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2008年9月20日週末イタリア旅行

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     初めてイタリアを訪問した。出張と休暇を組み合わせてヨーロッパに滞在していた学部時代の同期で、当時は米国系金融会社で働いていた旧友とローマ、フィレンツェを観光した。ローマのコロシアムで、イギリス在住のギリシャ人研究者と知り合い、しばらく3人で観光した。  その際、ギリシャでも大学の教授は仕事以外の面でも部下より上だという意識が強く、理不尽な振る舞いや、仕事以外の様々な面で干渉してくるため、とても嫌だという話をしていて、日本と似た環境であることを知った。歴史と文化が長く深い国ほど、そういう傾向があるのだろうか。フィレンツェでは主に特産品である革製品を物色し、久しぶりの再開を果たしたフィレンツェに音楽留学中の旧友と、何度か観光と食事をご一緒した。ガリレオ・ガリレイや作曲家ロッシーニの墓参りもできた。ロッシーニのお墓はパリにもあるが、実際にはどちらにいらっしゃるのだろうか。

2008年9月10日~14日スイス

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  チューリッヒで開催される学会に参加するため、スイスに滞在した。東大の出身研究室の大先輩にあたる先生も日本からこの学会で講演するため、チューリッヒにいらしていた。会場はアインシュタイン博士も学び、長年教鞭をとったETH(スイス連邦工科大学チューリッヒ校)。昼は学会に参加し、世界中から集まってきた研究者達と議論を戦わせ、晩は日本からいらしていた先生方や研究者仲間と、チューリッヒ旧市街にある老舗のビアガーデンでビールを楽しみ、名物の1mもある長いソーセージを囲んで親交を深めた。    チューリッヒには作曲家リヒャルト・ワーグナーも一時期居を構えていたらしく、その豪邸は現在市役所になっていた。学会の会期が、運よく週末とくっついていたため、スイス滞在を延長してベルンとルツェルンを観光した。アインシュタインが、学校での成績が悪かったというのは良くある後世のつくり話だったらしく、ベルン市にあるアインシュタイン博物館で展示されていた成績表の説明をしてくれた管理人さんによれば、普通にいい成績だったそうだ。但しいわゆるパーフェクトな成績表ではなかった。東大生でも、どの教科や習い事も驚異的にできる万能タイプと、一芸に秀でているタイプがいた。もっとも、一芸に秀でているといっても、他のこともそれなりにはできるわけである。アインシュタインは学校の生徒としては、後者タイプだったのかもしれない。  ルツェルンはメルヘンな街並みに、たくさんの白鳥が漂っている川に趣のある橋がかかっていて、私がこれまで訪れた街の中で最も気に入った街の一つになった。ルツェルンにもワーグナーの旧邸宅があり、そこには私が最も影響を受けた人物の一人であるフランツ・リストに関わる展示物が多く残されていた。次はルツェルン音楽祭の時期に滞在したいものだ。 ドイツやスイスのドイツ語圏を旅していると、ナチスの宣伝に利用されたとはいえ、ワーグナーのドイツ文化圏に与えた影響が非常に大きかったことを感じることがある。一方で、アインシュタインはユダヤ人であり、後年米国に渡ったという事情もあるが、その全人類に与えた影響の大きさに比べ、その足跡は殆ど残っていない。一般社会と科学者との距離が遠いからなのか。ワーグナーの音楽を聴いて感動する一般市民は大勢いるが、アインシュタインの論文を読んで感動する人は、少なくとも私は出会ったことがない。

2008年8月 Ecole Normal Superieurパリ校

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  かつては毎年数十人しか入学できなかったフランス最難関大学、高等師範学校パリ校(ENS)がrue d'Ulm(ユルム通り)にある。その道向かいにキュリー研究所の建物が並んでいる。いつもデジュネ(ランチ)はENSの学食で食べ、ここで外国人用フランス語講座に参加している。また、この学校の地下の体育館で時々同僚たちとバスケットボールを楽しんでいた。フランスの高等師範学校、通称ENSは、現在では4,5校に増えたようで、パリ校は文学系の学科を主としているようだ。  ENSの学生は、日本人の感覚でいえば、東大生の中で優秀な方から一割だけを集めたような超秀才達である。グランゼコール(フランスのトップ校)出身のフランス人の友人も、rue d'Ulmを歩いている奴らは宇宙人みたいに頭がいい、といっていた。19世紀の小説にも時々登場する。ちょうどその頃、ロマン・ロラン著の「ベートーベンの生涯」を読んでいた。彼もENSパリ校出身だそうだ。彼もこの辺りをうろついていたのだろう。ちょっと想像してみた。  キュリー研究所の我々の研究室の1分子グループメンバーは、上は教授から下はインターンの学部生まで、フランス人はみなENSの卒業生だった。イタリア人と日本人メンバーも、それぞれ母国で最難関大学を卒業していた。いわゆるエリート、秀才ばかりを集めることが、研究グループを組織する上で最良の方法なのかはともかくとして、優秀な人材は企業やビジネス業界に流れる昨今の日本や米国の情勢の中、研究者をしている限り、ここまで優秀な同僚に囲まれて仕事をする機会は、先にも後にもないだろう。

