投稿

9月, 2013の投稿を表示しています

2009年2月8日Lagny国際コンクール

イメージ
続く日曜は、パリ郊外に位置するラニー=シュル=マルヌ市(正確には小群)で開かれた国際コンクールに、モスクワ音楽院に留学中の友達が出演されるので応援にかけつけた。当初は早めに現地入りし、少し観光をしてからコンクールを聴こうと思っていたが、この日は早朝同僚とバスケットボールの日で、その後に疲れて仮眠をとってしまった。そのため、現地への到着が大幅に遅れてしまい、コンクールは最後の5人しか聴くことができなかったが、幸い友人の出番には間に合った。 このコンクールの審査委員にも、ギャルドン先生が名を連ねていたことを、出演する友人からの「新田さんの先生が審査委員にいらっしゃるみたいです」との連絡で前もってしっていた。フランスのみならず、主要国際コンクールのほぼすべての審査委員を経験されているといっても過言でないギャルドン先生であるが、審査員席に座っている見慣れた後ろ姿を見ていると、威厳とともに親しみが沸いてきた。そのギャルドン先生は、ある意味面倒見がよく、自身の生徒の結果について毎回かなり神経を使われる。  この日も、結果が発表されるまではピリピリしている様子が伝わってきたので、結果がでるまでは顔を合わせないように挨拶を避けていた。結果が発表された時、残念ながらモスクワから参加していた親友の入賞は見届けられなかったが、ギャルドン先生の生徒さんでもある友達のエリック・アルツ君が優勝した。これで先生のご機嫌は一気によくなり、こちらが気づく前に先生の方から「元気か?!」と声をかけてくれて、にこにこエリック君と歩いていった。  また会場から駅への帰り路、前年4月に沖縄のシュガーホールで、日仏交流150年記念演奏会に一緒に出演して沖縄観光にも案内した、ギャルドン先生門下のフランス人Jさんとばったり遭遇した。彼女もこのコンクールを受けていたらしい。帰りの電車でも、沖縄での思い出や、共通の友達の話で盛り上がった。数年後、鈴木隆太郎氏がロン=ティボー国際コンクールに出演した時の会場でも遭遇した。

2009年2月7日日本文化会館

イメージ
  土曜の午後、キュリー研に行ったところ、ジュッシュー(Jussieu)のパリ6大学から出発し、ENSとキュリー研前のユルム通りを通り、パンテオン広場に向かっているデモ隊に遭遇した。デモ隊には研究者だけでなく若い学生も多く、Superieur系大学(=各分野のトップ大学)を壊す政策に反対というのが主な主張だったと同僚が説明してくれた。サルコジ大統領就任以来、フランス各地で学者や研究者のデモが続いている。  科学技術立国を自称している日本で、研究者や技術者がデモやストライキをしてみたらどうだろうか。一瞬で産業がストップし、理系人材の大切さを社会が認識できるのではないか。もっとも、認識したところで彼らへの待遇が良くなる方向に動くことは日本の文系優位社会ではありえないと思われるが。  夏以降、ニース音楽院夏期講習のフィリップ・アントルモン先生のクラスで出会ったピアニストの鈴木隆太郎氏、戸室玄氏と共に「三人会」を結成していた。この日の夕方、パリの日本文化会館で、メンバーの戸室玄氏が出演する演奏会に行ってきた。先日友達の誕生会で会ったばかりの日本人ピアニストも一緒に出演していた。戸室玄氏の演奏は、ニースのクラスでアントルモン先生にいじられているところしか聴いたことがなく、ステージでの演奏を聴いたのは初めてだった。日本人離れした音色と流れと歌が何とも言えない妖艶な美しさを醸し出していて、とても若者の音楽とは思えないほど素晴らしかった。いつもはどのピアニストに対しても、厳しい批評を下し、音楽家の演奏について褒めることが滅多にない辛口批評家の鈴木隆太郎氏も、もさすがにその素晴らしい演奏にびっくりして、よい刺激をうけたようだった。

