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6月30日~7月3日ワルシャワ旅行

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 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。これまでに何度か渡航を計画しては、毎回旅程を延期していたため、今度こそはと三度目の正直の強行スケジュールだった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように、慎重を期した計画の上で市内を観光した。観光も仕事と同様、限られた時間と体力(時には資金)のもとで、できるだけ多くを体験し、多くの物にふれ、多くを吸収しようとしていた当時の私にとって、時間と体力の浪費を最小限にとどめるよう観光プランを立てることは、最重要課題の一つになっていた。  訪問の主な目的は、私にとってのポーランド出身の三大偉人であるショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませることだった。飛行機の中やホテルで寝る前に、その世界になるべく近づくべく最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いていた。  初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日行われたショパン国際音楽コンクールの審査員らの裏話を聞いたり、友人のワルシャワでの生活について話を聞いたり、会話を楽しんだ。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚に対する嗜好を確認すべく、ビッグマックを食べた。その現地に住む人の食に対する嗜好を一番手っ取り早く確認するには、全世界ほぼどの国にでもあるマクドナルドの定番メニューを食べるとよいと言われている。現地人の嗜好に、ある程度カスタマイズされているからである。  二日目は一人で観光に向かった。ショパン博物館には昔から書物などでよく見かけたショパンの絵やショパンの愛用したピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながら空いていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例しているというのが私の持論の一つであるが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国程度という感じだろうか。国土の広さに対する国力の弱さの対照が、この国と民族の数々の歴史的悲劇を際立たせてきたのであろうか。キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究

6月24日モンパルナス墓地お墓巡り

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   日本から従兄弟が出張帰りにパリに立ち寄ってくれた。沖縄県人会関係の知人の画家を誘い、3人でパリ散策に向かった。オペラ座ガルニエ前の階段で従兄弟と待ち合わせ、リュクサンブール公園で画家の知人と合流した。まず定番であるが、キュリー研、キュリー博物館とその周辺を案内し、その日はモンパルナス墓地へ向かった。パリ市内の主要な墓地には、地図と共に著名人のお墓が明記されていて、参拝したい著名人のお墓を効率よく探すことができるようになっている。  この日、特に参拝したいと思っていた著名人は、作曲家の中でパリにきてからおそらく一番練習しているたサン・サーンスだった。その他、サルトル、ボーヴォワール(作家)、クララ・ハスキル(ピアニスト)、ポアンカレ(科学者)、ガルニエ(建築家)、ランパル(フルート奏者)の墓をお参りした。パリで没した日本人、サツマさんのお墓もあった。「バロン薩摩」のあだ名で知られた希代のパトロン、資産家で、パリ国際学園都市(シテユニベルシテ)の日本館(別名薩摩館)に全額出資した薩摩治郎八の縁者であろうか。有名人リスト中唯一の科学者、ポアンカレ先生のお墓も訪問した。残念であるが、科学者だとここまで人類史上に残る偉業を残しても、殆ど誰も訪問者がいないらしく、花の一輪も添えられていなかった。一方で人気歌手ギンスブルグや作家サルトルの墓には置手紙やお花がたくさんあり、死後も訪問者が絶えない。人間社会における縁の下の職業ともいえるいわゆる理系の職業と、表舞台で活躍する職業とは、死後何世紀が経っても、このように同じ墓地の中で、一方は気付かれることもなく、他方は多くの訪問者の祝福を受け続ける。どちらがいいとかいう問題ではないが、色々と考えさせられる現実である。  この時画家の知人から、19世紀末、日本がパリ万博に参加する際、外交権がなかったため、外交権をもった元国家元首であった尚泰(最後の琉球国王、当時侯爵)の名で署名して日本国が参加した時の、尚泰の署名入り登録書をパリで見たという話を聞いた。是非一度拝見してみたいものだと思った。パリにこのような琉球人の足跡があることを、どれだけの沖縄の方が知っているだろうか。  その後、パリでご活躍の沖縄出身アーティスト、幸地学さんの絵画展をみて3人で食事をし、日没後サン・ルイ島を散策し、アルコールを飲みながら美術や哲学について色々と語りあ

