているキュリー研(正確にいうとキュリー病院)を意識してか、ガンや腫瘍をテーマに話された。とても話がお上手で、ウィットに富んだ皮肉や冗談を連発された。自分と専門分野が離れているため、話についていけなかったら途中で退席しようかと思っていたが、とても話が面白く、結局最後まで居残って聞いていた。しかし、結局何を話したか思い返すと、何も頭には残っていなかった。 同じセミナーを聴講していた、隣に机を構える理論物理学者のP君と感想を話し合ったところ、「彼は、結局ガンはファッキングな病気だということ以外何も言っていなかった」と一蹴した。地位や名誉のある人物であるかどうかを気にせず、物事の本質について自由に意見を交わせるここの研究環境と同僚達からは、いつも日本ではありえない素晴らしい体験と刺激をもらう。以前スウェーデンで行われた学会の招待講演で、江崎玲於奈先生と共にノーベル物理学賞を受賞し、生物物理の分野に移られたアイヴァー・ジェーバー教授が、「物理学者が60%といえばぴったり60%だが、生物学者が60%といえば、30%から90%のあたりの値を指す」と冗談を述べられていたのを思い出した。数学・物理系研究者にとって、生物系研究者の話は、時には全く、曖昧に聞こえるのだ。

2008年10月20日アルド・チッコリーニ@サル・プレイエル

 ルクセンブルグ・フィルハーモニー管弦楽団と、老大家アルド・チッコリーニのピアノによるサン・サーンスピアノ協奏曲5番を聴く機会に恵まれた。以前も同ピアニストによる同じプログラムを聴いたことがあったが、今日は最前列の右側、ピアノのすぐ側で聴くことができた。ピアノの底から音が聞こえてくる席である。ピアノから離れた位置の座席に座ると、ホールに響いた音を聴くことになるが、ピアノにここまで近づくと、ピアノの音が直接きこえる。会場に響く音より、ピアニストが出している音や息遣いが直接、生々しく聴こえてきた。  この時のチッコリーニ氏の演奏は、同じ演奏会に同席した多くのピアニスト達が口をそろえて称賛した通り、老齢になっても衰えない見事なテクニックと、芸術の高みを極めたとも思われる境地に達した音色と構築された音楽が見事に融合した、希代の名演だった。全ての音がそれぞれ意味をもって語りながら物語が進行しているような、単なる演奏技術を超越したテクニックだった。フランス人ピアニストから連想される(もっとも彼はイタリア人であるが)色彩豊かな音色というより、骨董品のような趣のある音で、打弦楽器であるピアノからあんなに澄んだ、純粋でぬくもりのある音がでるのかと感動した。曲を聴くという感覚はもはやなく、彼の音が鳴っているその空間に浸り、彼の世界に身をゆだねているような感覚で聴きいっていた。彼が亡くなるまで一度でも多く、彼の生の音を聴けることを願う。  リフォームしたとはいえ、サル・プレイエルはサン・サーンスが十数歳でデビューして晩年まで頻繁に演奏していた会場である。お世話になった岩崎セツ子氏のデビューリサイタルも改装前のサル・プレイエルだった。そういうことを考えながら、サン・サーンスが生きている時に生まれたチッコリーニの音楽を聴いていると、彼のピアノを通じてその時代を垣間見ているかのような錯覚を受けた。まさに過ぎ去った時代を現在に伝える伝道者と呼ぶにふさわしい音楽家である。

