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3月14日仁田賞

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    当時まだ東京大学大学院の博士課程に籍を置いていたため、とあるセミナーでの発表義務があり、一時帰国していた。その時私が東京大学で行った発表に対し仁田記念賞受賞が内定していたらしいことを、パリに戻ったその日に知った。しかし、残念なことに、東京から受けたのは良い知らせではなかった。  当日、私が発表を終えた 後、教授達の間では受賞内定が固まっていたが、翌日パリに戻らないといけなかったため、私はセミナー会場を早めに退席していたのである。セミナーが終了し、受賞を発表しようとした際、受賞内定者である私が不在であったことに気づいた教授陣が、セミナー早退はけしからんということでお怒りになり、受賞取り消しということになったそうである。日本では仕事の内容よりも態度や精神論が優先される、 そのことをパリに戻ったその日に再確認させられた。受賞が内定していなければ、きっと私が早退したことなど誰も気づかず、先生方の機嫌を損ねることもなかったであろう。福が転じて災いとなる(?)とでもいうべき逸話である。パリに戻るために早退したのであるから仕方のないことであったが、前もって申し開きをするなど、何かしら対応はあっただろうと反省。日本で生きていく予定であるからには、今後このような事態にうまく対応できるよう精進していきたいと思った。  この逸話を早速職場でカペロ先生に話したところ「孫にも語れるネタだね」と笑ってくれた。日本人とイタリア人の反応の違いを、今更ながら興味深く感じた。

3月12日Academie Internationale d’ete de Nice

  音楽留学生達は通常、夏のバカンスシーズンには各地の、主にリゾート地で行われる講習会に参加して各々腕を磨くということを、この日ピアノ留学中の知人から聞いた。後年流行った漫画「のだめカンタービレ」でもその様子が描かれている。夏は研究所もバカンスで長い休みに入るため、旅行だけで過ごすには長すぎる。これらの講習会がどういうものかもわからないまま、知人の「先生に聞いてみたら?」の軽い勧めがきっかけで、後日ギャルドン先生に話を持ち掛けたところ、ご自身も講師として参加するニース音楽院夏季講習会を勧められた。これまで音楽大学生や卒業生に交じって演奏したり、レッスンを受ける事はしばしばあったが、これら国際的に有名で、世界中から優秀な若手音楽家が集まると聞いていた講習会に参加することは大変な冒険であった。だが、先生が気軽に来いというのなら参加してもよいのであろうと思い、その夏ニース音楽院にでの講習会に参加したことがきっかけで、その後フランスで過ごした3回の夏のバカンスシーズンは、これらの講習会に参加することになり、さらにピアノに深入りしていくことになった。  これらの講習会でパスカル・ロジェ、フィリップ・アントルモン、ガブリエル・タッキーノら名ピアニスト達のクラスで指導を受けることになったことを思い返すと、知人の軽い一言が私に与えた影響は大変大きかった。

3月2日シャンタル・リュウ&CNRマルメゾン校オケ

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 パリ郊外にあるCNR(現CRR:国立地方音楽院)マルメゾン校へ、学校のオーケストラとそこでピアノ科の教授を務めるシャンタル・リュウ先生によるモーツァルトのピアノ協奏曲を聴きに行った。オーケストラには当校に留学中の知人のヴァイオリニストも出演していた。先生のピアノからは品格を保った強い意思が感じられた。アンコールには先日レッスンで見ていただいたばかりのショパンのノクターンを演奏された。終演後挨拶に伺ったところ、ご年配の男性方(先生のファンクラブ?)に囲まれていて、話しかけるのが難しかった。アンコールで先日レッスンでみて頂いたショパンを弾きましたね、とお話をしたところ”C’est pour vous !”(あなたの為よ)と気前良くリップサービスを頂いた。

