投稿

6月, 2012の投稿を表示しています

6月11日ワイマール

イメージ
 この日は知人夫妻と鉄道で文化の都ワイマールへ。リストやメンデルスゾーンが宿泊していたホテル・エレファント前の広場で昼食をとり、フンメル、シラー、ゲーテのお墓参りをした。一番楽しみにしていたリスト博物館は残念ながら閉館していた。ここは個人の所有物なので、持ち主の気まぐれにしか開館しないそうである。ここを訪れたというリストファンの知人を何人か知っているが、その中で館内を見物できた人の話はまだ聞いたことがない。かつてリストが住んでいたこの住宅は、何度も写真でみたことがあり、この地に来たことをゆっくりかみしめ、残念ではあったが次の機会に思いを託した。運の悪いことに、シュバイツァー博物館も閉まっていたが、小道を歩いていると突然ポーランドの詩人ミケウィッチの胸像が現れるなど、まさしく様々な文化人の痕跡に出会うことのできる、文化の都にふさわしい街だ った。  パリの職場ではイタリア人に囲まれた生活を送り、ラテン系の文化や感覚に馴染んでいた私にとって、日本人が特に科学と音楽において明治時代から取り入れてきたゲルマン文化の崇高さと偉大さを思い出させてくれる旅だった。

6月10日キュリー発ベルリン

イメージ
 日本人研究者にとって「徹夜で実験」は、何度も経験せざるを得ない通過儀礼みたいなものである。日本とは違い、毎日皆が6時に帰るフランスで、前日晩から初めて泊まりがけで実験をしてみた。徹夜をする必要があったからではない。翌日ベルリンへ旅行に出かける電車の発車時刻が早かったため、研究所から直接駅へ向かった方が早かったからである。  おそらく人生で一度しか経験することがないであろう深夜のキュリー研究所内は幽霊屋敷のような雰囲気で、中庭のキュリー夫妻像が不気味に佇んでいた。日本人研究者の気質が抜けていなかったからであろうか、まるでサボっていないか監視されているかのような霊気を感じた。午前3時まで実験をし、一時間居室の床で仮眠をとり、4時にキュリー研を出発。週末をベルリンの知人宅で過ごすため、オルリー空港から6時すぎの飛行機でベルリンに向かった。  知人の調律師夫妻も音楽通であったため、2夜連続でベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏をカラヤンホールで、しかも同じプログラムで鑑賞した。知人の計らいで、ホールの後ろの隅っこであるが、値段が安くかつ音の届きが一番よいという席で聴くことができた。良い耳をもった者だけが知る穴場ともいうべき席だった。最初の音が鳴った瞬間から、他のオーケストラとは比較にならないほど調和のとれた音に、特に弦楽器における均質性に度肝をぬかれた。一流の指揮者のもとで団員が気のりした時は見事な色彩を見せるが、そうでない時はそれぞれが気ままに弾いているように感じるフランスのオーケストラを聴きなれていた私にとっては、これだけでも驚愕に値した。ベートーベンのピアノ協奏曲第3番を弾いたラドゥ・ルプーのピアノも東京で聴いて以来だったが、カラヤンホールでベルリンフィルとの共演は趣が全く違った。

6月6日小さなソナタ

 キュリー研宛てに、めずらしく大きめの封筒が郵送されてきた。送り主はフレデリック・ジェフスキ。最近彼とは何もコンタクトをとっていなかったが、中身が何であるか、手に取る前に直感でわかった。またその封筒の薄さに少し安堵した。開封すると3枚の五線紙が入っていて、冒頭には"NANO SONATA" Frederic Rzewski for Hideyuki Arata (May 2006)。後になって振り返ると、人生で最も光栄な出来事の一つであってもおかしくなかったが、なぜか全く興奮もせず、とりあえずコピーをとっておき、また仕事に戻って深夜まで淡々と実験を続けた。  先日、私が3年かけて完成させた研究を凝縮した3ページの論文が米国の学会誌から発表され、知の師匠ともいえる旧友のジェフスキ氏に献呈した。その研究の実験映像をブリュッセルのジェフスキ氏宅で見せた時のインスピレーションを基に作曲した、たった3ページのピアノソナタだった。おそらく3時間程度の短い時間で即興的に書きあげたのだろう。彼の2番目のソナタである(1番目は1時間くらいの大曲)。数年後、オフィシャルな告知で「Hideyukiに、テクニック的にはある程度挑戦的で、しかし練習にそれ程時間のかからない曲を書こうと思った。」と発言していたことが分かった。過去に何度もピアノを弾きあった仲であり、私の演奏技術の未熟さと仕事の多忙ぶりをご存知の上での、何とも親切で教育的な配慮であろう。  仕事が忙しかったこと、ピアニストの先生方とは勉強中の他の曲で手いっぱいであったこと、曲の難易度が高かったことや、大作曲家が自分のために書いてくれた曲を弾くことの重圧に、しばらくは譜読みを始められなかった。日本に帰国後、本格的に練習を始め、2007年秋にアマチュアの演奏会で、トム・ジョンソン氏の「パスカルの三角形」と共に、初演することになった。個人的には仲良くしていた旧友からの素敵な贈り物に当然嬉しく、作曲者への感謝の念でいっぱいであったが、その作曲者がジェフスキ氏であったことから、この時から私は「ジェフスキ氏にインスピレーションを与えてナノソナタを作曲するに至らしめた科学者」として、科学史ではなく音楽史に少なからず名を残すことになった。