2009年1月30日サルコジ批判

サルコジ大統領は、フランスでおそらく初めてのエリート出身でない大統領のようだ。詳しいことはわからないが、エリート社会を壊しにかかっているような雰囲気があり、同僚から聞いた話によれば、フランスの研究機関や大学を壊して平坦にしようと企てているそうだ。中でも優秀な研究者が、賃金は低いが、言葉通りの自由な活動が保証される(7年間職場に現れなかったらクビになった人がいたという噂を聞いたことがある。つまり7年間はこなくても大丈夫?)フランス国立科学研究センター(CNRS)の定年制研究員制度は真っ先に潰したがっているそうだ。  サルコジ大統領のこれらの政策に、我らが大ボス、ヴィオヴィ先生がお怒りのようで、メーリングリストに頻繁に長いご意見と、サルコジの演説サイトのURLをつけたメールを送ってきていた。この頃からしばらくの間、先生の発言は政治マターが9割、研究マターが1割というありさまだった。「彼はretournement semantique(むちゃくちゃにする?)の天才で、彼の天才は今、我々研究者を攻撃している」「競争を勝ち抜いてきた人や競争に備えて準備している人たちへの侮辱だ」など、素直な意見が多く、自分の意見を述べやすい社会であること、学者(ここでは研究者はオタクではなく、学者なのである!)や文化人達が、少なくとも今までは大事にされてきたことが伺え、フランスが文化大国であることを改めて実感した。

2009年1月24日土曜餃子パーティー@ベルビルの自宅

 この日は朝から部屋を掃除し、フェット(fete:ホームパーティー)の準備をした。午後遅めにピアニストのお友達が一番乗りで準備の手伝いにきてくれたので、一緒に買出しに行き、二人で餃子を作り始めた。サックス奏者とフルーティストの友達が加わり、ピアニストがさらに一名加わった。  日本では、そもそも家の広さが狭いためか、飲み会といえば居酒屋で行うことが多い。一方で、欧米ではホームパーティーが盛んで、自宅を友人達に開放し、自分の生活空間を見せることにより、親交を深めることが一般的である。その日も色々なメンバーが加わったり帰ったりしているうちに、きが付いたら朝になっていた。自宅を開放しての餃子パーティーは、十分に友人たちへおもてなしできたかなと思う。ここで出会った2人が後日カップルになって結婚にまで至ったことを考えると、ホストとしてそれなりに成功だったと思う。  翌日は起きるのが遅かったため、また演奏会開始の時間を勘違いしていたため、チケットを購入済みで、大変楽しみにしていたマウリツィオ・ポリーニのピアノリサイタルを聴き逃してしまった。次にポリーニ氏の演奏を聴くのは、翌年ボストンに赴任した時になった。

2009年1月21日第1回キュリー研究所・パスツール研究所細胞分子生物学セミナー

 キュリー研とパスツール研はもっと協力するべきだというコンセプトのもと、パスツール研究所120年記念の年に開かれた第1回キュリー研究所・パスツール研究所細胞分子生物学合同セミナーに参加した。  パスツール研究所訪問するのは2年ぶりだった。キュリー研の同僚で少年時代、剣道で全仏2位の実績を残した筋肉質のギヨーム君(ちなみに1位は彼の弟だった)と研究所内を散策した。建物全般を見るだけでも、キュリー研との圧倒的な経済格差を感じた。もともと物理学者を主体とするキュリー研究所と、医者・生物学者を主体とするパスツール研究所では、流れ込む資金の桁がそもそも違うのだろう。ちょうど物理学者と医者の給料の違いのような感じである。   ヨーロッパでは、優秀な学者であれば収入が多くなくても、社会的な尊敬と威厳を享受できるので、優秀な人が収入の高い職業に流れる潮流は日米程ではないらしい。  発表者の共同研究者の中にC. ランジュバンさんという女性の方がいらした。もしかしてキュリー夫人女系4代目かと思ったが、未だに確認はとれていない。  キュリー夫人の女系3代に渡る物理学者は次の通りである。 初代:マリー・キュリー=スクロドフスカ(P.キュリーと結婚) 2代目:イレーヌ・ジョリオ=キュリー(F.ジョリオと結婚) 3代目:イレーヌ・ジョリオ=ランジュヴァン(P.ランジュバンの息子と結婚)

