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2009年7月26日トム・ジョンソン宅

  日曜。午前中から昼過ぎにかけて、レピュブリック広場(Place de la Republique)のカフェで論文を読み(この頃週末の日課となっていた)、午後は自宅でピアノの練習をしてから午後4時、バスチーユ広場近くのトム・ジョンソン氏宅を、パリを去る前の挨拶を兼ねて訪問した。ベルサイユの大学で植物遺伝子の研究をしているアメリカ人のDavid Tepher博士も同席した。  既述の通り、私も彼の話には昔からあまり興味がなかったが、トム・ジョンソン氏は、その日私が説明したキュリー研におけるトピックであるDNA修復の話には、全く興味がなかったようだ。彼は自称数学者で、数学を基に作曲するミニマム・ミュージックの巨匠とされている。数式、しかも彼が理解できる程の簡単な四則演算がでてこない限り、彼の興味をひくことは難しいだろう。

2009年7月25日ノートルダムの鐘

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  土曜休日、ペール・ラシェーズ墓地で作曲家フランシス・プーランク、フレデリック・ショパン、思想家サン・シモン、シャンソン歌手エディット・ピアフらのお墓参りをした。  午後はキュリー研にたちより、少し仕事をしてから、パンテオン、ソルボンヌ裏を通るいつものルートでノートルダム寺院まで散歩をし、パリ滞在も2年を過ぎて初めてノートルダム寺院の塔に登った。  3年程前、初めてパリに移住した頃、敬愛するフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの「ノートルダムの鐘」の壮大なロマンスに魅了されて以来、いつかこの塔に登りたいと思っていた。「ノートルダムの鐘」にも登場するガーゴイル達を間近でみられ、その愛らしい表情から「ようやく会えたね」とでも言いだしそうな感激を覚えた。

2009年7月18日~20日週末はローマ経由でアッシジへ

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この週末もイタリアで過ごすことにした。一番の目的は、リストが晩年滞在し、名曲「エステ荘の噴水」や「エステ荘の糸杉」を作曲するモチーフになった、ローマ郊外のティヴォリ(Tivoli)へ、そのエステ荘を訪れることであったが、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院に留学中のピアニストの友人との朝食でついゆっくりしてしまい、電車をのりすごしてしまい、その日のうちにエステ荘へは行けなくなってしまったため、時間の迫る中、とっさの判断でアッシジに直行することにした。  結局は一泊二日のアッシジ観光になった。中学・高校と、フランスカトリック系の学校に通っていた時、中学時代に見たアッシジの聖フランチェスコの映画を鮮明に覚えていた。そのためか、アッシジの街並みや雰囲気自体が、映画でみたその雰囲気と重なり、趣深く感じられた。  目玉は何といってもフランチェスコ寺院。聖フランチェスコの棺があり、ご遺体の前では敬虔なカトリック信者達が祈りをささげ、感涙の泣を流す人、声を出して泣き出す人さえいた。信者でなくても(特に私は幼稚園からキリスト教系の学校に所属していたこともあり)敬虔な心持ちになってしまう、そのような神秘的な空間だった。  私にとってのもう一つの目玉、「小鳥に説教する聖フランチェスコ」のフレスコ画が、同寺院の壁に何百年も変わらずそこにある。19世紀にフランツ・リストがここを訪れ、このフレスコ画から得られたインスピレーションをもに、ピアノ曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を作曲した。このフレスコ画との出会いのため、リストの最後の高弟であり、演奏スタイルもリストと酷似していたと伝わるロシア出身のピアニスト、アルトゥーロ・フリードハイムが演奏する「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」の録音を旅行中しばしば聴いていた。その演奏から得られるインスピレーションやイマジネーションを思い出しながら、その壁画の前にかなりの時間立ちすくんでいた。リストがここを訪れた時、何を感じ、何と言ったのだろうか。きっと、彼の敬虔な信仰心と、スターとして振る舞いたい欲求の双方が入り混じった、パフォーマンスのような言動をしたのだろうか。アッシジでの晩は、400年続くと言われる老舗レストランで、地元ウンブリア料理を食べ、翌日パリに帰り、短い週末が終わった。  フランス人の同僚がこの旅程をこ