2008年8月7日キュリー博物館

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 高校以来の友人が観光でパリに立ち寄ってくれたため、昼の出勤中は一人でルーブル美術館を観光してもらい、夕方キュリー研究所付属のキュリー博物館に案内した。  この頃は既に、この博物館に案内した知人、友人、来訪者は百人を超えていたかもしれない。ちょうどタイミングの良いことに、日頃大変親しくさせて頂いている技官のパトリック・スーシェットさんが受けつけのお兄さんと雑談をしていた。企業で働いている工学博士の友人を紹介したところ、わざわざ日本から来たのだからということで、見物客は立ち入り禁止となっているキュリー夫人の実験室と書斎に入れていただき、展示されている当時キュリー夫人が使っていた実験器具をいじりながら、それぞれの装置についてや、キュリー夫人について、楽しそうに説明してくれた。こんなに貴重なキュリー夫人の遺品を、さも自分で使っている実験器具であるかのようにいじっているスーシェット氏を見ながら、キュリー一家の栄光の日々と今に生きる我々キュリー研職員、人類史上の偉人と一介の無名研究者である自分の距離が、この場所ではとても近いことを改めて気付かされた。

2008年7月29~8月4日ニース音楽アカデミー2週目

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フィリップ・アントルモンのクラスが始まった。戦後にアメリカで大ブレークした歴史的大ピアニストで、マルグリッド・ロン最後の弟子の一人である。  アントルモンなるピアニストの名前については、もはや歴史的大ピアニストという印象が強く、この講習会に申し込む際、講師リストで彼の名前を見た時、まだ彼が生きていたこと、また指導者として現役であったことに驚いてしまった程だった。フランスのピアノ界に、アルフレット・コルトーやピエール・サンカン(ギャルドン先生や岩崎セツ子氏の先生)が外国、特にドイツ系ピアニズムの奏法を、前者は主に演奏者として、後者は主に指導者として、フランス系ピアニズムと融合して広める前の、19世紀から続くフランスの伝統的な「真珠のネックレス」と呼ばれるピアニズムの大家の最後の生き残りだと、素人の知見ながら私は認識している。この講習会の直後、オリンピックで演奏するために北京に向かったことからも窺い知れる通り、現在もなお世界を代表するピアニストの一人である。  彼のクラスは終始英語で行われた。生徒は、レイフ・オヴェ・アンスネス(ノルウェーの国民的大ピアニスト)に師事することが決まっていたノルウェー人、ポーランドから母親と共に来ていた少女、香港人生まれのアメリカ人に、日本人4人だった。この時、付き人兼生徒として参加していた、既に華々しい演奏活動を始めていた才能あふれるピアニスト、戸室玄氏と出会った。初めにフランス語が分かる人はいるかと生徒に向かって問い、日本人男子3人が挙手した時、”Bravo Japonais !”(日本人ブラボー!)と満足げに言い放った。  一方で彼の人間性については、フランス人芸術家ののんきで自由な面がもろに言動に表に現れるタイプであり、終始生徒や関係者を困らせることが多かった。この講習会でも、彼が音楽院に現れたのはその週が始まって2日目だった。初日、まず生徒が全員集められ、「何か1曲ずつ弾くように。あまり長い曲にしないように。」との指示で、生徒がいきなり何の準備もできない状況で一曲ずつ演奏させられた。彼のクラスを受講するたけの準備と心構えのない生徒を断るためのテストだったのだろう。ヨーロッパのハイレベルな講習会では、クラスの始まる前にオーディションがあり、受講する生徒を選抜するのが通例である。高校時代に鹿児島で、鹿児島音楽界の重鎮で