6月4日ルーブル美術館

  日曜休日。フランスでは、第一日曜は国立の美術館、博物館が全て無料である。この日はルーブル美術館を回った。「モナ・リザ」や、「ナポレオンの戴冠式」など、幼少期にここを訪れた時の記憶がのこる絵画達と、20年ぶりに対面した。20年前は、「モナ・リザ」は他の絵と同様、壁にかけられていたが、この絵だけが唯一ガラスケースで覆われていたことを覚えている。今では「モナ・リザ」だけ部屋の中央に、特別な壁が用意され、厳重な警備つきで保護されていた。また、当時は館内を巡る観光客の人数も少なく、比較的静かだったことを覚えているが、今ではアジア人観光客でごった返している。パリの街と作品らは変わっていなかったが、白人の中に唯一のアジア系として日本人が市民権を得ていた時代から、中国人、韓国人、アラブ系、アフリカ系が移住を目指して押し寄せてくる時代へ、社会は大きく変わっている。

5月31日ジャック・モノー追悼セミナー@パスツール研究所:アルフレット・ブレンデル@シャトレ劇場

イメージ
 ルイ・パスツール、ピエール&マリー・キュリーと並びフランス科学史上最も重要な科学者に位置付けられるジャック・モノーの没後30 年を記念して、パスツール研究所内ジャック・モノー記念講堂で追悼セミナーが行われ、キュリー研究所の職員には招待案内が回ってきたので1年ぶりにパスツール研究所を訪れた。壁にはチェロを弾くモノーの写真があった。職務外活動の写真をこのような場所に掲げることが「不謹慎」とならないあたりも、フランスらしい。招待講演はDNA二重螺旋構造発見者のフランシス・クリックと共同でDNA暗号解析に携わったシドニー・ブレナー(後に別の研究でノーベル生医学賞受賞)や、モノーと共にノーベル賞を受賞したフランソワ・ジャコブら、モノーとパスツール研究所で研究をしたことのある錚々たる面々であった。ジャコブ博士はもはや歴史上の人物であり、まだご存命であったことすら知らなかった。まるでシーラカンスを見ているかのような感覚だった。ちょうど先日、シャンゼリゼ劇場の客席で、もはや歴史的作曲家の仲間入りを果たしているアンリ・デュティユーを目撃した時と同じ感覚だった。   ブレナー博士は沖縄科学技術大学院大学(OIST)の初代学長に担ぎ上げられていたので、講演後挨拶をして少し議論を交わした後、自分が沖縄出身であることを話した。大学院大学の学長になるのかと伺ったところ、彼は「No! そんな気はない。ただ立ち上げ段階で助言をするだけで、それ以外何もする気はない。あとはすきにさせればいい。」と一蹴された。彼を学長として担ぎ上げる日本政府による公的発表からは予想すらできない発言である。ノーベル賞受賞者という肩書きがある人を学長に据えなければという事情は分からなくはないが、本人の意思とここまで異なる話がまかり通るのか。案の定、後日ブレナー博士が「学長を降りた」という噂を沖縄経由で知ることになった。またその後、再び学長に収まったという話も聞いた。  晩はシャトレ劇場でアルフレット・ブレンデルのピアノリサイタル。彼のピアノを聴くのは最後になるだろう。

5月30日ヴィオヴィ論「芸術と科学」

 この日は久しぶりに研究室主催者である大ボスのヴィオヴィ先生とランチをとり、その後キュリー研のキャンティン(カフェ)でコーヒーを飲みながら、私が取り組んでいる研究プロジェクトの進捗状況と今後のビジョンについて議論を交わした。まだ目に見える成果が出ていないため、また私の帰国が数か月後に迫っているため、そろそろ大学院生のピエール君にプロジェクトの引継ぎを初めてはどうかという話をされた。ちょっと悔しい話しではあるが、滞在を延期することは東大側から認められるとは思えず、一旦東京に帰った後、再度パリに戻ってくるためには2年近く拘束されるであろうことを考えると、仕方のない事なのかもしれない。ビッグボスによくある話しではあるが、彼はこのプロジェクトはすぐに結果が出て終わると思っていたらしい。どこまでの結果を期待して、どの程度で終える予定だったのであろうか。その後、誰も予想だにしなかった成功をおさめた事を考えると、今となってはどうでもよいことである。  その日の会話で、先生の奥様が画家であるという話を聞いた際、先生が「芸術は評価が主観的でかつ他人によってなされるので、芸術を生業とすれば、自分の仕事は死後にしか認められない可能性だってある。一方で、科学は評価が客観的で、ある程度はcriteria(判断基準)があるので、科学を生業とする方が、自分が生きている間に成功することを望む場合、効率的な選択肢なのかもしれない。」と、知的な文化人らしい発言をされた。私も全く同感である。ここでは深い洞察と高い教養が尊重されるのと対照的に、日本の研究者の間では研究馬鹿であることが良しとされ、思考よりも知識が重んじられる傾向にあるのかもしれない。   帰宅途中、ノートルダム寺院でパイプオルガンの演奏を聴いた。