2008年10月15日ナント大学訪問

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  前日の午後、パリからナントへ向かい、ナントの勅令が発せられた場所として知られるブルターニュ公爵城を見学して、晩はご招待頂いたナント大学教授、高橋先生とディナーをとった。ブルターニュ地方の海産物を食べながら、当時我々の共同研究の対象だった、相同組み換えタンパク質から生物学全般に及ぶ雑談を楽しんだ。ノーベル賞の話題になると、「狙ってもらえる物ではないのだから、好きな研究をやってもらえればラッキー、もらえなくても人生悔いなしでいいではないか」と、ご意見を述べられた。高橋先生とのこの3時間のディナーが、人生観やキャリアについて考え、学術的にも視野を広げ、研究者としての生き様や価値観を感化されたという意味で、今回の訪問で最も多くの収穫があった。  翌日セミナーで講演をすべく、ナント大学を訪問した。建物は全体的に古く、ややさびれ気味ながら、メインとなる講堂の設計は、それなりに気合が入った感があった。先生が研究室を構える大学内の研究所を案内してもらい、ナント大学の教授達と職員食堂で食事をした。彼らも例にもれず、全員が高等師範学校(ENS)の卒業生だった。午後2時からセミナー開始。招待して頂いた高橋教授は生化学がご専門で、聴講して頂いた教授方や研究者達もほとんどが生物学者だった。分野が違うと知識だけでなく考え方や、時には人間的性格や興味のツボも異なるので、自分の領域の話や研究内容を理解してもらうためにはかなりの努力と辛抱が必要である。幸い皆さまのアットホームでフレンドリーな雰囲気に助けられ、スムーズに話を進め、無事セミナーを終えることができた。

2008年10月13日コレージュ・ドゥ・フランス

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  キュリー研究所主催のセミナーがコレージュ・ドゥ・フランスで開催された。コレージュ・ドゥ・フランスはフランスにおける学問、教育の頂点に位置する特別高等教育機関で、試験や単位授与や学位授与などもなく、全ての講義が市民に公開されている。ここの教授に任命されることは、フランスの該当分野の最高権威と認識されることになる。ここの講義は一般市民に公開されていて、基本的には誰でも講義やセミナーを聞きに入れるので、冬はホームレスが暖を取りに入ってきたという話をどこかで読んだことがある。  今回は、キュリー研究所の発生生物学部門設立記念セミナーだった。300人の会場に500人の予約が入っていたそうだ。セミナーの入場予約をし損ねていたので、入れないかと一時は諦めていたが、当日受け付けてキュリー研の職員証を見せて交渉し、入場バッジをゲットすることができた。  今日の講演者の約半分がキュリー研究所の教授達で、残り半分がアメリカから招聘した超大物教授達だった。キュリー研究所の外部顧問に就任されたロックフェラー大学学長のポール・ナース先生やカルフォルニア工科大学の元学長のデイビッド・ボルティモア先生など、ノーベル賞受賞者達も講演をされた。こんなに小さな研究所で、これだけの人物を呼べるキュリー研究所の国際的な権威を改めて実感させられた。ナース先生も「パスツール研究所とキュリー研究所は特別だ」と明言していた。

2008年10月12日(日曜)Hvorostovsky & Kissin@プレイエル

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  晩、サル・プレイエルで、バリトンのディミトリ・ホロストフスキーとピアノのエフゲニー・キーシンによるリサイタル。2人とも、レベルが高いことは言うまでもなく、エンターテイナーとしてクラシック音楽を超越していた。演奏会で感動することは多々あるが、普通のクラシック音楽の演奏会とは違った空気に刺激を受け、普段クラシック音楽の演奏会では、その厳かな雰囲気もあってか、サインをもらったり写真をとってもらったりすることはない私であるが、この時はサイン会の列に並び、写真を撮ってしまった。