6月20日実験成功

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 2006 年6 月20 日は記念すべき日になった。Rad51(相同組み換えタンパク質の一種)タンパク質がDNAをねじる運動を世界で初めて観測することに成功した。その日の午後、オランダの研究室から見学者があり、彼らに我々の実験テクニックの秘密を話さないようにとの注意が回っていた。彼らに我々の研究の説明をぼやかしながら話した午後2時頃には、まだ実験には成功しておらず、また訪問者らはその実験の重要性には全く気づいていなかった。ここ1カ月近く、磁気ピンセットを使って手作業でDNAを一本一本、数十回のねじりを加え、二重鎖で欠陥がなく、一本で独立してある二重鎖DNAを探すという途方もない地道な作業を繰り返していた。そしてこの日の午後4時頃、ついに「いい感じ」と直感で判断できるDNAを一本、磁気ピンセットで引っ張った状態で保持することに成功した。ここにRad51タンパク質を適切な化学条件で加えると、Rad51蛋白質がDNAをねじる動作がみられるはずである。慎重に慎重を期して試薬を準備し、Rad51タンパク質を導入したところ、その蛋白質がDNAに重合し、遂にDNAがねじれる運動を観測することに成功した。  しばらくの間、まだ人類史上自分一人しか見た事がない、DNAがねじれて磁気ビーズがくるくる回っている様子を手作りでくみ上げた顕微鏡がモニターに映し出したその映像を一人で見入っていた。おそらくこの瞬間程、科学者としての感動と興奮を覚えたことはなく、今後もおそらくこのような機会には巡り合えないであろう。今後私が研究者を続けることがあれば、その原動力はこの時の感動に因るところが大きいだろう。共同研究者のジョバンニを呼び、その映像を見せるが早いか、彼はその意味を瞬時に理解し、「DNAがねじれて磁気ビーズが回っている!!」とびっくり仰天し、飛んでヴィオヴィ先生を呼びに行った。知らせを聞いた他の先生方や同僚達もすぐに駆けつけ、始めてみるDNAのねじれ運動を皆でしばらく鑑賞していた。理論的に予測していた回転速度よりもだいぶ遅かったが、それ自体は大したことではなかった。ヴィオヴィ先生から”Beautiful experiment”(美しい実験だ)との激励を受けた。 その後は数ヶ月にわたり、研究所外に情報が漏れないように厳戒令が敷かれた。内部情報を知ることのできる物理化学部門では、大学院生から

6月19日実験成功前日:岩崎セツ子を囲む会

 キュリー研で、ジョバンニが担当しているミオシンの実験を見に来た研究者に対し、私が立ち上げている磁気ピンセット(後にFree Rotation Magnetic Tweezersと名付ける)システムについて、イデー(私の愛称)がFunny, in my opinion(私の意見では奇妙なこと)をやっていると説明していた。そのFunnyな実験アイディアが成功し、翌日一大騒動を巻きおこすことになるとは、私も誰も予想すらできなかった。  晩は沖縄県人会メンバーで、トリニテ教会前のカフェ・ド・ロアで、ピアニスト岩崎セツ子氏を囲む会を開催した。先生がパリでご活躍されていた頃のパリや音楽界の話、パリ高等音楽院ピエール・サンカンのクラスでミシェル・ベロフ、オリヴィエ・ギャルドン、ジャン=フィリップ・コラールら、今ではフランスを代表するピアニストとなった面々と、みんな一緒に「右向け右」のような学生生活を送っていたという日々の思い出を懐かしそうに語っていた。先生曰く、「ベロフは可愛い坊やだったが今ではオヤジになった」そうである。今よりも華やかで文化が栄えていた頃のパリで、岩崎氏が経験し、得たことを後世に伝えようとする姿勢の素晴らしさと有難さに、文化の伝道師という言葉を思い出した。

