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6月11日ワイマール

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 この日は知人夫妻と鉄道で文化の都ワイマールへ。リストやメンデルスゾーンが宿泊していたホテル・エレファント前の広場で昼食をとり、フンメル、シラー、ゲーテのお墓参りをした。一番楽しみにしていたリスト博物館は残念ながら閉館していた。ここは個人の所有物なので、持ち主の気まぐれにしか開館しないそうである。ここを訪れたというリストファンの知人を何人か知っているが、その中で館内を見物できた人の話はまだ聞いたことがない。かつてリストが住んでいたこの住宅は、何度も写真でみたことがあり、この地に来たことをゆっくりかみしめ、残念ではあったが次の機会に思いを託した。運の悪いことに、シュバイツァー博物館も閉まっていたが、小道を歩いていると突然ポーランドの詩人ミケウィッチの胸像が現れるなど、まさしく様々な文化人の痕跡に出会うことのできる、文化の都にふさわしい街だ った。  パリの職場ではイタリア人に囲まれた生活を送り、ラテン系の文化や感覚に馴染んでいた私にとって、日本人が特に科学と音楽において明治時代から取り入れてきたゲルマン文化の崇高さと偉大さを思い出させてくれる旅だった。

6月10日キュリー発ベルリン

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 日本人研究者にとって「徹夜で実験」は、何度も経験せざるを得ない通過儀礼みたいなものである。日本とは違い、毎日皆が6時に帰るフランスで、前日晩から初めて泊まりがけで実験をしてみた。徹夜をする必要があったからではない。翌日ベルリンへ旅行に出かける電車の発車時刻が早かったため、研究所から直接駅へ向かった方が早かったからである。  おそらく人生で一度しか経験することがないであろう深夜のキュリー研究所内は幽霊屋敷のような雰囲気で、中庭のキュリー夫妻像が不気味に佇んでいた。日本人研究者の気質が抜けていなかったからであろうか、まるでサボっていないか監視されているかのような霊気を感じた。午前3時まで実験をし、一時間居室の床で仮眠をとり、4時にキュリー研を出発。週末をベルリンの知人宅で過ごすため、オルリー空港から6時すぎの飛行機でベルリンに向かった。  知人の調律師夫妻も音楽通であったため、2夜連続でベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏をカラヤンホールで、しかも同じプログラムで鑑賞した。知人の計らいで、ホールの後ろの隅っこであるが、値段が安くかつ音の届きが一番よいという席で聴くことができた。良い耳をもった者だけが知る穴場ともいうべき席だった。最初の音が鳴った瞬間から、他のオーケストラとは比較にならないほど調和のとれた音に、特に弦楽器における均質性に度肝をぬかれた。一流の指揮者のもとで団員が気のりした時は見事な色彩を見せるが、そうでない時はそれぞれが気ままに弾いているように感じるフランスのオーケストラを聴きなれていた私にとっては、これだけでも驚愕に値した。ベートーベンのピアノ協奏曲第3番を弾いたラドゥ・ルプーのピアノも東京で聴いて以来だったが、カラヤンホールでベルリンフィルとの共演は趣が全く違った。