2008年10月8日ノーベル賞発表

 お隣のENSで、マーチン・カープラス先生のセミナーがあったが、アナウンスに気付くのが遅く、知らないうちに聞き逃してしまった。ハーバード化学科の彼の研究室に父親が在籍していたため、幼少の頃から彼の顔は知っていた。20数年ぶりにお会いしたかったが、残念だった。彼は何十年間ノーベル賞候補といわれ続けている。  今年のノーベル生医学賞は、物理のキュリー研との双璧、医学のパスツール研究所の、あの二人だった。化学賞の受賞者3人は、ちょうど去年東京で使っていた緑色蛍光たんぱく質の研究に関わった人達で、よく論文をよんでいた直後だったので、少し身近に感じた。化学賞、物理学賞の方々4, 5名と、後日別々の機会にそれぞれ出会うことになるとは、この時は思ってもいなかった。この時化学賞を受賞された下村先生は、彼の1960年頃の仕事でお名前を知っていて、科学史に残る大昔の人物であるとの認識であったため、受賞発表でお名前を聴いた時は、受賞したことより、まだご存命であったことに驚いた。ノーベル賞をもらうためには長生きをしないといけないとよく言われるのは、こういうことかと再認識した。実際この数年後、カープラス先生が83歳の高齢でノーベル化学賞を受賞することになった。  毎年恒例、例によって関連のメールがキュリー研MLで流れた。化学賞のロジャー・チェン博士あての「君がもらって嬉しいよ。フランスに来た時はキュリー研に寄ってね」というメールも回ってきた。パスツール研究所では2人の受賞のおかげでお祭り騒ぎかもしれないが、キュリーではいたって平穏だった。キュリーからも早く次の受賞者がでることを楽しみにしている。  今年は日本人が4人も受賞したということで盛り上がっていたが、アメリカ側ではそのうち2人はアメリカ人として数えていた。

2008年9月20日週末イタリア旅行

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     初めてイタリアを訪問した。出張と休暇を組み合わせてヨーロッパに滞在していた学部時代の同期で、当時は米国系金融会社で働いていた旧友とローマ、フィレンツェを観光した。ローマのコロシアムで、イギリス在住のギリシャ人研究者と知り合い、しばらく3人で観光した。  その際、ギリシャでも大学の教授は仕事以外の面でも部下より上だという意識が強く、理不尽な振る舞いや、仕事以外の様々な面で干渉してくるため、とても嫌だという話をしていて、日本と似た環境であることを知った。歴史と文化が長く深い国ほど、そういう傾向があるのだろうか。フィレンツェでは主に特産品である革製品を物色し、久しぶりの再開を果たしたフィレンツェに音楽留学中の旧友と、何度か観光と食事をご一緒した。ガリレオ・ガリレイや作曲家ロッシーニの墓参りもできた。ロッシーニのお墓はパリにもあるが、実際にはどちらにいらっしゃるのだろうか。

2008年9月10日~14日スイス

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  チューリッヒで開催される学会に参加するため、スイスに滞在した。東大の出身研究室の大先輩にあたる先生も日本からこの学会で講演するため、チューリッヒにいらしていた。会場はアインシュタイン博士も学び、長年教鞭をとったETH(スイス連邦工科大学チューリッヒ校)。昼は学会に参加し、世界中から集まってきた研究者達と議論を戦わせ、晩は日本からいらしていた先生方や研究者仲間と、チューリッヒ旧市街にある老舗のビアガーデンでビールを楽しみ、名物の1mもある長いソーセージを囲んで親交を深めた。    チューリッヒには作曲家リヒャルト・ワーグナーも一時期居を構えていたらしく、その豪邸は現在市役所になっていた。学会の会期が、運よく週末とくっついていたため、スイス滞在を延長してベルンとルツェルンを観光した。アインシュタインが、学校での成績が悪かったというのは良くある後世のつくり話だったらしく、ベルン市にあるアインシュタイン博物館で展示されていた成績表の説明をしてくれた管理人さんによれば、普通にいい成績だったそうだ。但しいわゆるパーフェクトな成績表ではなかった。東大生でも、どの教科や習い事も驚異的にできる万能タイプと、一芸に秀でているタイプがいた。もっとも、一芸に秀でているといっても、他のこともそれなりにはできるわけである。アインシュタインは学校の生徒としては、後者タイプだったのかもしれない。  ルツェルンはメルヘンな街並みに、たくさんの白鳥が漂っている川に趣のある橋がかかっていて、私がこれまで訪れた街の中で最も気に入った街の一つになった。ルツェルンにもワーグナーの旧邸宅があり、そこには私が最も影響を受けた人物の一人であるフランツ・リストに関わる展示物が多く残されていた。次はルツェルン音楽祭の時期に滞在したいものだ。 ドイツやスイスのドイツ語圏を旅していると、ナチスの宣伝に利用されたとはいえ、ワーグナーのドイツ文化圏に与えた影響が非常に大きかったことを感じることがある。一方で、アインシュタインはユダヤ人であり、後年米国に渡ったという事情もあるが、その全人類に与えた影響の大きさに比べ、その足跡は殆ど残っていない。一般社会と科学者との距離が遠いからなのか。ワーグナーの音楽を聴いて感動する一般市民は大勢いるが、アインシュタインの論文を読んで感動する人は、少なくとも私は出会ったことがない。