5月27日モネ作「睡蓮」

 土曜休日。かつてはリストやサン=サーンスが弾いていたマドレーヌ寺院のオルガンの演奏を聴き、先日ジグマノフスキ氏に勧められたモネの睡蓮をみるためにオランジェリー美術館へ向かった。観光客で混雑していたため、入館まで1時間も待つ羽目になった。モネの「睡蓮」に行きつくまでにも、ルノワールやピカソの素晴らしい絵画に釘づけになった。肝心の「睡蓮」が展示されている部屋にたどり着いた時は、既におなか一杯になっていた。そのせいもあってか、「睡蓮」をじっくり鑑賞し、自分なりのものを吸収するには、この日限りにおいては消化不良と言わざるをえなかった。もしくは、もっと感性を磨く必要があったのかもしれない。   その帰り、グラン・パレ内の科学技術博物館「発見の殿堂」へ立ち寄った。グラン・パレは1900年のパリ万国博覧会のために建てられた、その名の通りお城のような建築物の展示会場である。古風で芸術的な建築物の中に、最先端科学技術の展示が常設されている。「科学が否定しようとすることを、芸術は喚起しようとする」とは誰の言葉だったか、一見かけ離れた世界であるかのような、若しくはお互い否定しあうかのような芸術と科学が、無理やり押し込められたように混在している空間に、何とも言えない違和感を感じたと同時に、温故知新、古い伝統と文化を守りつつイノベーションを起こしながら絶えず未来に向かって変革していかねばならないヨーロッパのおかれた立場を体現しているかのようであった。

5月23日レオン・フライシャー@シャンゼリゼ劇場

 キュリー研では地味な実験が続いていた。特にここ数日は不可解な問題がでてきて頭を悩ませていた。小学校以来座右の銘となった「努力、忍耐、根性」で乗り切る他の道はない。  晩はシャンゼリゼ劇場でレオン・フライシャーのピアノリサイタル。米国のピアニストで指揮者としても活躍しているフライシャー氏は、半世紀も前のキャリア前期に局所性ジストニアで右手の自由を失い、その後左手のみの曲で演奏活動を続けていたが、その頃、ボトックス療法で右手が回復に向かい、両手で弾く曲を徐々にプログラムに組み入れ始めた頃であった。この日のプログラムは左手のみの曲と両手による曲、双方から構成されていた。ブラームスが、右手を故障したクララ・シューマンのために左手だけで演奏できるように編曲したバッハの「シャコンヌ」からは、長年弾き続けていた老練さと苦しみ抜いた者が持つ強さを感じた。プログラム最後のシューベルト作曲の最終ソナタは両手で演奏する曲であるが、右手がやはり完全に回復したわけではないためか、表面上はかなり控えめな演奏であった。ちょうどパリに来る少し前、東京で大学の後輩が師事していた先生 のCDでこの曲を聴き、その情熱的な演奏の虜になり、出国までにその先生レッスンを数回受けていた。その先生は、米国でフライシャー氏にも学んでいたらしい。フライシャー氏のその日の演奏は控えめでありながら、彼女の演奏と共通する情熱と意思の強さを感じ、核となる主張したいパッションや価値観は近いものであるかのような印象をうけた。アンコールを弾く際、聴衆に向かって言い放った”Applaud is a receipt, not a bill”という言葉が、幾通りの解釈が可能であるが、長年の演奏活動で培った経験の重みとユーモアが感じられ、印象的であった。

5月22日NAMIS会議@パリ南大学

イメージ
 オルセーのパリ第11大学(パリ南大学)で、東大の先生方が企画されているNAMIS会議が開催された。東大から私がお世話になった、関係分野の先生方が大挙していらっしゃるということで、キュリー研を休み、NAMIS会議に参加した。午後遅い時間に、そのうち数名がキュリー研を見学にいらしたので、実験室などを案内して研究に関する議論を行なった。夜はパリ市内のSt. Michaelにてガラディナーに参加した。久しぶりにお会いする東大の先生方と、それぞれの近況について報告しあい、しばし東大の戻ったような、アットホームな雰囲気を楽しんだ。

5月21日ジグマノフスキ邸@パリ郊外

 友人の勧めで、彼女が師事していたピアニスト、パトリック・ジグマノフスキ氏の合同レッスンを聴講するため、ジグマノフスキ氏宅にお邪魔した。ご自宅はパリ郊外の閑静な住宅街にあり、素敵なお庭があった。数名の生徒さん達のレッスンを聴講したが、中でもその友人の弾くラヴェル作曲「スカルボ」が、光と悪魔的な要素が共存した魅惑的なオーラを放っていた。レッスン終了後、ジグマノフスキ氏と立ち話をしたその場で、後日彼のレッスンを受けることが決まった。  夕方からシャンゼリゼ通りのバーで、先生と生徒さん達とご一緒し、先生の生い立ち、奥様の横浜のご実家で慶応大学の生徒さんのピアノを聴いてとても上手でびっくりしたこと、私とのレッスンをとても楽しみにしていることなどを語ってくれた。ジグマノフスキ先生とは、ギャルドン先生らに比べると年齢が近いためか、お互い様々なことについて語り合うことができる。

