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11月3日出発

 パリ最後の晩、沖縄県人会の会長さん宅で、この秋から新しくパリにやって来た沖縄人留学生を交えて飲み明かした。会長さん宅で午前中4時間だけ仮眠をとらせてもらい、友達の家へ荷物を取りに行き、そのまま友達数名と一緒にシャルル・ド・ゴール空港へむかった。本帰国することが信じられないくらい、私にとって日常となったこの空港のマクドナルドで、沖縄から持参した泡盛を開け、白昼最後の晩餐を楽しんだ。やはり、もつべきものは友達である。  地球上でおよその先進国と言われる国のどの都市にいっても、常に誰かお世話になる友達がいることが、私のフットワークを軽くしているのかもしれない。よい友人達に恵まれたことが、パリ滞在をプライベートでも充実したものにしてくれた。物心両面で支えてくれた友人達には感謝の念を抱かずにはいられない。

10月31日キュリー研最後の出勤

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 早朝お部屋を大家さんに引渡し、一旦友達の家に荷物を置いてキュリー研へ。この日が今滞在最後の出勤となった。研究室のメンバーで私が始めたプロジェクトの今後の方針について長々と議論し、夕方8時前にキュリーを出た。ヴィオヴィ先生から、「今年1年の成果を大変嬉しく思っている、博士号取得後に戻ってくるならいかなるサポートも惜しまない。」と、早速のお誘いを受けた。また戻って来ると直感していたのか、馴染みすぎてしまったこの場所を去るという気がまったくしなかった。事実、今後毎年1,2回パリを訪れる生活が始まり、再度キュリー研に赴任することになった。  その日はそのまま友達がバイトをしていた日本料理屋で、友人達が送別会を開いてくれていたので、遅れて合流した。十数人の友達が集まってくれて、皆で大いに盛り上がり、楽しいひと時を過ごした。

10月28日ロストロポーヴィチ、アルゲリッチ、ヴェンゲロフ@ガボー

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 アパルトマンを退去するため、引っ越し業者が荷物を引き取りに来る前日、友達が代わる代わる、家具などを買いに、クリッシーの自宅を訪問してきた。ギャルドン門下の友達が、岩崎セツ子先生の門下生でこの秋からギャルドン先生の門下に入る沖縄の友達を連れてきた。彼女とは以前沖縄で何度かお会いしたことがあった。岩崎先生の関係者からは、入れ替わりで常にパリに誰かが滞在している。その伝統が続くと思うと、とてもうれしかった。  夕方はサル・ガボーで開催された、ロストロポーヴィチ財団主催のチャリティーコンサートに向かった。一階席は各界の有名人達が招待客として鎮座し、メディアも大勢集まっていた。この演奏会で、マキシム・ヴェンゲロフのヴァイオリンと、マルタ・アルゲリッチのピアノを聴く機会に恵まれた。チェロ界の重鎮ロストロポーヴィチはこの日はチェロでなく、指揮を振っていた。この公演の直後に亡くなったことを考えると、貴重な歴史的機会に居合わせることができたことは、まさに幸運という以外はない。「ただならぬ関係」であったと岩崎先生がおっしゃっていた、ロストロポーヴィチとアルゲリッチによるハイドン作曲のピアノ協奏曲は、この世で聴いている音楽とは思えない程自然で純粋な美しさと品格が感じられ、まさに神業だった。アルゲリッチのピアノは、個人の主観が一切入らない、天から降りてきた音楽をそのまま流しているかのような演奏だった。このような音楽は、偉大な女性演奏家の晩年の演奏から聴けるのだと、後日とある音楽家から説明をうけた時、まさにあの時の演奏がそうだったのかと納得するに至った。アンコールはクライスラー作曲愛の悲しみのラフマニノフによるピアノ独奏版編曲だった。  指揮者の小沢征爾さんも招待客でいらしていて、回廊でしばらく立ち話をしていた。すると、マエストロ(小澤氏)が洗面所に行きたいから持っていてくれと、突然彼のコートを渡された。彼か戻るまでどうしていいのかわからず、ただ彼の戻りをまっていた。とても気さくで話しやすく、面白い方だとの印象をうけた。中休みには、招待客のみ参加できるパーティーがあり、俳優、女優や著名人らとその付き人らしき面々が続々と入って行くところを、招待されていない私は側から興味深く観察していた。パーティー会場に入っていくレセブリティー達を見てると、老若男女、皆とても背が高かった。フランスの上