6月17日シフラ協会@サンリス

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   休日。知人と午後からパリ郊外サンリス(Senlis)に向かった。フランスのゆったりした空気に慣れ親しんでいたためか、電車を逃してしまい、シャンティーからバスに乗り、サンリスについた時には午後5時を過ぎていた。   この街は伝説のピアニスト、ジョルジ・シフラが晩年を過ごしていた街であり、彼が再興したサン=フランブール参事会教会と、シフラ一家のお墓がある。私が小学校の頃、何気なく手に取って初めて購入したCDが、シフラが演奏するリストの作品集であった。当時はシフラがピアニストの名であることすら理解していなかったが、数年後には私が最も影響を受けたピアニストの一人になっていた。巡礼の旅とでもいうべき心持ちでサンリスを訪れた。まずは聖地とも言える教会に直行した。あれほど訪れたいと思っていた場所だったが、なぜか興奮は起こらず、静かな気持で淡々と見学していた。教会内はシフラよりも、リスト色一式だった。Des canons et des fleurs(大砲と花)と題したシフラの人生を端的に表現したタイトルの伝記を購入した。ブティックにいた老女はシフラ夫人であったと思われ、壁に掲げてあるシフラの長男、ジョルジ・シフラ・ジュニアの肖像画を指差し、シフラの息子だと力説してくれた。3年後、再度訪れた時には教会にその老女はいらっしゃらず、一家のお墓をお参りをすることになった。この町は映画の撮影にも使われた程、静かでメルヘンな佇まいで、中世の面影を残していた。サンリスからの帰り、交通規制があり、電車に乗る予定であったシャンティーの街にはバスもタクシーも入れないということだったので、カフェのおじさんに頼んでタクシーを手配してもらい、Orry la Villeまでタクシーでいき、そこからRER線でパリに帰ることができた。フランスでは鉄道やバスのストライキによる停止だけでなく、街への車両進入が禁止になることもあることを知った。

6月15日マウリツィオ・ポリーニ@シャトレ劇場

 この頃、自分が開発した新型磁気ピンセットシステムはほぼ完成し、それを用いて一日中ビーズつきDNAを手作業で一本一本、数十回転ねじりを加え、欠損のない2本鎖DNAであるかを確認していくという途方もない単純作業を続けていた。共同研究者でもあったある同僚に、このシステムにDNAを自動で巻き上げるシステム組み込んでから、機械に任せてやった方が効率いいのではとのアドバイスを頂いたが、そのシステムを組み上げるためにもまた膨大な労力が必要とされる。振り返ってみると、この時彼女のアドバイスを受け入れなかったことが、短期間で成功を勝ち取るための重要な分岐点となった。このような、その後のプロジェクトの運命を大きく左右する一つ一つの小さな分岐点では、自分の才能とこれまでの経験で培った感を信じて思い切って決断を下すしか方法はないのだろう。  晩はシャトレ劇場で、マウリツィオ・ポリーニのピアノを生演奏では初めて聴いた。だいぶお年を召していたようで、リスト作曲のピアノソナタなどではミスや暗譜が飛ぶ(曲の一部の記憶が不確かになり、演奏が止まったり、一部省略してしまうなどの演奏上の過誤を、ピアノ弾きの間では「暗譜が飛ぶ」という)、技巧的な曲はよたよたし、最盛期のキレの良い技巧は聴かれなかったが、音質や演奏スタイルに、輝かしかった在りし日の鱗片を確認できた。フランツ・リスト作曲による晩年の宗教曲と、アンコールで披露したドビュッシーの小品からは、巨匠と呼ぶにふさわしい深みを感じた。

6月14日ウィーンフィル&ベルナルド・ハイティンク@シャンゼリゼ劇場

 連日仕事を頑張っている自分へのプレゼントもかねて、夕方ベルナルド・ハイティンク指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のコンサートを聴きにシャンゼリゼ劇場へ向かった。前売りチケットを購入せずにいたので、時間ギリギリでダフ屋から安いチケットをゲットすることができた。日本ではダフ屋行為は違法であるが、ここでは合法である。  ウィーンフィルが醸し出す音色は、ウィーンのピアニストたちの演奏から聴こえる音や、昔東京で師事していた先生がレッスン中に度々伝えようとされていた「艶のある音」を連想させる、高貴だがわかりやすい美しさとのバランスを保っていた。ベルリンフィルやウィーンフィルなど、世界最高峰のオーケストラや芸術を立て続けに、かつ気軽に聴けるヨーロッパでの生活は、自分の感性を磨き人生の糧を得るためには無二の環境である。