2008年1月18日誕生日の演奏会

 前日はパリ郊外、ナポレオンとジョセフィーヌの居城であったマルメゾン城を貸し切り、現在の城主さんのご好意と親友のお誘いで、パリ在住音楽仲間の送別会兼誕生パーティーに参加していた。ジョセフィーヌの別荘として使われていた時代から残るオーブン等をみせて頂き、暖炉のある大広間で、調整はされていないが、プレイエルのピアノをピアノ弾き達が代わる代わる演奏し、他は各自の楽器を演奏する、何とも贅沢でにぎやかなパーティーだった。  対照的に翌日の自分の誕生日は一人おとなしく過ごした。15の誕生日を迎えた時、二度と戻らぬ幸せだった沖縄での幼少時代を思い出し、郷愁に更けていた。それ以降、毎年誕生日を迎えるたびに、人生を振り返り、郷愁に浸る癖が私にはあった。まだ20代であった私にとって、30を迎えた時程のショックはなかったが、「ながらえばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき(藤原清輔)」を暗唱し、予想以上に日々の生活を充実させてしまった事も原因の一つであったのか、肉体的にも精神的にもあまりにも負担が大きく厳しかったパリでの生活を、使命を果たし無事乗り切ることを誓った。  その日はたまたま、シャンゼリゼ劇場でエフゲニー・キーシンがソロリサイタルを開いていた。彼のピアノソロを演奏会場で聴いたのは10年程前に東京で、まだピアノの事をあまり専門的には知らなかった頃以来だった。演奏の細かい部分どこを切り出しても「巧い」と「面白い」が伝わってくるような魅力を感じた。彼の演奏については、録音を聴いた時の感想と同じく、普通の人間とはやや違う思考をもっている印象を受けた。年とともに人間として成長する部分が成長していないと、誰かが批評していたのも納得するが、とにかく圧巻で楽しいから、素晴らしいのである。アンコールの時は2階席から花びらが散り、マダムがステージにブーケを投げ、...le Roi !(よく聞こえなかったが、おそらく「お前は〇〇の王だ!」のようなニュアンスだった)と叫ぶムッシュもいた。ここまで盛り上がったクラシック音楽のライブは初めてだった。 

2008年12月15日キュリー夫妻の墓参りで湯浅先生が読んだ詩

イメージ
 現在はフランスの偉人達が眠るパンテオン地下にいらっしゃるキュリー夫妻も、当時はソー (Sceaux) にあるキュリー家のお墓にいらした。   Les cimetieres de Sceaux   Cimetieres de Sceaux si fleuris, Que tu es luxe, aujourd'hui! La lumiere, le bonheur que tu as! Mais, sais-tu? Pourquoi es-tu luxe?   Tant d'envie que j'en ai. Mme. Pierre-Curie y dort. Sans ornement, sans les fleurs. Mais, sait-tu? Comment sa vie etait luxe?   Tant d'envie que j'en ai. Mme. Curie a vecu, avec l'amour, avec le radium si eminants. フランス語の詩とともに和歌も詠み、一緒に絵まで添えられている。先生の日記からはその多才ぶりが伺われる。教養が深く多才な素質は、研究者の仕事とは相反することが多く、それに葛藤し続けた人生が垣間見られる。キュリー研の入り口を毎朝だらだらとくぐっていたが、戦前湯浅先生がこの門で何度も門前払いされた(結局はコレジ・ド・フランスのジョリオ先生の所に入った)と知ると明日からありがたみをもって通えそうだ。

