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2009年9月24日ジェフスキ氏とパリのラーメン屋で

  バスチーユのオペラ座で演奏会に出演するため、フレデリック・ジェフスキさんがパリに一人でいらした。2晩しか滞在しないのに、着いた初日に会って頂けるとは、なんとも光栄で嬉しいことである。その前日に突然電話で連絡を受け、びっくりしたと同時に、パリを去る直前にお会い出来ることにご縁の強さを感じた。  オペラ座前の階段で待ち合わせた。すこしやせて耳が遠くなり、髪もさらに薄くなった感じを受けたが、相も変わらずますますお元気そうでよかった。日本料理が食べたいのでどこかいいところ連れてってくれと言われ、かなり迷ったが、来日公演の際、高級料亭より屋台ラーメンが美味しかったという話をだいぶ前に伺ったことを思い出し、メトロのピラミッド(Pyramid)駅近くの、日本人が経営する庶民的なラーメン屋に連れて行った。特に餃子を気に入ってくれたらしい。あんなに小さなラーメン屋で歴史的大作曲家であるジェフスキさんとチャーシュー麺を2人ですすってキリンビールを飲んでいるとは、何というシチュエーションであろうか。いつもの調子で、哲学的な科学と音楽のうんちく話であっという間に時間が過ぎた。毎回とても興味深い話をしてくれるが、いつも別れたらすぐにその大半を忘れてしまう。毎回録音していたら、今頃本が一冊仕上がっただろう。   ブリュッセルから来たのかと聞くと"It's a long story"というので何かと思えば、2人目の奥さんから一緒にすまない方がいいといわれてブリュッセルの自宅を追い出され、ロンドンの友人宅にかくまってもらっているらしい。そして土曜は1度目の奥さんと家族がパリにきて久々に集まるらしい。そんな彼ももう71才である。 明後日の演奏会には、自分も親しい2つめの家族の息子さんノーム君と娘さんエスターが来てくれるらしい。21曲作るといっていたナノソナタも、筆が止まらず42曲書いてしまったらしい。とりあえず土曜に演奏会で会おう。3月にもニューヨークでウルスラ(女流ピアニスト、ウルスラ・オッペンス)と一緒に会おうといってくれた。その頃にはナノソナタも更に増えているのかもしれない。   演奏会前にお疲れにならなかったか心配しながら、更に老けたマエストロの後ろ姿をメトロで見送った。初めて東京でお会いしてから10年が経っていた。当時私はまだ10代であった。私も彼

2009年9月19, 20日先輩の結婚式@ボルドー

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沖縄出身でフランスに永らくピアノ留学していた先輩の結婚式で、ボルドー地方を訪れた。フランスの結婚式は市役所での調印式が終わった後は、ひたすら朝まで飲み明かす、そんな感じに形式張ったところがなくなごやかで、朝まで飲んで踊ってとにかく楽しく、なんだか沖縄の結婚式に近いものを感じた。 お二人とも緊張ぎみでかたかったが、とても輝いていた。フランスの片田舎での結婚式、純粋にフランスらしい結婚式に参加する機会があり、とても良い思い出になった。それにしても100%フランス語だけの一日は、さすがに疲れた。

2009年9月17日論文採択通知

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 キュリー研を去る直前に、ようやくここで数年に渡り遂行してきた研究成果をまとめた論文が米国科学アカデミー紀要(PNAS)に採択されたという連絡を受けた。2005年から2006年にかけての1度目のキュリー研滞在時に実験系の開発から生物実験のプロトコルの立案まで、厳しいけれども創造的なチャレンジを、自分の采配でさせてもらう稀有な機会に恵まれた。回転型磁気ピンセット(これをヴィオヴィ先生は「新世代磁気ピンセット」と呼んでくれた)の奇跡的な発明が功を奏し、2006年6月20日Rad51蛋白質がDNAをねじる運動を世界で初めて観測することに成功した。その直後に、蛋白質が一分子ごとにDNAをねじる運動も観測された。ヴィオヴィ先生が「エレガントで美しい」と評してくれた実験手法と、その観察された現象のあまりの新規性に、その後しばらくは研究所外に情報が漏れないよう厳戒態勢が敷かれた。内部情報を知ることのできる物理化学部門では食事中の話題も、廊下の立ち話も、大学院生からノーベル賞受賞者まで、自分が作った実験系と実験成功の話題でもちきりだった。しかしそれもほんの数ヶ月の束の間、一流の世界では当然のことながら、しばらく経つとまるでこの仕事が完全に忘れられてしまったかのように誰も口にすることはなくなり、あとはひたすら論文にまとめるための実験に数年の歳月を費やしてしまった。何年にもわたる地味で複雑な作業の繰り返し、米国科学アカデミー紀要(PNAS)の審査過程の厳しさ、追加実験の困難さなどで主要プレイヤーである自分とジョバンニは、既にこの頃には疲れ果ててしまっていたようである。あるいは学術雑誌中の最高峰Science, Nature, PNASのどれかには採択されて当然の成果だと我々も周りも確信していたものだから、なお更不採択にはさせられないというプレッシャーがあったのかもしれない。  採択の知らせを受けた当日、既に去ってしまった共同研究者や噂をきいた他グループのメンバーや大ボス、ヴィオヴィ先生がお祝いのメッセージを送ってくれたが、その時キュリーにいた当事者である自分とジョバンニはその日何度会っても一度もそのことを話題にすることなく、いつものようせかせかと仕事の話しかしなかった。以前は採択された時はみんなでシャンパンをと思っていたが、それどころではない忙しさやこの研究に対する疲れからか

2009年9月9日キュリー病院

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  パリを去る日程がほぼ確定してきたこの頃、キュリー研では研究を引き継いでくれる予定の大学院生さんに、引継ぎを徐々に始めていった。私の発明した次世代磁気ピンセットシステム(FRMT)を使った研究をアメリカでも日本でも行う予定はなく、私が去っても、キュリー研のこの場所で、誰かに使ってもらい、更なる研究発展に寄与してもしいと切に願った。この研究の今後の発展は彼にかかっている。しっかりやって欲しいものだ。アメリカに移った時も、日本に戻った時も、年に1度は出張でキュリー研を訪れ、この装置が稼働しているのを見るたびに、とても誇らしく、かつ嬉しく思った。  キュリー研(研究所と病院)職員による演奏会の時のCDを受け取りに、キュリー病院へ、演奏会主催者の一人であるコリーヌさんを訪問した。キュリー病院に入ったのは、1度目の訪問時に予防接種を打ちに行った依頼、3年半ぶりだった。コリーヌさんが、小児病棟で、がんに苦しむ子供たちを見て欲しかったらしく、彼らの可哀そうな病状を説明してくれた。ジョリオ=キュリー夫人も最後はこの病院に担ぎ込まれたらしい。  晩は友達4人で、フランスで初めて映画館にいった。ジーアイジョー(G.I. Joe)は子供の頃ボストンで流行っていたのを覚えているが、原作とは余りにも違い、トランスフォーマーの実写映画に同じく、半分ギャグのように感じた。フランス語吹き替え版のアメリカ映画を初めてみたのも初めてだった。

2009年8月25日赤門同窓会@パリ

 ロンドン留学中の大学・サークルの同期と、旅行で来ていた同じくサークルの同期、彼のハーバード時代のルームメイトで医師・神経科学者の M 君とで集まった。キュリー研とその周辺を案内し、レアール広場の辺りで食事をした。金融マンや官僚さん達には、キュリー研やソルボンヌなどの古い伝統ある建物には興味をもってもらえなかったようだ。