6月6日小さなソナタ

 キュリー研宛てに、めずらしく大きめの封筒が郵送されてきた。送り主はフレデリック・ジェフスキ。最近彼とは何もコンタクトをとっていなかったが、中身が何であるか、手に取る前に直感でわかった。またその封筒の薄さに少し安堵した。開封すると3枚の五線紙が入っていて、冒頭には"NANO SONATA" Frederic Rzewski for Hideyuki Arata (May 2006)。後になって振り返ると、人生で最も光栄な出来事の一つであってもおかしくなかったが、なぜか全く興奮もせず、とりあえずコピーをとっておき、また仕事に戻って深夜まで淡々と実験を続けた。  先日、私が3年かけて完成させた研究を凝縮した3ページの論文が米国の学会誌から発表され、知の師匠ともいえる旧友のジェフスキ氏に献呈した。その研究の実験映像をブリュッセルのジェフスキ氏宅で見せた時のインスピレーションを基に作曲した、たった3ページのピアノソナタだった。おそらく3時間程度の短い時間で即興的に書きあげたのだろう。彼の2番目のソナタである(1番目は1時間くらいの大曲)。数年後、オフィシャルな告知で「Hideyukiに、テクニック的にはある程度挑戦的で、しかし練習にそれ程時間のかからない曲を書こうと思った。」と発言していたことが分かった。過去に何度もピアノを弾きあった仲であり、私の演奏技術の未熟さと仕事の多忙ぶりをご存知の上での、何とも親切で教育的な配慮であろう。  仕事が忙しかったこと、ピアニストの先生方とは勉強中の他の曲で手いっぱいであったこと、曲の難易度が高かったことや、大作曲家が自分のために書いてくれた曲を弾くことの重圧に、しばらくは譜読みを始められなかった。日本に帰国後、本格的に練習を始め、2007年秋にアマチュアの演奏会で、トム・ジョンソン氏の「パスカルの三角形」と共に、初演することになった。個人的には仲良くしていた旧友からの素敵な贈り物に当然嬉しく、作曲者への感謝の念でいっぱいであったが、その作曲者がジェフスキ氏であったことから、この時から私は「ジェフスキ氏にインスピレーションを与えてナノソナタを作曲するに至らしめた科学者」として、科学史ではなく音楽史に少なからず名を残すことになった。

6月4日ルーブル美術館

  日曜休日。フランスでは、第一日曜は国立の美術館、博物館が全て無料である。この日はルーブル美術館を回った。「モナ・リザ」や、「ナポレオンの戴冠式」など、幼少期にここを訪れた時の記憶がのこる絵画達と、20年ぶりに対面した。20年前は、「モナ・リザ」は他の絵と同様、壁にかけられていたが、この絵だけが唯一ガラスケースで覆われていたことを覚えている。今では「モナ・リザ」だけ部屋の中央に、特別な壁が用意され、厳重な警備つきで保護されていた。また、当時は館内を巡る観光客の人数も少なく、比較的静かだったことを覚えているが、今ではアジア人観光客でごった返している。パリの街と作品らは変わっていなかったが、白人の中に唯一のアジア系として日本人が市民権を得ていた時代から、中国人、韓国人、アラブ系、アフリカ系が移住を目指して押し寄せてくる時代へ、社会は大きく変わっている。

5月31日ジャック・モノー追悼セミナー@パスツール研究所:アルフレット・ブレンデル@シャトレ劇場

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 ルイ・パスツール、ピエール&マリー・キュリーと並びフランス科学史上最も重要な科学者に位置付けられるジャック・モノーの没後30 年を記念して、パスツール研究所内ジャック・モノー記念講堂で追悼セミナーが行われ、キュリー研究所の職員には招待案内が回ってきたので1年ぶりにパスツール研究所を訪れた。壁にはチェロを弾くモノーの写真があった。職務外活動の写真をこのような場所に掲げることが「不謹慎」とならないあたりも、フランスらしい。招待講演はDNA二重螺旋構造発見者のフランシス・クリックと共同でDNA暗号解析に携わったシドニー・ブレナー(後に別の研究でノーベル生医学賞受賞)や、モノーと共にノーベル賞を受賞したフランソワ・ジャコブら、モノーとパスツール研究所で研究をしたことのある錚々たる面々であった。ジャコブ博士はもはや歴史上の人物であり、まだご存命であったことすら知らなかった。まるでシーラカンスを見ているかのような感覚だった。ちょうど先日、シャンゼリゼ劇場の客席で、もはや歴史的作曲家の仲間入りを果たしているアンリ・デュティユーを目撃した時と同じ感覚だった。   ブレナー博士は沖縄科学技術大学院大学(OIST)の初代学長に担ぎ上げられていたので、講演後挨拶をして少し議論を交わした後、自分が沖縄出身であることを話した。大学院大学の学長になるのかと伺ったところ、彼は「No! そんな気はない。ただ立ち上げ段階で助言をするだけで、それ以外何もする気はない。あとはすきにさせればいい。」と一蹴された。彼を学長として担ぎ上げる日本政府による公的発表からは予想すらできない発言である。ノーベル賞受賞者という肩書きがある人を学長に据えなければという事情は分からなくはないが、本人の意思とここまで異なる話がまかり通るのか。案の定、後日ブレナー博士が「学長を降りた」という噂を沖縄経由で知ることになった。またその後、再び学長に収まったという話も聞いた。  晩はシャトレ劇場でアルフレット・ブレンデルのピアノリサイタル。彼のピアノを聴くのは最後になるだろう。