5月20日サン・ジェルマン・アン・レー

イメージ
   土曜休日。友人達と4人で作曲家ドビュッシーが住んでいたパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに向かった。荘厳なサン・ジェルマン・アン・レー城を見学し、ドビュッシーが過ごした家を訪れ、ここで生まれたであろう数々の名曲を思い浮かべながら、在りし日の巨匠と彼を取り巻く芸術家や上流階級の文化に思いを馳せた。その後、知人の家で午後から宴会を始めた。パリ中心部から多少離れているため、空気が美味しく、ヨーロッパの澄んだ日光が心地よく、とてもお酒が進み、友人達といつも通りのたわいもない会話を楽しみながら、至福の時を過ごした。 知人の家にあったピアノは昔から好きだった Boston だった。

5月19日仕事の後はユンディ・リ@シャトレ劇場

 晩に予定があるときに限って実験が上手くいき、切り上げられなくなるものである。これ以上続けても効率が上がらないと客観的に判断した時点で実験を切り上げた。日本人的働き方では、こういう場合でも実験を続け、とにかく長時間労働をすることにより自己満足感を得る、又は上司に認めてもらうところであるが、ここでは長時間労働自体が価値基準とはならないどころか、長時間労働は「無能の証」として認識されるのである。私はこの頃から、最も効率的に成果を挙げる働き方について、多くの日本人のように罪悪感を感じることがなくなっていて、その後もより短い期間で成果を挙げることを第一の目的として仕事を続けるようになった。  予定より少し遅れてシャトレ劇場に到着した。CDで聞いた時は指が動く優秀な音大生という印象しか受けなかったユンディ・リ氏であったが、生で演奏を聴いたのは初めてであった。やはり耳の超えているフランスの聴衆からお評判はいまいちであったらしく、客席はガラガラだった。シューマン作曲の「謝肉祭」でも、音を外すリスクの高い「パガニーニ」だけを省略して演奏したり、音色もモノトーンだったり、専門家の間では評価が良くなかったらしいが、素人の自分からは、少なくともメカニカルにはレベルの高い演奏に聞こえた。

5月13日フランシス・クリダ@モガドール劇場

 土曜休日。午後4時からMogador劇場でフランシス・クリダの演奏会。オーケストラはOrchestre Pasdeloup. 地響きのような力強い音によるリスト作曲「死の舞踏」、「ハンガリー幻想曲」が超重量級で圧巻だった。これら2曲を連続で聴いたのは初めてであったが、これが世界初のリスト全集を完成させたリスト弾き、マダムリストと呼ばれたフランシス・クリダを聴く最初で最後の演奏会となった。

5月12日ギャルドン先生

  午前中お休みを頂き、ギャルドン先生のご自宅に向かった。毎回レッスンの日は、約束の時間の少し前に先生のご自宅近くの決まったカフェでエスプレッソを飲み、体を温めてレッスンに臨んだ。今日のレッスンでは、見て頂いたドビュッシーの曲については「色があって大変結構」と言われたが、サン・サーンスのワルツが技術的にも読譜的にも全く不完全で、先生も相当困って熱くなっておられた。しかしそれでも、テクニックの抜けている基礎的部分を、神がかり的な教授術で教えて頂き、内容の濃いレッスンとなった。その日何度も繰り返し教えられた「手の動きを目で見て練習しろ」というある種卓越した職人的価値観とでもいえそうなご教示は、その後ピアノと向かい合う際、常に意識せざるを得ない指針となった。但し、同じアドバイスを頂いても、それがどういう価値を持つかは、習う側がどう感じ、そこから何を得るかによって異なってくるものである。少なくとも私にとってこの教えは神がかり的なものとして受け止められた。  午後はキュリー研で働き、晩は CNR(国立地方音楽院)パリ校 で沖縄の大先輩のリサイタル。沖縄県立芸大と CNR の交換演奏会だったようである。そこでもギャルドン先生にお目にかかった。

5月7日帰パリ:読谷村ご一行との会食

イメージ
 ブダペスト最後の朝、世界一綺麗なマクドナルド店として観光ガイドブックなどで紹介されている店で朝食をとった。この雰囲気に便乗し、普段は節約して滅多に買うことのないデザートのアップルパイを奮発して追加した。その後シナゴーグ(ユダヤ教の教会)と国立博物館に立ち寄った。シナゴーグには立派なパイプオルガンがあり、リストやサン・サーンスがよく演奏していたそうだ。ちなみにパリのSt. Eustache教会でも、リストやサン・サーンスがよくオルガンを演奏していたらしい。19世紀のオルガン奏者といえばこの二人が代表格なのであろうか。もっとゆっくり観光をしたかったが、出発まであまり時間的余裕がなかったため、急いで空港に向かってパリに戻った。  パリの空港に到着後、自宅に戻る間もなく荷物をもったまま、Balard駅近くの中華料理店で沖縄県読谷村からの空手関係者、行政関係者ご一行との会食に向かった。彼らは沖縄から大量の泡盛を持参していて、それらが終了時には完全に消費されていた。村長さんとの会話は「君はどこにいっていたの?」、「ハンガリーにいっていました。」「ハンバーグ?」「ハンガリーです。」「ハンバーガー?」という感じだ った。キュリー研究所で働いていると伝えると、「キューリの次はメロンでいこう!」、「ではカーネギー・メロン大学ですかね」とも。どこへ行っても沖縄人のユーモアを忘れないことは大切であるが、何の目的で彼らがパリを訪問したのか、得られた物は何かなど、もっと実りある話しも聞きたかった。代議士の先生や、大河ドラマ「琉球の風」で三味線を弾いていおられたお二方にもご挨拶をした。世界中どこへ行っても同じように、琉球三味線、歌と踊り、泡盛で盛り上がり、最後はかちゃーしー(沖縄民謡の演奏にあわせて聴衆が両手を頭上に掲げて左右に振り、足も踏み鳴らす踊り)で締めくくった。