2月22日~26日国際アマチュアピアノコンクール

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   毎年パリで開催されるアマチュアを対象とした国際コンクール。但しアマチュアの定義が日本とは異なり、「音大で学び、演奏活動をしていても、それで生計を立てていなければよい。」であり、音楽大学の卒業生で他の職に就いている人も多く参加していた。日本からは知人も多数出演しており、久しぶりの再会を喜んだ。毎晩世界中から集まった多国籍、異業種の出演者達と、ピアノという共通の話題を通じそれぞれの生活や文化的背景に触れることができ、世界が広がったような体験だった。  1次予選の会場たまたま隣に座っていたご夫人と話しをしていたところ、ギャルドン先生の話になり、彼に習うきっかけは岩崎セツ子氏の紹介であったことを伝えると、「セツ子を知っているの!?」と。彼女は国立高等音楽院パリ校の名教師、ピエール・サンカンのクラスに在籍し、一緒に勉強した仲だというのだ。そのクラスには当時ギャルドン先生を含め、ジャン=フィリップ・コラール、ミシェル・ベロフ、ジャック・ルヴィエら、現在フランスのピアノ界の大御所が一同に会していた伝説のクラスである。でもその方はその後ピアノをやめてテニスのコーチとして過ごし、引退後またピアノを再開したそうだ。様々な人がそれぞれの人生の中それぞれの目的や生活スタイルでピアノを弾いている。そのご夫人はその場で手紙を書き、「これをセツ子に渡してくれ。」と頼まれた。しばらく帰国する予定がなかったので、岩崎セツ子氏に自分からも手紙を書き、パリから沖縄へ、彼女の手紙を郵送した。当時サンカン先生は痴呆が進行し、死の床についておられたそうで、残念ながら後日その訃報を聴くことになった。    その日の出演者で一番お上手だったのは中国系カナダ人男性で、前回のショパンコンクール(プロの部門)にカナダ代表で出場していたそうだ。日本でいうところのプロも多く参加していた。2次予選はソルボンヌ大講堂。ちなみにこの講堂で講演を許された最初の女性はキュリー夫人だったそうである。さらに、決勝はサル・ガヴォーで行われるという、とても華やかなコンクールである。また、決勝はフランスを代表するピアニスト達が審査員を勤め、過去にはアレクシス・ワイセンベルグ、アルド・チッコリーニら、今は亡き歴史的大ピアニスト達も審査員を務めたそうである。ギャルドン先生もよりによって今年だけ審査員をされていた。後で知人から聞いた話であ...

2月20日ギャルドン先生レッスン

  知人の話によると、CNR(パリ国立地方音楽院)の先生達にはそれぞれガリガリ先生、カバ先生、まゆ毛先生などのあだ名があるそうです。ちなみにギャルドン先生はまゆ毛先生。  午前中お休みを頂き、ご自宅でレッスンを受けてきた。何故か今日は先生も興奮していて、三拍子の拍の取り方を、ワルツダンスを踊りながら説明して頂いたりと、なかなか熱いレッスンだった。先生も一般的なフランス人芸術家同様、気分屋であり、その日の機嫌でレッスンの雰囲気も相当左右される。但し、レッスンを途中で辞めたり、ドタキャンするなど、フランス人にありがちないい加減さはなく、レッスン内容は常に密度の濃いものであった。その日は、持参した楽譜と別の版の楽譜にかかれた音と比較し、音を直したり、指使い変えられたり、また新しいテクニックを教わった。彼は最小限のエネルギーで指の回る(速く正確に弾くことができるテクニックをもっていることを、ピアノ留学生の間では「指が回る」という)メソッドを持っており、それを教授する能力に長けていた。毎回レッスン後は、何年分ものピアノに対する知見と、音楽的に大切なものを得られたような満足感をえることができる。

2月18日土曜休日:パリ症候群

 午後はシャンタル・リュウ先生の二度目のレッスンを受け、晩は東京での学生時代からの知人宅でフェット(いわゆる飲み会)に参加した。今夜のフェットで、今回一度目のパリ滞在を共に過ごす主要メンバーと知り合うことになった。フランスに赴任する日本人男性はしばしば、職場では黄色人種だという理由で馬鹿にされ、プライベートでは友達もできず、八方塞がりになってしまう、いわゆる男性版パリ症候群になる人も多いと聞いていたが、今思えば私は公私ともにどれだけ恵まれていたことか。当時の同僚や友人達、また彼らと出会うきっかけを与えてくれた科学と音楽には、感謝してもしすぎることはない。

2月16日、17日キュリー研での討論

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    同僚のMartial君に、彼が開発した光ピンセット実験装置を見せてもらいながら、その設計や動作原理を色々と教えてもらった。17日は自分の研究について、共同研究者であるミネ博士とカペロ博士との討論を行ったが、知的遊戯と言ってもよいものか、自由な発想をお互いに出し合い、それらをブレンドして何らかの知的産物を生むその議論は、なんともいえない楽しさがあった。相手の年齢や立場を気にしながら発言をするため、自由な発想はむしろ叱責の対象となっていた日本での研究討論を楽しいと思った事がなかった私にとってはあまりにも新鮮であった。これこそがキュリー一家から続く伝統ある知の生産方法なのであろうか。ソルボンヌに通い始めた話をしたところ、イデーがフランス語を始めたと喜んでくれた。ちなみにイデーとは、私のファーストネームの省略系Hideのフランス語発音で、アイディアを現すフランス語idéeと同じ発音であるため、私はこの愛称を気に入っていた。  討論は4階にあるこじんまりしたカフェで頻繁に行なわれた。壁に貼られたホワイトボードには、数々の研究者たちの即興的な発想による数式や、抽象的な落書きが所狭しとかきこまれている。科学雑誌が置かれた机一つとコーヒーマシンが置かれただけのこの小部屋から、どれだけの知が生み出されてきたことか。この何とも愛してやまない雰囲気で、同僚たちとコーヒーを飲みながら数々の輝かしい成果に結実したアイデイアが生まれたのであろう。実験に疲れた時、しばしばこの部屋で、ラバザーのエスプレッソを片手に一人たたずむことが習慣となった。その部屋にいるだけで、先達や同僚らが振り撒く知性の粉を浴びているような感覚になれた。