2008年12月5日ジョージ・ベンジャミンとベンジャミン・ブリテン

イメージ
作曲家、指揮者、ピアニストのジョージ・ベンジャミンとベンジャミン・ブリテン、どちらもブリテン島出身。よく混同する。ジョージ・ベンジャミン指揮で、本人の楽曲とオリヴィエ・メシアンのプログラムを聴いた。  ベンジャミン氏は、よくベンジャミン・ブリテンと混同していたためか、歴史的人物という認識があったため、その若さに驚いた。サル・プレイエルで当日券を買うために並んでいると、品のあるマダムから余っていた招待券を頂き、なんと無料で入場できた。ピアニストはフランス人のピエール=ローラン・エマール氏。頭で演奏するタイプの彼の演奏は、恐ろしいほど完璧だった。  ライブ演奏での臨場感や空気感、音色の美しさや多彩さも魅力とする、古典やロマン派を弾くいわゆるクラシック音楽のピアニスト達は、実際にライブで聴いた時の魅力や素晴らしさが録音では伝わりにくいことが多い。一方で、その完璧に練られて再現される演奏ゆえに、彼はその魅力が録音でも伝わりやすいタイプの演奏家だと感じた。音は常に澄んでいて、曲の大きな構成から、リズムやアーティキュレーションは完璧で、天才的な頭脳をもっていることに疑いようがない演奏だった。

2008年12月3日ギャルドン先生レッスン

イメージ
 いつもの通り地下鉄Liege駅から、先生のご自宅へ向かった。今日はフランツ・リスト作曲の「誌的で宗教的な調べ」から「祈り」と、伊藤康英氏作曲の「ぐるりよざ」ピアノ独奏版を聴いて頂いた。リストは昔から弾きこんでいた曲であったので、今年初めて「ブラボー!」と褒められた。後者は練習が進んでいなかったので正直にそう申し出て、テクニカル面をご指導頂いた。  「ぐるりよざ」という曲を大変気に入ったようで、レッスン中に2度ほど「コンクールにいい曲だ」とつぶやいておられた。先生の門下生から、ロン=ティボー国際コンクールの優勝者が出たほど、生徒をコンクールで成功させる教育手腕で世界的に高名な先生だけに、コンクールで有利になる新曲には常に興味をもっておられたようだ。  その日は先生のご機嫌もよく、私のピアノを応援して頂き、今後勉強するにふさわしいお薦めの曲もいくつか頂いた。人生であと何回ここを訪れることができるだろうか。先生からは、音楽を通して一流の価値観、品格、感性や精神面を磨いて頂ける、この類まれなるご指導を通じ、本物や一流を見抜く力、ひいては物事の本質や一番大切の部分を見抜く感性を磨いて頂いたと思う。この貴重な体験を、一度でも多く受けられることを願う。

2008年11月30日Palais de la decouverte

イメージ
直訳すると「発見の宮殿」。 アルフレッド・ノーベルの特別展の企画でフランス人のノーベル賞受賞者5人の講演シリーズがあった。この日は、数年後ドイツのリンダウでお目にかかることになるジャン=マリー・レーン教授(1987年ノーベル化学賞)の講演。一般向けの講演だったので、宇宙の歴史や科学の歴史から入り、歴史上の人物を紹介したり、逆に我々科学者は普段の研究活動を通じてあまり聞く事のできない、興味深い講演だった。その中に美術や文化思想を巧みに織り交ぜながら話を進めていく講演から、博士の、ひいてはフランス科学者の、オタクではない教養と文化レベルの高い学者魂を感じた。最後はイヴの有名な絵をお見せになり、「イヴが実を食べた時が科学の始まりだ。最初の科学者は女性だった」とのウィットに富むジョークで締めくくった。  Palais de la decouverteの建物はその名の通り宮殿で、美術館、博物館と一緒に科学博物館が常設されている。まるでギリシャ神殿のようなアンティークな建物に、最新の科学技術に関する展示を入れているところがとてもフランスらしい。その昔、フレデリック・ジョリオ=キュリー先生が、「人間は芸術と科学、両方が平衡をたもっていないといけない」と述べられたが、それがもはや不可能であると思われるほど専門が細分化した現代において、その精神を無理やりにでも、どうにか見える形で表そうともがいているような印象をうけた。 そのフレデリック・ジョリオ=キュリー先生がルーブル美術館を借り切って学会を開催した際、研究者達が展示物である大盃盤を灰皿につかったり、石像の胸にパラをさしたり気軽に古代彫刻に触れているのをみて、湯浅博士が「科学と芸術の融合」「大変興味深い」と述べられていたのを思い出した。