5月6日ブダペスト

イメージ
 この日、間借りしていた音楽留学生に、彼が通うリスト音楽院を案内してもらった。彼は練習に向かい、私もその間練習室でピアノを弾く機会にも恵まれた。折角なので、リスト晩年の宗教音楽「王の御旗」や「スルスム・コルダ」など数曲を弾きながら、壮絶で華麗でロマンに満ちたリストの人生と、彼が生涯愛したブダペストに思いを馳せた。  その後一人で市内のリスト博物館を訪れた。小学校5年生の時、学校の図書館で初めてリストの伝記に出会って以来、本や写真で度々目にし、脳裏に焼き付いているリストや家族の肖像画、愛用のピアノや銀の譜面台などの現物が所狭しに展示され、ついにこれらの遺品と出会うことができたと思うと、感慨深く、巡礼の地を訪れた気持に浸った。  ランチはフォアグラで有名なレストランで、特大のフォアグラ料理を頂いた。信じられない安さと美味しさであった。若いうちに食べる機会に恵まれて本当によかった。もう少し年を取ってからでは、自分がフォアグラになってしまうことを危惧して、このボリューム満点のフォアグラを堪能できなかったであろう。夜もハンガリー料理を頂き、ブダペストの美しい夜景を堪能し、ハンガリー最後の晩は間借りしていた知人とピアノ音楽やピアニスト達について遅くまで語り合った。  

5月5日Ormos研究室訪問(セゲド)

イメージ
 その日は朝から国立生物物理学研究所Ormos先生の研究室を訪問した。まず自分の研究を紹介し、彼らの最新の研究を説明して頂き、また今後の研究構想などについて様々な議論を交わした。彼らも私が東京で行っていた回転型モータ蛋白質の実験を始めようとしていて、担当の大学院生に実験のアドバイスもした。その大学院生とはその後パリに戻ってからも、頻繁に電子メールでアドバイスや議論を続けた。彼らのグループでは、レーザートラップ技術を用いたDNA一分子操作について卓越した成果を得ていた。彼らはとても聡明で親しみやすかった。  最後にOrmos教授が彼の車で近くの教会を案内してくれた。この教会にはハンガリーの英雄や偉人達の胸像があり、リスト、バルトーク、コダーイら音楽家に交じり、ノーベル賞受賞者アルベルト博士を見ることができた。Ormos教授に駅まで送って頂き、ブダペストに向かった。ここでOrmos教授らと交わした議論からは、その後のパリでの実験系の開発に役立つ多くのアイディアが生まれていた。  日本ではそれまで、教授という肩書の人の口からは、精神論による一方的な指導や叱責しか聞いた事がなかった私にとって、Ormos教授との双方向の対等な議論、意見交換は、お互いに大変有益なものであっただけでなく、新鮮に感じた。日本で年輩の教員に大学院生や若い研究者と研究の具体的な話を避ける人がいる理由は、精神論で一方的に押さえつける方が楽だからか、もしくは研究の議論をする自信がないからであろうか。  帰りはブダペストにしばし滞在し、観光にあてた。知人に紹介された音楽留学生と落ち合い、ブタペストの主要なコンサートホールであるネムゼクティホールで、シューベルト交響曲「未完成」やバルトークのヴィオラ協奏曲の演奏を聴いた。予想外にレベルが高く統制のとれたオーケストラで、満足のいく演奏会だった。  その後、こじんまりとした趣のあるレストランを紹介して頂き、ハンガリーの民族料理を堪能した。知人に紹介された音楽留学生のご自宅にあるピアノはKoch&Korseltという、現在では既に無くなっていたハンガリーのレアなブランドで、鍵盤の数は88鍵より少なかった。彼は、そのピアノでカール・ヴァインのピアノソナタなどを弾いて聴かせてくれた。

