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7月14日革命記念日

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  パリのカフェといえば、エスプレッソである。キュリー研のカフェにもイタリアのメーカー「ラバザー」のエスプレッソマシーンが置いてあり、そこで同僚達と談笑したり議論したりする際も、一人思索にふける時も、苦いエスプレッソに砂糖を多めに入れて飲むのが習慣であり、その味をこよなく愛していた。ただし、その頃はエスプレッソの飲みすぎで睡眠障害と胃腸の痛みに悩まされていた。  晩は革命記念日の花火をみるため、群衆が集まるトロカデロ広場に友人ら3人で座り込み、エッフェル塔の後ろから打ち上げられる花火を観賞した。日本の花火を見慣れている日本人の目からは、迫力や美しさの点で多少見劣りする感じがしたが、ライトアップされたエッフェル塔と花火のコラボレーションはなかなかの見ものだった。この時、再来年とその翌年もこの日をパリで迎えることになるとは、予想だにしていなかった。  その帰り、トロカデロの地下鉄ホームに降りた直後、フランスらしいアクシデントに遭遇した。突然地下鉄の入口が封鎖され、かつ地下鉄も運行停止のまま、30分程多くの乗客とともにホームに閉じ込められたのである。職員の段取りミスか連絡・指示によるミスだと思われるが、まるで自分は悪くないようにのんびりとトランシーバーで対応している職員に、「なんだこれは!ちゃんと仕事しているのか!」と言い寄る人もいたが、群衆の大半は、フランスでは特に珍しいことではないとでもいう感じで、世間話をしながらホームの入り口が開かれるのを待っていた。一分の遅延でも「ご迷惑をおかけしてまことに申し訳ありません」と謝る日本の地下鉄を思い出し、日本人の時間に対する几帳面さ、悪く言えば神経質さを実感した。  この頃、後にフランス滞在を通じ最も影響を受けた作曲家となったフランシス・プーランクについての書「パリのプーランク」を読破した。他の歴史的作曲家達の例にもれず、プーランクも裕福な家のおぼっちゃまであったらしい。父親は実業家で、ローン=プーランク社という化学系メーカーを創業した人で、今では日本にも支社があるらしい。昨日仕事で読んだ論文の著者の所属が"Rhone-Poulenc Recherches"(ローン=プーランク社研究部署?)であった。趣味で学んだ音楽と、仕事で読んだ科学論文とが、妙なところでつながった 。

7月9日ワールドカップ決勝イタリア対フランス

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 休日であったが、夕方少々時間があいたので、少しでも仕事を進めるためキュリーに立ち寄った。休日でかつワールドカップ決勝のフランス戦ともなれば、フランス全土はお祭りモードで、全てのフランス人はその試合のためだけの一日になるといっても過言ではないが、何ということか、何人かが出勤して実験を続けていた。実験材料をもって廊下をうろうろしていた同僚に、晩サッカーの試合はどこで見るのかと話を振ってみたところ、「何の試合?サッカーのことは知らない」と一蹴された。フランスにも絵に描いたような研究者らしい研究者がいるものだと驚いた。  晩は、ワールドカップ決勝イタリア対フランスを観戦するため、シャンゼリゼ通り脇にある知人のバイト先の日本料理レストランで、音楽関係の知人らと集まった。いつもは人でごった返している夜のシャンゼリゼ通りも、この時だけは映画でみる人類絶滅後の廃墟のように静まり返っていた。フランスが負けて暴動が起こった場合に備え、店のシャッターをおろしてテレビ観戦した。歴史に残るジダンの頭突きもこの時ライブで見ることになったのであるが、フランスが負けたのにも関わらず暴動は起こらず、イタリア国旗を広げたイタリア人達が嬉しそうに騒いでいても、襲撃されるような気配はなく、深夜の凱旋門に選手らの顔と感謝の言葉が投影され、むしろおだやかな祝福ムードだった。  終電がなくなっていたので、皆で夜風が心地いい深夜のパリを散歩し、フルート奏者の知人宅で飲み直し、朝まで楽しいひと時を過ごした。