2008年11月27日グレゴリー・ソコロフ@シャンゼリゼ劇場

 音楽家の知人達から、是非聴くようにと薦められていたピアニスト、グレゴリー・ソコロフの演奏を初めて聴いた。一時期は毎週のように通っていたシャンゼリゼ劇場に足を運ぶのは久しぶりだった。プログラムはモーツァルトとベートーヴェンの、ややマイナーなソナタが中心だった。彼の弾き方は、腕と手が大きく上下するもので、一見弾きにくそうに見えるが、全くピアノに負荷のかかっていないかのような美しい音色がとても自然に紡ぎ出され、演奏を聴こうと意識せずとも、会場に身を置いているだけで自然に聴き入ってしまう演奏だった。  しばらく聞いていると、ピアニストの存在が消え、ピアノが勝手に演奏しているような、大きなふたの開いた箱から音が自然にあふれ出ているような錯覚を受けた。ピアノに極限まで負担がかからないない時、このような音がでるのだろうか。もっと彼の演奏を聴ける機会があることを祈る。

2008年11月24日湯浅年子シンポジウム

イメージ
  本人初の女性博士の弟子がキュリー研にいたという噂は以前からちらほら聞いたことがあった。正確にはフレデリック・ジョリオ=キュリー博士の弟子で、所属はコレジュ・ド・フランス。キュリー研究所には入所はかなわなかったそうである。今年は日仏交流150年。ENSで記念行事に湯浅年子シンポジウムを開催するというポスターを見たので興味本位で参加してみた。日本人初女性博士は保井先生(生物学)で、その現お茶大での生徒が湯浅先生(物理学)だったようだ。講演にはジョリオ=キュリー夫妻の娘でいらっしゃるマダム・ランジュヴァン=ジョリオ先生(キュリー夫人女系3代目孫)もいらしていた。  ここ最近、この機会にと湯浅先生の著書を購入して読んでいると、50年前も変わらないパリやパリ市民の様子、特にキュリー研の現在も同じ建物で繰り広げられる研究者達の営みの変わらないことに、時間的な距離を感じず、とても親近感を感じた。「研究がしたいという発言がなによりも権威をもつ」や、「自由な環境に魂が開放される」など、自分が感激、共感する、日本では体験することのできない感覚が今も昔も、ここにはあった。  「パリ随想」などは特に研究の話を書いているわけではないので、近年パリに住んだことのある人なら誰でも共感をもって読むことができると思う。ロダン美術館の話や、ブローニュの森のバガテル庭園(ちょうど先週末訪れたばかり)にいった時の感想など、長年変わらないパリの魅力を確認することができる。湯浅先生は芸術音楽にもご興味があり、仕事帰りにシャンゼリゼ劇場でジャック・ティボーの演奏会にいかれた時の話が書かれてあったが、私は先日ティボーの伴奏をしていたチッコリーニの演奏会に行ってきた。湯浅先生も同じような生活をしていたようだ。  フランス語の詩とともに和歌も詠み、自著には一緒に絵まで添えられている。先生の日記からはその多才ぶりが伺われる。教養が深く多才な素質は、研究者の仕事とは相反することが多く、それに葛藤し続けた人生が垣間見られる。それでもやはり、当時はまだまだ精神的に貴族的で優雅だった研究業界の文化と、現在我々の国際的な競争にさらされ、ビジネス化しているそれとの違いは大きく、古きよき時代というのが実際にあった事を再確認させられた。  ピエール・キュリーの言葉「たとえ魂の抜けた体になってしまっても、研

2008年11月21日フルイジェン

イメージ
  キュリー研での大ボス、ヴィオヴィ先生が数年前に立ち上げたベンチャー企業Fluigentを初めて訪れた。ヴィオヴィ先生にとっては50代になってからの初ベンチャーである。いつもながらそのバイタリティーの凄さには敬服する。おかげで更に忙しくなり、議論をするために先生を捕まえることが更に難しくなった。自分は直接この会社に関わってはいないが、日本の類似特許や製品仕様を(公開されているものに限り)ヴィオヴィ先生からの頼みで訳、解説をしてあげたりしていたので、無償の貢献をしていたことになるのだろうか。  先日研究所内パーティーでお会いしたFluigentの経営責任者を務めるニコラさんに電話をし、たまたまお互いの時間があったので、この日訪れることになった。その時のパーティーで、特許戦略など、ベンチャー企業の経営についての話しを聞かせてくれたニコラさんが社内を案内してくれた。ベンチャー企業なのでかなり小さな部屋で、少人数で製品の作製と会社の運営をしていた。