5月4日セゲド(ハンガリー)出張

イメージ
 結局10ヶ月以上を費やすことになった滞在許可証取得のためには、別途指定のクリニックで健康診断を受けなければならなかった。その健康診断の通知が届き、期日をみてびっくりした。期限は何とその翌日であった!  翌日は午後からハンガリーへ出張でシャルル・ド・ゴール空港からブダペスト行きのチケットをとっていたため、健康診断を延期できないか役所に電話をして交渉してみたが、やはり仕事を増やしたくないのであろう、「だめだ」「明日行くかさもなければ2ヵ月後」の一点張りで、らちがあかなかった。パリに戻ってからでは間に合わないため、どうしてもその日の午前中に健康診断を受けなければならなくなった。更に運の悪いことに、クリニックの場所はとてもアクセスの悪い、不便な場所であった。  当日は朝早起きして出張の荷物を抱えてクリニックに行った。そこで更に、「バスに乗ってどこそこの病院にいってX線写真をとって戻ってくるように」との指示もあり、バスで別の病院へ一往復する羽目になった。ブーツを履いたまま身長体重を測るなど、身体計測も信じられない程いい加減であった。クリニックで順番まちしている間も飛行機に間に合うか心配でドキドキしていたが、幸い全てのプロセスを綱渡りで乗り切り、なんとか出発に間に合うことができた。フランスの役所には常々振り回される。  無事部ブダペストに到着し、市内から電車に乗り換え、無事夕方8時Szeged市に着いた。ハンガリーでは最も著名な生物物理学者、生物物理学研究所のOrmos教授が親切にも駅でお出迎え頂き、彼の車で軽く街を案内して頂いた。今でも語り継がれるティサ川の大洪水の時の話も語って頂いた。Szegedはハンガリーで唯一ノーベル賞が出た町である。戦前にセント=ジェルジ・アルベルトらによりビタミンCが発見され、アルベルトが1937年ノーベル生理学医学賞を受賞したのである。その後、レストランでご当地料理をご馳走になり、日本やフランス、ハンガリーでの研究環境や、軽くお互いの研究の話もした。  Ormos先生が、日本では教授が大学院生をひどくこき使うと聞いたが本当かと聞かれた。自分が修士過程1年に、研究室に所属して約10ヶ月目で胃潰瘍ができたことを話したところ、「Oh my goodness! 胃潰瘍は年寄りがなるものなのに!」とびっくりされていた。日本の研究業界では、胃潰瘍になる

5月1日ランス巡礼

イメージ
 シャンパーニュ地方のランス市には、中学・高校時代を過ごしたラ・サール学園を運営するラ・サール修道会を設立した聖ラ・サールの生家がある。これまで世界各国で、現地のラ・サール修道院を訪れたり宿泊させてもらったりと、卒業後もなにかとお世話になっていた。卒業生として、フランス滞在中に一度は訪れたいと思っていた訪問が実現した。  その日、シャンパン好きの友達5,6人でGare de l’est(東駅)に集合し、シャンパン工場を回るため、シャンパーニュ地方のランス市に向かった。もちろん自分にとっては、母校を運営するラ・サール修道会の創設者である聖ラ・サール修道師(St. Jean-Baptiste de La Salle)の生家を訪問する事が大切な目的でもあった。  お酒を飲む前にまず観光。はじめに聖ラ・サール修道士の生家を訪れた。中学校時代、始めて聖ラ・サールの話を教わってから14年目にして初めて訪問することができ、感無量だった。これまで世界各国のラ・サール会修道院や学校を訪問することもあったが、今回は純粋に巡礼に訪れた感があった。ランスのラ・サール会修道士の案内を受けながら、聖ラ・サールの遺品や昔写真で見たことがあり、脳裏に焼き付いている展示物や部屋を見学しながら、中学校時代に聞かされた聖ラ・サールの使命感と苦難に満ちた活動の上に、私が10代にうけた教育があるのだと思うと、この地と自分の強い結びつきを感じずにはいられなかった。  その後大聖堂を見学してシャンパン工場を回った。Piper-Heidsieckのシャンパン工場を訪れ、シャンパン試飲などを楽しんだ。この工場オーナーの御曹司が何度かお会いしたことがあるピアニストのエリック・ハイドシェック氏であり、数年後に指導を受けることになるフィリップ・アントルモン先生もこの街で生まれ育った。アントルモン先生は、戦前ドイツ軍の爆撃の危険がある中、汽車でパリまでレッスンに通っていたそうである。

4月30日パリで初バスケットボール

イメージ
 ENS(高等師範学校パリ校)の地下体育館を借り、キュリー研の同僚達とバスケットボールを楽しんだ。遊びといっても、皆熱くなり、本気モードでぶつかり合うので、体格で劣る私にとっては、冗談抜きで怪我のリスクの高い遊びである。この日、スウェーデンから来た長身の親友ゲルブランド君の肘鉄を顔面にくらった。かなり痛かったが、幸い大事には至らず、早朝の運動で心身ともにリフレッシュすることができた。その後頻繁に、ENSの体育館やリュクサンブール公園のコートで、日曜の朝バスケットボールをすることになった。仕事でも机に座っての作業が多く、趣味のピアノでも一人で長時間椅子に座ることの多い私にとって、運動は心身の健康を保つために、かつスポーツを通じて友達の輪を広め、同僚達との絆を強めるために必要不可欠な営みである。 (写真は後日リュクサンブール公園にて)

4月29日早朝にトム・ジョンソンから電話

 この頃になると、連日続く研究活動と、パリ滞在の好機を逃すまいとの様々な活動で私のスケジュールは過密を極めていた。週末ともなれば疲れはてていて、土曜の午前中はゆっくり休息をとりたいところだったが、この日はトム・ジョンソン氏からの早朝電話で目を覚ました。   一言目に「昨日電話かけたか?」と聞かれ、かけていなかったので「いや、かけていない」と答えた。次には「ところで「パスカルの三角形(私に弾いて欲しい彼の自慢の作品)」はどこまで弾けた?」と聞かれ、「最近時間がなくてまだ進んでいなくて申し訳ない」と答えた。「是非練習をすすめてくれ」と念をおされた。はじめの「電話かけたか?」は「パスカルの三角形」の話をするために電話をかける言い訳であったのだ。  少なくとも余裕のなかった当時の私にとっては、愛嬌ととらえる程の余裕はなく、彼が私に「パスカルの三角形」を弾いてほしいとの要求は、むしろ重荷となっていた。