5月30日ヴィオヴィ論「芸術と科学」

 この日は久しぶりに研究室主催者である大ボスのヴィオヴィ先生とランチをとり、その後キュリー研のキャンティン(カフェ)でコーヒーを飲みながら、私が取り組んでいる研究プロジェクトの進捗状況と今後のビジョンについて議論を交わした。まだ目に見える成果が出ていないため、また私の帰国が数か月後に迫っているため、そろそろ大学院生のピエール君にプロジェクトの引継ぎを初めてはどうかという話をされた。ちょっと悔しい話しではあるが、滞在を延期することは東大側から認められるとは思えず、一旦東京に帰った後、再度パリに戻ってくるためには2年近く拘束されるであろうことを考えると、仕方のない事なのかもしれない。ビッグボスによくある話しではあるが、彼はこのプロジェクトはすぐに結果が出て終わると思っていたらしい。どこまでの結果を期待して、どの程度で終える予定だったのであろうか。その後、誰も予想だにしなかった成功をおさめた事を考えると、今となってはどうでもよいことである。  その日の会話で、先生の奥様が画家であるという話を聞いた際、先生が「芸術は評価が主観的でかつ他人によってなされるので、芸術を生業とすれば、自分の仕事は死後にしか認められない可能性だってある。一方で、科学は評価が客観的で、ある程度はcriteria(判断基準)があるので、科学を生業とする方が、自分が生きている間に成功することを望む場合、効率的な選択肢なのかもしれない。」と、知的な文化人らしい発言をされた。私も全く同感である。ここでは深い洞察と高い教養が尊重されるのと対照的に、日本の研究者の間では研究馬鹿であることが良しとされ、思考よりも知識が重んじられる傾向にあるのかもしれない。   帰宅途中、ノートルダム寺院でパイプオルガンの演奏を聴いた。

5月27日モネ作「睡蓮」

 土曜休日。かつてはリストやサン=サーンスが弾いていたマドレーヌ寺院のオルガンの演奏を聴き、先日ジグマノフスキ氏に勧められたモネの睡蓮をみるためにオランジェリー美術館へ向かった。観光客で混雑していたため、入館まで1時間も待つ羽目になった。モネの「睡蓮」に行きつくまでにも、ルノワールやピカソの素晴らしい絵画に釘づけになった。肝心の「睡蓮」が展示されている部屋にたどり着いた時は、既におなか一杯になっていた。そのせいもあってか、「睡蓮」をじっくり鑑賞し、自分なりのものを吸収するには、この日限りにおいては消化不良と言わざるをえなかった。もしくは、もっと感性を磨く必要があったのかもしれない。   その帰り、グラン・パレ内の科学技術博物館「発見の殿堂」へ立ち寄った。グラン・パレは1900年のパリ万国博覧会のために建てられた、その名の通りお城のような建築物の展示会場である。古風で芸術的な建築物の中に、最先端科学技術の展示が常設されている。「科学が否定しようとすることを、芸術は喚起しようとする」とは誰の言葉だったか、一見かけ離れた世界であるかのような、若しくはお互い否定しあうかのような芸術と科学が、無理やり押し込められたように混在している空間に、何とも言えない違和感を感じたと同時に、温故知新、古い伝統と文化を守りつつイノベーションを起こしながら絶えず未来に向かって変革していかねばならないヨーロッパのおかれた立場を体現しているかのようであった。