2008年7月21~28日ニース音楽アカデミー1週目

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  二度目のフランス滞在は、研究を進めるという本業の面でも、ピアノを学ぶと趣味の面でも、更には学会や観光でヨーロッパ中をより自由に行き来しできたという面においても、一度目の滞在に比べ、更に充実し、かつ様々な意味で、ワンランク高いレベルでの活動が可能になっていた。  自由に使える研究費の額も多く、助けてくれる知人・友人もそれなりにいて、パリやフランス社会に慣れていたことも大きかったが、なによりもドクターの称号と、少しばかり使えるようになったフランス語を持っていた。殊にピアノに関しては、私の人生で最も練習をし、多くのレッスンを受け、音大のディプロムを取得し、一流のピアニスト達から学び、また彼らに学ぶ将来の世界的音楽家達と20代という多感な時期に親交を深めることができた。そんな音楽的にも充実した1年半に及んだ2度目の滞在においても、私のピアノにとっての最大のイベントは、やはりプロの面々に混ざって音楽を学ぶ夏の講習会だった。2度目の渡仏が決まり、その準備を東京で始めていた時に、既に2008年夏の講習会の申し込みが始まっていた。2006年の夏は、ニース音楽院の講習会に参加したため、当初は別の講習会に参加しようと思い、キュリー一家の別荘もあったリゾート地クールシュベルで行われる講習会に参加する予定だった。一旦申し込みはしたが、ギャルドン先生を通さずに申し込んだため、主催者であるパスカル・ドヴァイオン先生から、ギャルドン先生のクラスはもう一杯だと返事が返ってきた。ギャルドン先生に頼み込む手もあったが、先生と電子メールでやりとりしている中、先生からニースに来るようにとおっしゃったため、この夏もニースの講習会に参加することになったのである。クールシュヴェルの講習会に参加していれば、それなりの学び、経験と出会いがあったのであろうが、ニースでのそれらがあまりにも濃密、刺激的であり、ある意味衝撃的でもあったことを思うと、この年ニースに行ったことは、その後のパリ生活と残り少なかったピアノ人生に計り知れない影響を与えることになった。  2年前に参加した時は、もう来ることはないと思っていた国立地方音楽院ニース校(CNR)は、その前年に新しく立派な校舎と寮が完成しており、今回はそこで参加した訳であるが、2年前に滞在した伝統的な建築と古き良きフランスの雰囲気を醸し出し、ギャルドン先生や

2008年7月18, 19日

 平日はひたすら実験の日々が続いていたこともあり、週末オックスフォードにショートステイ中だった若い友人が、パリに遊びに来てくれて一緒に観光したことは、とても良い息抜きになった。  キュリー研とその周辺界隈を案内し、キュリー研のカフェでコーヒーを飲んだ。キュリー研の近所にあるので、毎日眺めてはいるがまだ内部を見学したことのないパンテオンの地下に入った。ここにはフランスに多大な功績のあった偉人の遺体を集めて安置している。ここに初めて入り、キュリー夫妻と大好きなヴィクトル・ユゴーのお墓参りをした。  翌日、その友人とパリ散策にでかけ、モンマルトルに立ち寄った。いつもは素通りしていた、モンマルトルの若手画家が所狭しと陣取っている小さな広場に入った時、ふと妙に懐かしい気がした。5歳くらいの頃、家族とここに来た覚えがある。その時の光景が脳裏に浮かんだのだ。この道の、この角度からの風景、一枚のスナップショットだけ、明瞭に記憶に刻まれていた。あれからもうすぐ四半世紀。米国ボストン郊外のベルモントに家族で住んでいた幼少期、家族でヨーロッパ一周旅行をした際、イベリア半島を除く西側諸国の主要都市と観光地を回った。その時の光景が、幼い頃の記憶として、パリや他国の主要スポットを再訪問した時々、記憶の書庫から静止画としてよみがえり、目の前の光景と照らしあわされることが度々あった。パリはその書庫に最も多くの情景が収められている街であり、パリ滞在中にこのような郷愁を誘うフラッシュバックはしばしばだった。  この晩は彼と、国際学園都市の中庭でパリの初夏の乾燥した心地よい夜風の中で、パリのワインと沖縄の泡盛を楽しみながら、互いの将来の夢や、フランスの格差社会、いかに日本が素晴らしい国であるかなど、様々な話題について語り合い、イギリス館の小生の部屋で夜を明かした。短い時間だったが、パリを楽しんでもらえたようで、案内した側も満足感があった。彼とは、この時から最も大事な友人の一人となり、帰国後東京で相当な量の日本酒や焼酎を一緒に飲むことになった。