2008年11月6日秋のキュリー研

イメージ
キュリー研究所の中庭は、四季折々の趣を見せてくれる。秋の中庭は、一世紀ものあいだ途切れることなく、ここで繰り広げられてきた研究者達の会話、営みへのノスタルジーを感じさせてくれる。

2008年11月3日高等師範学校パリ校での無料コンサート

高等師範学校(ENS)パリ校でフランス語の授業を受けた帰りに偶然目に入ったHistoire et Theorie des Arts(芸術学部)主催の演奏会に、その時の気分でふらっと寄ってきた。ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグとロシアの作曲家メトネルのヴァイオリンソナタがその日のプログラムだった。これらの曲目は、よほど優秀な演奏者でない限り退屈になってしまうので、夜遅い時間でもあり、はじめはあまり期待せずにいたが、行って正解だった。  演奏者は若手フランス人達で、ヴァイオリン奏者のRoussevさんはCNSMD(コンセルヴァトワールパリ校)のジャン=ジャック・カントロフ先生のクラスを卒業し、ロン・ティボーコンクールに入賞した実力派。ピアノのD'Oria-Nicolasさんはロシアで研鑽を積んだそうで、風貌もロシア人ぽく十分に脂肪とヒゲを蓄え、ラザール・ベルマンを彷彿させる体格と風貌だった。二人の演奏レベルは非常に高かった。頭にアンテナがついた宇宙人のような秀才しか入れないとも言われるENSでの演奏会なので、さすがに客層も若者はオタク系の学生が多く、その中に老齢の紳士淑女達が交じっていた。音楽の専門家でない私の感想であるが、この客層が聴衆として極めてハイレベルだったことが通常の演奏会とは一線を画していた。壁に過去に在籍していた偉人達の名が刻まれた石版で埋め尽くされ、偉い方々の胸像や彫刻がところ狭しと配置されている普通の教室で、奏者と聴衆の距離が近かったこともよかったのだろう。この時は、まるで聴衆が3人目の奏者として、トリオの演奏に参加していたような印象を受けた。 客席が演奏に反応していて、奏者もそれを感じ取りながら部屋全体で演奏しているような雰囲気の演奏会は、なかなか体験するチャンスはない。 さらにこの時は、たまにあるそういった演奏会とは全然違うレベルを感じた。一見聴衆の皆様は、ただ行儀よく座っているだけなのであるが、傾聴していてかつ理解して反応しているオーラが客席から湧き上がっていた。おそらく彼らは、単なる音楽オタクではなく、高い教養、知性と常識をもった、本物の音楽の聴き方を知っている知的階級なのだろう。なんとなくそんな感じがした。  大学で、こんなに凄い演奏会を気楽に、授業の帰りにちょっと立ち寄っただけで聴けてしまう環境は羨ましい。学食を

2008年10月30日ティム・ハント先生セミナー

イメージ
キュリー研究所ベルグ記念講堂でティム・ハント先生のセミナーがあった。彼はSir 、Prof.、 Dr.と、3つ以上の称号を持つ。ハント先生は、ナース先生と一緒に2001年ノーベル生医学賞を受賞している。今回はガンとの戦いを銘打っているキュリー研(正確にいうとキュリー病院)を意識してか、ガンや腫瘍をテーマに話された。とても話がお上手で、ウィットに富んだ皮肉や冗談を連発された。自分と専門分野が離れているため、話についていけなかったら途中で退席しようかと思っていたが、とても話が面白く、結局最後まで居残って聞いていた。しかし、結局何を話したか思い返すと、何も頭には残っていなかった。 同じセミナーを聴講していた、隣に机を構える理論物理学者のP君と感想を話し合ったところ、「彼は、結局ガンはファッキングな病気だということ以外何も言っていなかった」と一蹴した。地位や名誉のある人物であるかどうかを気にせず、物事の本質について自由に意見を交わせるここの研究環境と同僚達からは、いつも日本ではありえない素晴らしい体験と刺激をもらう。以前スウェーデンで行われた学会の招待講演で、江崎玲於奈先生と共にノーベル物理学賞を受賞し、生物物理の分野に移られたアイヴァー・ジェーバー教授が、「物理学者が60%といえばぴったり60%だが、生物学者が60%といえば、30%から90%のあたりの値を指す」と冗談を述べられていたのを思い出した。数学・物理系研究者にとって、生物系研究者の話は、時には全く、曖昧に聞こえるのだ。