2008年8月 Ecole Normal Superieurパリ校

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  かつては毎年数十人しか入学できなかったフランス最難関大学、高等師範学校パリ校(ENS)がrue d'Ulm(ユルム通り)にある。その道向かいにキュリー研究所の建物が並んでいる。いつもデジュネ(ランチ)はENSの学食で食べ、ここで外国人用フランス語講座に参加している。また、この学校の地下の体育館で時々同僚たちとバスケットボールを楽しんでいた。フランスの高等師範学校、通称ENSは、現在では4,5校に増えたようで、パリ校は文学系の学科を主としているようだ。  ENSの学生は、日本人の感覚でいえば、東大生の中で優秀な方から一割だけを集めたような超秀才達である。グランゼコール(フランスのトップ校)出身のフランス人の友人も、rue d'Ulmを歩いている奴らは宇宙人みたいに頭がいい、といっていた。19世紀の小説にも時々登場する。ちょうどその頃、ロマン・ロラン著の「ベートーベンの生涯」を読んでいた。彼もENSパリ校出身だそうだ。彼もこの辺りをうろついていたのだろう。ちょっと想像してみた。  キュリー研究所の我々の研究室の1分子グループメンバーは、上は教授から下はインターンの学部生まで、フランス人はみなENSの卒業生だった。イタリア人と日本人メンバーも、それぞれ母国で最難関大学を卒業していた。いわゆるエリート、秀才ばかりを集めることが、研究グループを組織する上で最良の方法なのかはともかくとして、優秀な人材は企業やビジネス業界に流れる昨今の日本や米国の情勢の中、研究者をしている限り、ここまで優秀な同僚に囲まれて仕事をする機会は、先にも後にもないだろう。

2008年8月7日キュリー博物館

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 高校以来の友人が観光でパリに立ち寄ってくれたため、昼の出勤中は一人でルーブル美術館を観光してもらい、夕方キュリー研究所付属のキュリー博物館に案内した。  この頃は既に、この博物館に案内した知人、友人、来訪者は百人を超えていたかもしれない。ちょうどタイミングの良いことに、日頃大変親しくさせて頂いている技官のパトリック・スーシェットさんが受けつけのお兄さんと雑談をしていた。企業で働いている工学博士の友人を紹介したところ、わざわざ日本から来たのだからということで、見物客は立ち入り禁止となっているキュリー夫人の実験室と書斎に入れていただき、展示されている当時キュリー夫人が使っていた実験器具をいじりながら、それぞれの装置についてや、キュリー夫人について、楽しそうに説明してくれた。こんなに貴重なキュリー夫人の遺品を、さも自分で使っている実験器具であるかのようにいじっているスーシェット氏を見ながら、キュリー一家の栄光の日々と今に生きる我々キュリー研職員、人類史上の偉人と一介の無名研究者である自分の距離が、この場所ではとても近いことを改めて気付かされた。