10月25日まゆ毛先生最後のレッスン

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 この日は、今回のフランス滞在で最後のピアノレッスンとなった。通い慣れたサン・ペテルスブルグ街のギャルドン先生宅で、プーランク、サン・サーンスの曲を聴いて頂いた。今日は何故か初めからとても機嫌がよかったのに加え、私のど素人感満載だったピアノが多少は進歩したことに対して、Bien, bien, bien! Bien progressez!(よろしい×3回、良く進歩したな)、 「よく練習したな、ブラボー!」と、おそらく初めてお褒めの言葉を頂いた。これまでがあまりにもひどかったことは百も承知であるが、夏のニース音楽院での修練と、沖縄公演に向けての練習で、私のピアノは確実に変わったのだろう。この日も、相変わらずまるで神がかっているかのような、素晴らしいレッスンだった。レッスン終了後に琉球紅型をプレゼントした。何度も沖縄を訪れている先生は、中国半分、日本半分という琉球文化はよく理解しているらしい。  最後に先生と写真を取りたいとお願いしたところ、ちょっとまったといわれ、隣の部屋へ向かい立派な上着を着てきて戻ってきたかと思うと、いきなりピアノに座り、シューマンのクライスレリアーナを弾きだした。ピアノの譜面台を倒して「この角度からがいい。この角度からとるように」と、おそらく彼の決めポーズをとってくれたので、遠慮せずに数枚、ピアノを弾く先生の写真を撮らせて頂いた。生徒のお願いで記念写真をとるのに、ここまで気合いを入れるのは職業柄だろうか。彼と出会っていなければ、科学研究に終始していたであろう私のパリ生活を、音楽と芸術に満ち溢れた滞在にしてくれた。彼は私のパリ生活を大きく変えてしまった恩人である。今後ピアノを続けることがあれば、彼に因るところが大きい。今後も彼にピアノを習う機会があるかもしれないが、とりあえずここで一区切りである。感謝してもしすぎることはない。  晩はシャンゼリゼ劇場で内田光子さんのピアノリサイタル。ベートーヴェン作曲の長大なハンマークラヴィーアソナタを通して、オバケのような光子ワールドを聴かせて頂いた。

10月11日~15日”Pas de Cinq”沖縄公演

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 この年、琉球移民を先祖に持つ世界の外国人が、5年に一度の頻度で沖縄県に集まるイベントである、世界ウチナーンチュ大会が開催され、在仏沖縄県人会主催によるピアノコンサートに出演することになっていた。ピアノを学びにフランスに留学していた、もしくは留学中のピアニスト4人に、パリ在住で、趣味でピアノを学んでいた私を含めた5人による沖縄公演。ソウル、東京を経由して沖縄についた日はさすがに疲労困憊し、一旦実家で数時間休み、晩は知人の練習室を借りて、翌日の昼夜2回の公園に向けて、ピアノの練習をした。  13日本番当日、朝早めに会場であるテンブスホールに向かった。それまで沖縄各地のホールでピアノを弾いてきたが、新設されたこのホールでの演奏は初めてであり、ピアノの具合やホールの音も響きを知らなかったため、ピアノと会場に短時間で馴染めるか多少の不安があった。午前中少しだけリハーサルをさせてもらう時間があったが、すぐに午後の部が始まった。昼の部と夜の部、一日で2回公演を経験したのは初めてで、それぞれの部で前半と後半ともに出演したので、計4回出演することになった。その間ずっと本番モードのテンションを維持したままでいるのが大変な負担で、そのため相当な体力を消耗した。また、十分な練習と環境になれる時間が取れなかったためテクニックは乱れ、郷里での大切なイベントにもかかわらず、かなり不満の残る演奏となってしまった。  終演後、岩崎セツ子氏からビズ(ヨーロッパ圏で良く行われる頬っぺたを合わせてチュッと音を出す慣習)を頂き、テクニックがボロボロだったにも関わらず、小生のピアノについて、「フランスにいってからびっくりするほど品がよくなった」と嬉しいお言葉を頂いた。この後、パリでギャルドン先生からも、同じお言葉を受けることになった。終演後の晩、一仕事終えた気分にまかせ、首里城周辺の散歩に出かけた。  演奏会の翌朝、旅行かばんをもったまま首里城で行われていた琉球舞踊公演を鑑賞し、宜野湾市コンベンションセンターでの閉会式に出席し、その足で那覇空港へ向かい、東京経由でパリに帰った。かなりの強行スケジュールで疲労もたまり、沖縄の聴衆に聴いて頂いた演奏自体は不満の残るものとなったが、このイベントに参加し、地元の観衆の前に姿を見せることは、少年期から故郷を離れ、常に遠くから沖縄を眺めていた私にとって、それだけ