2008年10月20日アルド・チッコリーニ@サル・プレイエル

 ルクセンブルグ・フィルハーモニー管弦楽団と、老大家アルド・チッコリーニのピアノによるサン・サーンスピアノ協奏曲5番を聴く機会に恵まれた。以前も同ピアニストによる同じプログラムを聴いたことがあったが、今日は最前列の右側、ピアノのすぐ側で聴くことができた。ピアノの底から音が聞こえてくる席である。ピアノから離れた位置の座席に座ると、ホールに響いた音を聴くことになるが、ピアノにここまで近づくと、ピアノの音が直接きこえる。会場に響く音より、ピアニストが出している音や息遣いが直接、生々しく聴こえてきた。  この時のチッコリーニ氏の演奏は、同じ演奏会に同席した多くのピアニスト達が口をそろえて称賛した通り、老齢になっても衰えない見事なテクニックと、芸術の高みを極めたとも思われる境地に達した音色と構築された音楽が見事に融合した、希代の名演だった。全ての音がそれぞれ意味をもって語りながら物語が進行しているような、単なる演奏技術を超越したテクニックだった。フランス人ピアニストから連想される(もっとも彼はイタリア人であるが)色彩豊かな音色というより、骨董品のような趣のある音で、打弦楽器であるピアノからあんなに澄んだ、純粋でぬくもりのある音がでるのかと感動した。曲を聴くという感覚はもはやなく、彼の音が鳴っているその空間に浸り、彼の世界に身をゆだねているような感覚で聴きいっていた。彼が亡くなるまで一度でも多く、彼の生の音を聴けることを願う。  リフォームしたとはいえ、サル・プレイエルはサン・サーンスが十数歳でデビューして晩年まで頻繁に演奏していた会場である。お世話になった岩崎セツ子氏のデビューリサイタルも改装前のサル・プレイエルだった。そういうことを考えながら、サン・サーンスが生きている時に生まれたチッコリーニの音楽を聴いていると、彼のピアノを通じてその時代を垣間見ているかのような錯覚を受けた。まさに過ぎ去った時代を現在に伝える伝道者と呼ぶにふさわしい音楽家である。

2008年10月15日ナント大学訪問

イメージ
  前日の午後、パリからナントへ向かい、ナントの勅令が発せられた場所として知られるブルターニュ公爵城を見学して、晩はご招待頂いたナント大学教授、高橋先生とディナーをとった。ブルターニュ地方の海産物を食べながら、当時我々の共同研究の対象だった、相同組み換えタンパク質から生物学全般に及ぶ雑談を楽しんだ。ノーベル賞の話題になると、「狙ってもらえる物ではないのだから、好きな研究をやってもらえればラッキー、もらえなくても人生悔いなしでいいではないか」と、ご意見を述べられた。高橋先生とのこの3時間のディナーが、人生観やキャリアについて考え、学術的にも視野を広げ、研究者としての生き様や価値観を感化されたという意味で、今回の訪問で最も多くの収穫があった。  翌日セミナーで講演をすべく、ナント大学を訪問した。建物は全体的に古く、ややさびれ気味ながら、メインとなる講堂の設計は、それなりに気合が入った感があった。先生が研究室を構える大学内の研究所を案内してもらい、ナント大学の教授達と職員食堂で食事をした。彼らも例にもれず、全員が高等師範学校(ENS)の卒業生だった。午後2時からセミナー開始。招待して頂いた高橋教授は生化学がご専門で、聴講して頂いた教授方や研究者達もほとんどが生物学者だった。分野が違うと知識だけでなく考え方や、時には人間的性格や興味のツボも異なるので、自分の領域の話や研究内容を理解してもらうためにはかなりの努力と辛抱が必要である。幸い皆さまのアットホームでフレンドリーな雰囲気に助けられ、スムーズに話を進め、無事セミナーを終えることができた。