2008年7月29~8月4日ニース音楽アカデミー2週目

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フィリップ・アントルモンのクラスが始まった。戦後にアメリカで大ブレークした歴史的大ピアニストで、マルグリッド・ロン最後の弟子の一人である。  アントルモンなるピアニストの名前については、もはや歴史的大ピアニストという印象が強く、この講習会に申し込む際、講師リストで彼の名前を見た時、まだ彼が生きていたこと、また指導者として現役であったことに驚いてしまった程だった。フランスのピアノ界に、アルフレット・コルトーやピエール・サンカン(ギャルドン先生や岩崎セツ子氏の先生)が外国、特にドイツ系ピアニズムの奏法を、前者は主に演奏者として、後者は主に指導者として、フランス系ピアニズムと融合して広める前の、19世紀から続くフランスの伝統的な「真珠のネックレス」と呼ばれるピアニズムの大家の最後の生き残りだと、素人の知見ながら私は認識している。この講習会の直後、オリンピックで演奏するために北京に向かったことからも窺い知れる通り、現在もなお世界を代表するピアニストの一人である。  彼のクラスは終始英語で行われた。生徒は、レイフ・オヴェ・アンスネス(ノルウェーの国民的大ピアニスト)に師事することが決まっていたノルウェー人、ポーランドから母親と共に来ていた少女、香港人生まれのアメリカ人に、日本人4人だった。この時、付き人兼生徒として参加していた、既に華々しい演奏活動を始めていた才能あふれるピアニスト、戸室玄氏と出会った。初めにフランス語が分かる人はいるかと生徒に向かって問い、日本人男子3人が挙手した時、”Bravo Japonais !”(日本人ブラボー!)と満足げに言い放った。  一方で彼の人間性については、フランス人芸術家ののんきで自由な面がもろに言動に表に現れるタイプであり、終始生徒や関係者を困らせることが多かった。この講習会でも、彼が音楽院に現れたのはその週が始まって2日目だった。初日、まず生徒が全員集められ、「何か1曲ずつ弾くように。あまり長い曲にしないように。」との指示で、生徒がいきなり何の準備もできない状況で一曲ずつ演奏させられた。彼のクラスを受講するたけの準備と心構えのない生徒を断るためのテストだったのだろう。ヨーロッパのハイレベルな講習会では、クラスの始まる前にオーディションがあり、受講する生徒を選抜するのが通例である。高校時代に鹿児島で、鹿児島音楽界の重鎮で

2008年7月21~28日ニース音楽アカデミー1週目

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  二度目のフランス滞在は、研究を進めるという本業の面でも、ピアノを学ぶと趣味の面でも、更には学会や観光でヨーロッパ中をより自由に行き来しできたという面においても、一度目の滞在に比べ、更に充実し、かつ様々な意味で、ワンランク高いレベルでの活動が可能になっていた。  自由に使える研究費の額も多く、助けてくれる知人・友人もそれなりにいて、パリやフランス社会に慣れていたことも大きかったが、なによりもドクターの称号と、少しばかり使えるようになったフランス語を持っていた。殊にピアノに関しては、私の人生で最も練習をし、多くのレッスンを受け、音大のディプロムを取得し、一流のピアニスト達から学び、また彼らに学ぶ将来の世界的音楽家達と20代という多感な時期に親交を深めることができた。そんな音楽的にも充実した1年半に及んだ2度目の滞在においても、私のピアノにとっての最大のイベントは、やはりプロの面々に混ざって音楽を学ぶ夏の講習会だった。2度目の渡仏が決まり、その準備を東京で始めていた時に、既に2008年夏の講習会の申し込みが始まっていた。2006年の夏は、ニース音楽院の講習会に参加したため、当初は別の講習会に参加しようと思い、キュリー一家の別荘もあったリゾート地クールシュベルで行われる講習会に参加する予定だった。一旦申し込みはしたが、ギャルドン先生を通さずに申し込んだため、主催者であるパスカル・ドヴァイオン先生から、ギャルドン先生のクラスはもう一杯だと返事が返ってきた。ギャルドン先生に頼み込む手もあったが、先生と電子メールでやりとりしている中、先生からニースに来るようにとおっしゃったため、この夏もニースの講習会に参加することになったのである。クールシュヴェルの講習会に参加していれば、それなりの学び、経験と出会いがあったのであろうが、ニースでのそれらがあまりにも濃密、刺激的であり、ある意味衝撃的でもあったことを思うと、この年ニースに行ったことは、その後のパリ生活と残り少なかったピアノ人生に計り知れない影響を与えることになった。  2年前に参加した時は、もう来ることはないと思っていた国立地方音楽院ニース校(CNR)は、その前年に新しく立派な校舎と寮が完成しており、今回はそこで参加した訳であるが、2年前に滞在した伝統的な建築と古き良きフランスの雰囲気を醸し出し、ギャルドン先生や

