2008年3月第一回Hope meeting リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 6月 14, 2015 1973年ジョセフソンらと、ノーベル物理学賞を受賞した江崎 玲於奈博士からメダルと賞状を頂きました。 白川英樹先生(2000年ノーベル化学賞)は見た目通り、本当に仏様でした。 グループリーダーとしてノーベル賞受賞者、ノーベル賞審査委員の先生達に向かってプレゼン。緊張しました。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2009年8月1日Musée Maurice Ravel@Ville de Montfort-l’Amaury - 2月 27, 2014 ピアニストの岩崎セツ子氏に、パリに滞在中に是非一度は訪れなさいと勧められていた場所の一つで、以前から一度は訪問したいと願っていた作曲家モーリス・ラヴェルの住んでいた家に向かった。駅から遠く、タクシーも通らない田舎にあるため、小旅行かハイキングの感覚で訪れた。 その日は来客も少なく、とても気さくな管理人のおばさんが、ゆっくり丁寧に家中を案内してくれた。どの部屋もそれぞれの色やテーマがあるようで、それぞれの部屋がそれぞれ独立した不思議の国とでもいえそうな、また中庭は日本庭園の様式で、まさしく芸術家による趣味を凝らした自宅であった。 我々はピアノ弾きだという話をしたら、ラヴェルの作曲部屋にあった展示品であるはずのラヴェルが作曲で使っていたピアノを、親切にも弾いてみてくれと、触らせて頂いた。エラール社製のピアノで、同時代のプレイエル程の軽いタッチだった。このような機会があるとわかっていれば、ラヴェルの曲の一曲は練習してきたかったが、レパートリーになかったため、プーランクの小品を3曲弾かせて頂いた。管理人のマダムも、日本人科学者がラヴェルのピアノでプーランクの曲を演奏するのを、楽しげに聴いてくれた。 続きを読む
6月30日~7月3日ワルシャワ旅行 - 7月 28, 2012 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。これまでに何度か渡航を計画しては、毎回旅程を延期していたため、今度こそはと三度目の正直の強行スケジュールだった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように、慎重を期した計画の上で市内を観光した。観光も仕事と同様、限られた時間と体力(時には資金)のもとで、できるだけ多くを体験し、多くの物にふれ、多くを吸収しようとしていた当時の私にとって、時間と体力の浪費を最小限にとどめるよう観光プランを立てることは、最重要課題の一つになっていた。 訪問の主な目的は、私にとってのポーランド出身の三大偉人であるショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませることだった。飛行機の中やホテルで寝る前に、その世界になるべく近づくべく最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いていた。 初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日行われたショパン国際音楽コンクールの審査員らの裏話を聞いたり、友人のワルシャワでの生活について話を聞いたり、会話を楽しんだ。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚に対する嗜好を確認すべく、ビッグマックを食べた。その現地に住む人の食に対する嗜好を一番手っ取り早く確認するには、全世界ほぼどの国にでもあるマクドナルドの定番メニューを食べるとよいと言われている。現地人の嗜好に、ある程度カスタマイズされているからである。 二日目は一人で観光に向かった。ショパン博物館には昔から書物などでよく見かけたショパンの絵やショパンの愛用したピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながら空いていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例しているというのが私の持論の一つであるが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国程度という感じだろうか。国土の広さに対する国力の弱さの対照が、この国と民族の数々の歴史的悲劇を際立たせてきたのであろうか。キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究... 続きを読む
12月5日オリヴィエ・ギャルドンを知る; 12月6日バドゥラ=スコダ@Salle Gaveau - 4月 12, 2012 その日、沖縄在住の世界的ピアニスト、岩崎セツ子氏から一通の電子メールが届いた。 「ギャルドン先生にメールしなさい。私の方からも紹介しておきます」と。 私はこのメッセージの重みを全く理解していなかった。私は不遜にもこの時初めて彼の名前、そしてこのギャルドン氏がフランス屈指のピアニスト、ピアノ教師であり、彼に習うことを切望する音楽留学生が世界中から大挙してパリを目指す程の音楽家であることを知った。しばしば音楽留学生の友人達との会話の中で、「ギャルドン先生に習っている」といった時の周囲から驚かれる様子から、次第に彼に習う機会の貴重さ、生徒としての責任の重さを実感するようになっていった。とにもかくにも、これを機に、彼が私のピアノの師となった。 私はそれまで多くの方々に応援、サポートを頂き、ピアノを続けてきたが、その中でもやはり大御所ピアニストからのサポートは大きな転機を生むことが多かった。パリで長年活躍し、沖縄県立芸術大学が設立された際、教授として迎えられ、長年後進の指導にあたっていた高名なピアニスト、岩崎セツ子氏もその一人であった。 私がまだ幼少の頃、岩崎セツ子という世界的ピアニストが沖縄に赴任したことは、沖縄社会にそれなりのインパクトがあったようである。クラシック音楽とは全く無縁であった両親に連れられて聴きに行った唯一の演奏会が、岩崎セツ子氏とアンサンブル金沢による演奏会であった。当時ピアノや音楽に全く興味がなかった私は、ただオーケストラを後ろに従えた女王の様にピアノに向かう岩崎氏の姿と、そのピアノがいかに高価なものであったかを両親から聞かされたことのみ覚えている。生涯初めての演奏会で見た岩崎氏と、その後ピアノを始めたことにより、十数年の時を経て面識をもつようになるとは、人の縁とは予想のできないものだ。2004年の初春、沖縄県立芸術大学の教授室に招待され、岩崎氏と彼女の生徒達を前にピアノを弾くという形で再会を果たした。 その場をアレンジするために尽力頂いたのは、小学生の頃初めて通ったピアノ教室を主宰していた宮城氏であり、アメリカで大ヒットした映画「ベストキッド(通称カラテキッド)」に登場する沖縄出身の空手家宮城氏のモデルとなった、琉球政府、沖縄県を代表する空手家、実業家、宮城嗣吉氏の義娘であった。嗣吉氏亡き後、首里の宮城邸を改装した料亭「御... 続きを読む
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