4月28日セミナー@Salle Joliot

 ジョリオ=キュリー記念講義室で、IBMチューリッヒの研究者によるセミナーがあった。この講義室にはイレーヌとフレデリック・ジョリオ=キュリー夫妻の写真や実際に使った実験器具などが展示されている。  講演の内容は、超微細粒子のボトムアップ技術についてであった。彼らの技術の中で、単純作業を永遠と続けなければならないプロセスを紹介したところ、ヴィオヴィ先生が"We need a Chinese student to do it"と冗談をおっしゃった。フランス人なら面倒くさがり、絶対にしないであろう頭を使わない単純作業も、中国人はひたすら続けるという、ある種の偏見からの皮肉である。一昔前はJapaneseだったのであろうが、今はChineseなのである。その講義室にいた十数名の研究員、大学院生の中で、その皮肉の意味を即座に理解できたのは先生と私の2人だけだったようで、その場で2人だけで不本意にも噴き出してしまった。アメリカや日本でならば問題になるかもしれない、際どい発言である。悪気があって言った訳ではないのであろうが、未だに色濃く残る人種による偏見の一郭だろうか。

4月27日アルド・チッコリーニ@シャンゼリゼ劇場

 当時84歳と、かなりの高齢なので、早く聴いておかなければ聴けなくなってしまうという思い出かけた巨匠チッコリーニのピアノリサイタル。プログラムはアルベニスの大曲や、アンコールはファリャの「火祭りの踊り」など、とても重量感のある難曲が多かったにも関わらず、殆どミスもなく、乱れることもなく、超人的なテクニックで完璧な演奏と、多彩な音色と表現が放たれる素晴らしい音楽を聴かせてくれた。  この年齢まで、これほどのテクニックを維持していることは超人としかいいようがないが、その後も度々彼の演奏を聴く機会に恵まれ、更に増していく神のような芸術的深みに、ただただ敬服するばかりであった。芸術家に限らず、老齢期まで元気でかつ超一流であり続ける人は、確固としたライフワークと何らかの信念をもっているのだろう。

4月26日シャンタル・リュウ

 晩、シャンタル・リュウ先生のレッスンを受けに、Nogent sur Marneの先生宅を訪問した。何曲かご指導いただいたが、ドビュッシー作曲前奏曲「亜麻色の髪の乙女」をご指導頂いた時、ハンガリーの作曲家、リゲティが作曲した「亜麻色の髪の激怒した乙女」の楽譜を持ち出し、「この曲面白いよ」といいながら弾き出してくれた。コンクールの審査委員をした時に、コンクール出場者が弾いていたのでたまたまコピーを持っていたそうだ。ドビュッシーの原曲と2曲続けて弾いたら面白い、この曲は読むのは簡単だけど音楽的に弾くのはとっても難しいなど、先生の所見を述べて頂いた。先生は譜面を読むだけなら簡単(実際先生は初見で演奏してみせた)とおっしゃっていたが、実際には譜読みするだけでも骨の折れる超難曲である。次回のレッスンの時コピー譜を用意していてくれて、「著作権があるから公にはしないように、"cachez"(隠して)」といってコピーを頂いた。その時、いつか先生のおっしゃるように、ドビュッシーの原曲と2曲続けて演奏したいと思った。それ程時を経ずして、帰国後しばらくした後、アマチュアの演奏会でそれを実現することができた。  5月18日に、先生がレコーディングをしたばかりの、ロッシーニのピアノ小品集のCDが販売されるそうである。ロッシーニの人生、彼がこれらの曲を作曲した時の状況などを、丁寧に、芸術家らしい描写とこれら音楽への愛情をこめて、かついつものように高貴な笑顔で説明してくれた。CD販売が待ち遠しくなった。

4月22日DNA伸長実験成功

 私がキュリー研で目指していた、蛋白質がDNAをねじる運動を観測するためには、DNA一本を引き延ばすことが最初の重要な課題であった。そのため、パリについた直後から、DNAの一端をスライドガラス表面に、もう一端を人口のマイクロ磁気ビーズに貼り付け、磁気ビーズを磁石で上に引き上げることにより、DNAを引き延ばすという仕掛けと顕微鏡が合体した実験セットアップを、自ら手作りでくみ上げていた。  そ して遂にこの日、DNAを引き延ばす実験に成功に成功した。しかし、これもゴールへの長い道のりの第1歩である。実は1ヶ月程前からDNAを引き延ばすことに成功していたようであるが、そのことに気がつかないままであったようである。それもこれも、同僚から聞いた我々の使っているDNAの長さが5マイクロメートルであったのに15マイクロメートルだと聞き間違えていたことが、DNAが引き延ばされていることに気づかなかった原因であった。フランス語の不得手が1カ月の時間ロスを生んでしまった。  成功の噂を聞きつけ、同僚たちが次から次へと実験室を訪れ、質問とお祝い、励ましの言葉をもらった。私がDNAを引き延ばしたというちょっとした騒ぎも、二日程経てばまた皆が忘れてしまったように収まったが、年齢や肩書にではなく純粋に研究成果そのものに正直に反応する彼らの素晴らしい研究文化に触発された。その後6月末に、Rad51タンパク質によるDNAのねじり運動観測に成功した時、今回とは比較にならない程の騒動を体験することになった。