2008年7月18, 19日

 平日はひたすら実験の日々が続いていたこともあり、週末オックスフォードにショートステイ中だった若い友人が、パリに遊びに来てくれて一緒に観光したことは、とても良い息抜きになった。  キュリー研とその周辺界隈を案内し、キュリー研のカフェでコーヒーを飲んだ。キュリー研の近所にあるので、毎日眺めてはいるがまだ内部を見学したことのないパンテオンの地下に入った。ここにはフランスに多大な功績のあった偉人の遺体を集めて安置している。ここに初めて入り、キュリー夫妻と大好きなヴィクトル・ユゴーのお墓参りをした。  翌日、その友人とパリ散策にでかけ、モンマルトルに立ち寄った。いつもは素通りしていた、モンマルトルの若手画家が所狭しと陣取っている小さな広場に入った時、ふと妙に懐かしい気がした。5歳くらいの頃、家族とここに来た覚えがある。その時の光景が脳裏に浮かんだのだ。この道の、この角度からの風景、一枚のスナップショットだけ、明瞭に記憶に刻まれていた。あれからもうすぐ四半世紀。米国ボストン郊外のベルモントに家族で住んでいた幼少期、家族でヨーロッパ一周旅行をした際、イベリア半島を除く西側諸国の主要都市と観光地を回った。その時の光景が、幼い頃の記憶として、パリや他国の主要スポットを再訪問した時々、記憶の書庫から静止画としてよみがえり、目の前の光景と照らしあわされることが度々あった。パリはその書庫に最も多くの情景が収められている街であり、パリ滞在中にこのような郷愁を誘うフラッシュバックはしばしばだった。  この晩は彼と、国際学園都市の中庭でパリの初夏の乾燥した心地よい夜風の中で、パリのワインと沖縄の泡盛を楽しみながら、互いの将来の夢や、フランスの格差社会、いかに日本が素晴らしい国であるかなど、様々な話題について語り合い、イギリス館の小生の部屋で夜を明かした。短い時間だったが、パリを楽しんでもらえたようで、案内した側も満足感があった。彼とは、この時から最も大事な友人の一人となり、帰国後東京で相当な量の日本酒や焼酎を一緒に飲むことになった。

2008年7月14日独立記念日

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  休日だが、午後キュリーへ実験の準備に行ったら、それなりの人数が働いていた。研究者は勤勉である。晩9時過ぎにトロカデロ広場で友人達と集まり、ワインを飲みながら、エッフェル塔と重なる花火を見た。2年前より花火が豪華になっていた感じをうけた。しかも今年は音楽つきだった。フィガロの結婚など、オペラ曲が流れていた。来年もここで花火をみているのだろうか。そうだとしたらどのような仲間とであろう。そのようなことを考えながら、人ごみの中でぼんやりと花火を見ていた。次々とキャラの濃い登場人物が現れては去っていくパリのコミュニティは一瞬先が予測不能であり、それが常に刺激をもたらしてくれる。

2008年7月9日イタリア語

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 今回の滞在で、キュリー研で私に割り当てられた机の両隣はイタリア人の同僚だった。キュリー研内の我々の研究グループでは、フランス語の次にイタリア語が公用語となっていた。「コメバ?」(調子はどう?) 「ベーネ!」(好調!) で一日が始まる。これらイタリア人だけでなく欧米文化圏で共通する一日の始めに交わす会話を、日本ではどういうのかと彼らに問われ、とっさに出てきたのが「どうよ?」「まあまあ」だった。日本では「絶好調」とは言わず、まずまずだというのが普通だという日本人の慣習を、国際感覚豊かな彼らは興味をもって理解してくれた。欧米、殊にフランスでは、庶民の黄色人種に対する強い偏見と侮蔑とは対極的に、上流やエリート達の日本人と日本文化に対する敬意と理解は相当なものだと聞いていた。控えめに表現するとか、意思表示をあまりしないなど、日本特有の文化に彼らはもともと理解と興味があったようだ。  机に座ると、窓からピエール・マリーキュリー通りに立ち並ぶ美しいアパルトメントが見え、近所に住む日本人ピアニストの菅氏の家からは、練習かレッスンか、程よく心地よい音量でしばしばピアノの音が聞こえてきた。菅氏に師事していたピアニストの知人もいたため、この音、このタッチは誰々さんのピアノかな、など、仕事の合間にピアノが頭をよぎることもあった。 (写真:机からみえたピエール&マリー・キュリー街)