10月11日セミナー@ラカッサーニュ記念講堂

 キュリー研究所内でこの1 年の成果発表、つまるところ、FRMTと名付けた新型磁気ピンセットと、それを用いて初めて実現したRad51タンパク質によるDNAねじり運動計測の結果報告を依頼されていた。アイディアや結果の情報が外部に漏れ、世界のライバル達に漏えいするリスクを危惧した先生方の意向により、所内の一部の関係者だけに声がかかり、午前中の時間帯を選んでのセミナーになった。  終了後何度も研究所の教授達から「君の実験は実に美しい」という賛辞を頂いた。美しいという表現がいかにもフランスらしい。特にノーベル物理学賞を1人で受賞したフランスの英雄、ドゥ・ジェンヌ先生からは「何と面白い実験だ!」と様々な質問をうけた。この発見のカギとなった、新型磁気ピンセットの発明は、当初光ピンセット装置を用いるという先生方の案では期限内に成果を得る事は難しいという私一人の経験、理論的根拠と直感から先生方を説得し、本当にうまくいくかもわからない新型磁気ピンセットの開発を始めた事に始まった。その事を回想したヴィオヴィ教授から「僕の言うことを信じなかったことが君の素晴らしいところだった。」と、フランス人らしいウィットの効いたお言葉を頂いた。  午前中キュリー研で“講演”を行なった同じ日の夕方、今度は沖縄での“公演”のため、シャルル・ド・ゴール空港へ向かった。パリから東京へ完全帰国する2週間前に、東京経由で沖縄に2泊2日滞在するという、私にとっては何ともタイミングが悪く、負担になるスケジュールを余儀なくされたが、沖縄で是非とも出演しないわけにはいかない演奏会があった。そのため、パリからソウル経由でまずは東京へ向かい、その夜は友人の家に数名で集い、朝まで飲み明かし、翌朝始発で羽田空港から沖縄へ向かった。

10月2日パリ生活残りわずか

 この時期のパリは、留学や勤務を終え帰国する者と、新たにパリにやってくる者が交差する。私も10月末で完全帰国することになっていたので、残り少ないパリでの生活を悔いのないものにしようと、仕事だけでなく、全ての活動に積極的になっていた。この日の晩、留学のためパリに到着して間もない、ニース音楽院の夏季講習で知り合った友人の新居を訪問した。はじめは気付かなかったが、1年程前の11月30日、ピアノを探しに方々を訪ね歩いていた時、現在借りているプレイエルに出会い、ひと弾き惚れをしたのが、当時倉庫に使われていたまさにこの部屋だったことを知った。パリに到着して1カ月の時に訪れた部屋に、奇しくも帰国の1カ月前に偶然訪れた。  近所のフランス家庭料理レストランで、とても美味しい煮込み料理と、摩訶不思議でかつ興味深い親友のお話に、パリを離れる寂しさが一入だった。

9月30日トム・ジョンソン訪問

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 帰国前に一度はご挨拶に行っておこうと思いたち、久々にトム・ジョンソン氏宅を訪問した。その日は近くのカフェで一緒に昼食をとった。雑談をしている間は普通のいいおじさんであるが、音楽や彼の大好きな科学や数学の話をすると、相変わらず合点がいかない発言ばかりだった。その日も「自分の(数学の?)理論は普遍的だ」など自信に満ちた語りを聞かされた。彼が素晴らしいと認めるミニマムミュージックのCDを一枚一枚聞かされ、その素晴らしさを理解するように言われた。はじめは毎回辛抱強く話を聞いて、苦し紛れの感想を述べていたが、反応が良くなくなるにつれて彼もご不満だったようだ。彼が昼寝をしている間に聴いておくようにと言われて、半ば強制的に聴かされたSaryというハンガリーの作曲家の楽曲だけは、それなりに感じるものがあった。後日、共通の友人であるジェフスキ氏にもこの日の出来事を電話で話し、僕が興味を持ってくれなかったことに対して愚痴をこぼしていたそうである。相変わらず、同じ現代音楽の巨匠と言われるジェフスキ氏とジョンソン氏の、一方は巨大な知性と寛大な人格を持ち合わせ、他方からはその真逆を感じざるを得ないという正反対の個性がどうケミストリーを起こせば理解しあえる仲になるのか、理解ができない。

9月27日シプリアン・カツァリス

 晩はサル・ガボーでカツァリスのピアノリサイタル。モーツァルト交響曲のピアノ独奏版など、超絶技巧を惜しみなく披露するプログラムで、とりあえず笑うしかないほどの卓越した演奏技量をみせてくれた。