4月15日トム・ジョンソン氏宅訪問

 数ヶ月ぶりにトム・ジョンソン氏宅を訪問した。  今回一緒に訪問したピアニストの知人が、彼の前でラヴェルの名曲「スカルボ」を演奏して聴かせたが、彼がこの有名な曲を知らなかったことに我々は驚愕した。専門のジャンルが違うとはいえ、作曲家で「スカルボ」を知らない人がいるとは、我々には信じがたいことであった。私は、ディヒラー作曲「左手のためのカプリチオ」を演奏したが、彼はこちらの方が、現代曲というだけで気に入ったようである。程なくしてヴァイオリニストの知人が合流し、最後は皆それぞれの楽器の彼の作品の楽譜をお土産にもらった。とりあえず彼のオペラ(?)がバスティーユ劇場で上演されるらしいので、興味本位で見に行ってみたいきもしたが、残念ながら都合が合わず、彼の自信作の上演を見ることができなかった。

4月14日パリ第六大学/ジャック・モノー研究所訪問

イメージ
    午前中はキュリー研で働き、お昼はパリ六大学内にあるジャック・モノー研究所へ、小桧山政経先生の研究室を訪問した。先生の学生さんで、先日ケンブリッジの学会で会った方と3人でランチをし、日本、アメリカ、フランスでの研究環境の違いなどを各々のユーモアを交えながら談笑した。  その後、研究室と実験セットアップなどを見学させてもらい、様々な議論と実験技術に関する情報交換、効率的な働き方などについての議論を行なった。彼女は特に、日本のある研究室で、24時間実験装置を稼働させるため、大学院生3人一組で、それぞれ一日8時間ずつ交代で働かせていたという話しをどこかできいて、日本人は学生をそんなにこきつかうのかとびっくりしたことを語ってくれた。日本の研究現場を知っている私にとっては、2人で12時間ずつ働かせる、でないだけまだマシな研究室だと思った。更に、日本以外の国の大学院生は給与をもらいこれらの仕事をしているのに対し、日本の大学院生は授業料の名目でお金を払っている立場で命令に従っているのである。  その後、小桧山先生とジャック・モノーとの出会いから始まった研究や小生の研究について、小桧山先生とマンツーマンでとても濃い議論をする機会に恵まれた。最後に、先日Science氏から発表された先生らの論文の別刷りを記念に頂いた。労働環境の違いに羨ましさを感じたり、先生の長年にわたる研究にスケールの大きさを感じたり、様々な刺激を受けた後、キュリー研に戻り自分の実験に取り掛かった。

4月12日キュリー研セミナー@マリー・キュリー記念講堂

イメージ
 私にとってキュリー夫人は、幼少期に読んだ自伝で初めてその存在を認識し、家族で見ていたテレビ番組「世界ふしぎ発見」でキュリー一家が築いたその研究所の存在を知り、科学研究に携わるようになってからは歴史上最も重要な科学者の一人であるだけでなく、実際にその研究業績や研究スタイルについて自分なりの意見をもちながらも最も尊敬する科学者の一人であった。そのキュリー夫人が、キュリー研に在籍してからは、歴史上の人物から、今現在自分の研究活動に様々な面で影響を与え続けている研究所の偉大な先達という存在に代わっていた。  キュリー研究所内にはキュリー夫人が使っていた実験室と書斎がそのまま残されており、一家で受賞した多数のノーベル賞の賞状などとともに博物館になっている。その同じ建物の一角にマリー・キュリー記念講堂があり、壁にはキュリー夫人がラジウムの質量を計算した実験ノートの肉筆のファックスや当時のキュリー一家の実験現場を撮影した貴重な写真が飾られている。  この小さな研究所の小さな講堂は、輝かしい歴史とブランドを誇り、毎日のように世界各国から著名な教授や科学者達の招待講演が行われ、誰でも自由に聴講し議論に参加することができた。この日、その講堂で、東大におけるこれまでの研究成果をもとに講演を行う機会に恵まれた。講演題目は”MEMS based microsystems for single molecule measurements”。隣の講堂での著名なロックフェラー大学教授の講演と時間が重なってしまったため集客を心配していたが、一般に開放された講演でもあり、キュリー研究所の同僚・先生方のみならず、パリ6 大学名誉教授でジャック・モノー研究所の小桧山教授ら、外部の知人もいらしてくれた。  講演終了後、小桧山先生から「君の発表スタイルは東大スタイルだ。アメリカではいいが、ヨーロッパではダメだ。京大の奴らにも嫌われるだろう。」と、今までうけたことのないアドバイスを頂いた。これは研究成果をアピールする程度についての助言であり、東京大学やアメリカでは研究成果を強くアピールする文化があり、京都大学やヨーロッパの方々からみると自慢しているように映るそうである。貴重なアドバイスであると同時に、先生が生きた時代の学閥意識の強さを改めて実感した。また、色々な国籍の方々から色々な視点で、実際の研究内