2008年7月2日ショパン@オランジェリー

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  今春から再びキュリーに戻っていた。前回パリを去った後、東京で1年数カ月を過ごし、その間に博士号審査なる儀式を済ませていた。そのため、研究者としては特段何かが変わったという実感はなかったが、今回は「博士」の称号を得ての渡欧だった。ほんの1,2年前までは、博士課程終了後は、米国系コンサルティング会社に新卒入社するか、米国ボストンに渡るかを想定していたが、この頃は何の迷いもなく、再度キュリー研に戻っていた。  第一の目的は、前回の滞在で仕上げきれなかった仕事を完遂し、論文にまとめるためである。前回の滞在で特に目立った成果を出さず、無難に過ごして帰国していたら、想定通りビジネス界へ転職か米国に渡るかの二択だっただろう。幸か不幸か、フランスに戻らなければならない研究者としての事情があり、それを放り出して人生ゲームの駒を出世する、又はよい待遇を享受できる方向に進めることに目が向いていなかったのである。この時の私の選択に対し、その研究者根性を評価するか、キャリアを止める「賢くない」選択としてみるか、周りの反応は人それぞれだった。今思い返せば、大半の関係者は後者だったように思われるが、私はこの選択を生涯後悔することはないだろう。  今回の住まいも、はじめの1カ月間は国際大学都市(Cité Internationale Universitaire de Paris)に滞在しながら、楽器の弾ける部屋をパリ市内に探した。今回は指揮者の小沢征爾氏も住んでいたフランコ=ブリタニック館(イギリス館)に入っていた。  この日の夕方、ギャルドン先生門下の友人とショパンの連続演奏会”Chopin en miroir, avec un Hommage aux jardins de Bagatelle”シリーズのマルク=アンドレ・アムラン氏の演奏会を聴くため、ブローニュの森にあるバガテル公園のオランジェリー庭園にむかった。このシリーズでは、世界的なピアニスト達がそれぞれショパンの作品を含んだプログラムでリサイタルを行っていて、先月が当演奏会シリーズのギャルドン先生の演奏会があったため、門下生一同で応援に行ったばかりだった。アムラン氏の次は広瀬悦子氏。  アムラン氏の演奏を聴くのもお会いしたのも8年ぶりだった。髪もかなり薄くなっていて、初めにステージに現れた際は別人かと思っ

2007年7月22日 本郷にて

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 東京帝国大学教授でもあった夏目漱石の「三四郎」を読んだ。明治時代、田舎から出てきた研究者のことが書いてあり、面白かった。 三四郎の定義によれば、 第一の世界=地元:「いつでも戻れるし戻りたいけど戻らない。」 第二の世界=研究の世界:「皆身なりは必ず汚く貧乏。」「この世界にいるものは(華の)現世をしらないから不幸で、迫ってくる運命に気づかないで戯れている子供だから幸いである。」 第三の世界=華の現世:「銀さじがあり歓声があり笑語がありシャンパンがあり美しい女性がいる。」 であり、三四郎にとって 第一の世界:「逃げ場のようなもの」。 第二の世界:「いつでも出られるが、せっかく理解しかけた趣味を思い切って捨てるのも残念」 第三の世界:「目と鼻の先にあるが近づき難い」「自分がこの世界に入らなければいけないし入れると思うが、自由に出入りすることができない(=行ったら戻ってこられない)」 らしい。専門家ではないので解釈が多少間違っているかもしれないが、100年前の研究者も、我々と何も変わらないようだ。 但し、彼のようにそれに気づいている人がどれだけいるだろうか。また、気づいている人は第二の世界では生き残れないのかもしれない。  彼の考えた解決策は「第一の世界の代表として親を呼び寄せ、第三の世界の代表としてそういう妻をめとり、第二の世界で身を立てる。」である。都合が良すぎる話ではある。