2008年10月13日コレージュ・ドゥ・フランス

イメージ
  キュリー研究所主催のセミナーがコレージュ・ドゥ・フランスで開催された。コレージュ・ドゥ・フランスはフランスにおける学問、教育の頂点に位置する特別高等教育機関で、試験や単位授与や学位授与などもなく、全ての講義が市民に公開されている。ここの教授に任命されることは、フランスの該当分野の最高権威と認識されることになる。ここの講義は一般市民に公開されていて、基本的には誰でも講義やセミナーを聞きに入れるので、冬はホームレスが暖を取りに入ってきたという話をどこかで読んだことがある。  今回は、キュリー研究所の発生生物学部門設立記念セミナーだった。300人の会場に500人の予約が入っていたそうだ。セミナーの入場予約をし損ねていたので、入れないかと一時は諦めていたが、当日受け付けてキュリー研の職員証を見せて交渉し、入場バッジをゲットすることができた。  今日の講演者の約半分がキュリー研究所の教授達で、残り半分がアメリカから招聘した超大物教授達だった。キュリー研究所の外部顧問に就任されたロックフェラー大学学長のポール・ナース先生やカルフォルニア工科大学の元学長のデイビッド・ボルティモア先生など、ノーベル賞受賞者達も講演をされた。こんなに小さな研究所で、これだけの人物を呼べるキュリー研究所の国際的な権威を改めて実感させられた。ナース先生も「パスツール研究所とキュリー研究所は特別だ」と明言していた。

2008年10月12日(日曜)Hvorostovsky & Kissin@プレイエル

イメージ
  晩、サル・プレイエルで、バリトンのディミトリ・ホロストフスキーとピアノのエフゲニー・キーシンによるリサイタル。2人とも、レベルが高いことは言うまでもなく、エンターテイナーとしてクラシック音楽を超越していた。演奏会で感動することは多々あるが、普通のクラシック音楽の演奏会とは違った空気に刺激を受け、普段クラシック音楽の演奏会では、その厳かな雰囲気もあってか、サインをもらったり写真をとってもらったりすることはない私であるが、この時はサイン会の列に並び、写真を撮ってしまった。

2008年10月8日ノーベル賞発表

 お隣のENSで、マーチン・カープラス先生のセミナーがあったが、アナウンスに気付くのが遅く、知らないうちに聞き逃してしまった。ハーバード化学科の彼の研究室に父親が在籍していたため、幼少の頃から彼の顔は知っていた。20数年ぶりにお会いしたかったが、残念だった。彼は何十年間ノーベル賞候補といわれ続けている。  今年のノーベル生医学賞は、物理のキュリー研との双璧、医学のパスツール研究所の、あの二人だった。化学賞の受賞者3人は、ちょうど去年東京で使っていた緑色蛍光たんぱく質の研究に関わった人達で、よく論文をよんでいた直後だったので、少し身近に感じた。化学賞、物理学賞の方々4, 5名と、後日別々の機会にそれぞれ出会うことになるとは、この時は思ってもいなかった。この時化学賞を受賞された下村先生は、彼の1960年頃の仕事でお名前を知っていて、科学史に残る大昔の人物であるとの認識であったため、受賞発表でお名前を聴いた時は、受賞したことより、まだご存命であったことに驚いた。ノーベル賞をもらうためには長生きをしないといけないとよく言われるのは、こういうことかと再認識した。実際この数年後、カープラス先生が83歳の高齢でノーベル化学賞を受賞することになった。  毎年恒例、例によって関連のメールがキュリー研MLで流れた。化学賞のロジャー・チェン博士あての「君がもらって嬉しいよ。フランスに来た時はキュリー研に寄ってね」というメールも回ってきた。パスツール研究所では2人の受賞のおかげでお祭り騒ぎかもしれないが、キュリーではいたって平穏だった。キュリーからも早く次の受賞者がでることを楽しみにしている。  今年は日本人が4人も受賞したということで盛り上がっていたが、アメリカ側ではそのうち2人はアメリカ人として数えていた。